アブラハムはアビメレクに対し、サラのことを、自分の妻なのに妹だと偽って「進呈する」という失態を演じます。これは以前犯したのと同じ失敗でした。なぜこんなことになったのか。それは恐れによるものでした。アビメレクは決して変な奴ではなかったのに、アブラハムは勝手な妄想を描いて、ありもしない恐れを自分で作り出したのです。 逆にアビメレクは全能の神、それも自分の幸せを考えてくださり、自分を信頼してくださる神との出会いを通して人格的に変えられ、アブラハムに対しても紳士的にふるまいます。それに対してアブラハムには、信仰の父としての立派さはみじんもない。でもこの「罪びと」アブラハムが、アビメレクの家のために祈るわけです。するとその祈りは聞かれ、アビメレクの家の女性たちの胎は開かれるのです。 罪を犯した相手のことでも祈れるのがクリスチャン。それは、僕たちを通して世界を祝福するのが神のご計画だからです。ダメな僕らを見ても、神はあきらめておられないということ。十字架にかかる前、主はペテロに「立ち直ったら兄弟たちを力づけよ」と、罪の赦しを差し出されました。僕らは自分にがっかりすることだらけです。でも神はその失敗も織り込み済みで、その後の、他者を執り成す者としての務めに、僕らを任じておられるのです。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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イエスは「父の家には住む所がたくさんある。しかしまだ用意ができていない。それが用意できたらあなたがたを呼びに来る」と言われました。あるのに用意がされていないとはどういうことなのでしょう。これは父の身元に至るには、イエスの十字架の死と復活という行き来が必要だということです。イエスという「道」が用意されていないと、僕たちだけではそこにたどり着けないのです。 「主よ、どこにおいでになるんですか?」とペテロは叫びました。が、それをもう問わなくていい時が来たのです。それはよみがえりのイエスが三たびペテロに「わたしを愛するか」と問い、「わたしの羊と飼いなさい」と言われた時でした。自分の十字架を示され、弟子としてそれを負うと決めた時、それまで経験したことのない安息と、今まさに神の役に立っているという確かな喜びを知るのです。 イエスは「わたしを信じるなら、さらに大きなわざを行う」とも言われました。それは自分たちの罪が、祈りを通して癒され赦され続ける時、その傷口を通してキリストの愛が流れ出て人を癒し続けるということ。あんな事さえなければと思うような傷が、僕らの人生の中で神の奇跡を起こしていくのです。そのために必要なのは祈りです。祈りがなければ何も起こらないし、祈りのあるところには僕らの想像を超えたミステリーが用意されているのです。
- タグ ヨハネの福音書
事情が変われば言うことも変わるのが僕たちです。が、主イエスはあるがままに受け入れてくださる方。神の創造に失敗作はありません。僕らにとっては×(ぺけ)を付けることの多い自分ですが、神にとってはすべてが〇(まる)。だから僕らに対する神のこの「しかり」を僕たちが受け取り、握って離さない時、そこに新しい世界が始まるのです。 「愛はすべてを耐え、すべてを信じ、全てを望み、すべてを忍ぶ」とは、愛ゆえに信じて望んで耐える時、そこに不思議が生じるということ。99%は見えない世界であり、十字架は自由意思。負っても負わなくてもいいものです。でもその十字架をあえて負い、障害のある子を「障害を持って生まれて来た我が子」として肯定して受け入れ、愛し続けるなら、その愛の決断は家族を本当の家族に成長させてくれるのです。 「この人に神の業があらわるため」とは、これまで歩んできた道を主がよしとされるなら、この人はこの後どんな生き方もできる様になり、そこに神の業が現れるということ。「この方には『しかり』だけがある」とは、神がすでに受け入れているのだから、あなたも自分のことをそのまま愛せよということ。ペテロが岩の人生を歩み、ザアカイがその名の通り正しい人になった如く、すべてを肯定するイエスに出会うとき、僕らは自分の人生を自分らしく歩めるようになるのです。
- タグ Ⅱコリント
クリスマスには大きな恐れがありました。それは天使の光が羊飼いたちを明るく照らしたことから始まります。僕たちは罪ある者、それゆえに神の光に照らし出されることを嫌うのです。僕たちの人生には恐れが満ちています。でも天使は、恐れなくていいと言います。それは、この主の到来は、さばきの到来ではないからです。 クリスマスは大きな喜び到来でした。お生まれになった救い主は、私達のための救い主だったからです。メシアの到来を長い間待ち望んだイスラエルの民に与えられたプレゼントは、神ご自身という最高のプレゼントだったのです。そして、全人類の救い主がお生まれになったその出来事は、実に静かな出来事でした。本当のよろこびは静かなのです。 主は33年の生涯の中で、全てのぎりぎりを経験されました。だから今ぎりぎりのところにある僕らの辛さを知っておられるのです。クリスマスの喜びは、このイエスをわが救い主としてお迎えした喜びです。コロナ、体調不良、ハイパーインフレ、戦争、あらゆる競争の激化と、世には恐れが満ちています。が、イエス我が涙を知り給う。このイエスの胸に飛び込めるという幸いに感謝しましょう。
- タグ ルカの福音書
人類の歴史はBCとADで分かれていますが、ADはラテン語の「主の年」の短縮形。教会の存在は、主が来られた証しです。主は「わたしにはあなたがたの知らない食物がある」と言われました。神のために働く者には、イエスと同じ「食物」、神の助けが与えられるのです。 ヘロデ王は、権力欲と猜疑心の塊でしたが、その取り巻き、エルサレムの人たちも「王と同じだった」と聖書は言います。ヘロデが失う事を恐れたように、彼らも自分の今持っている地位、特権、お金を失う事を恐れたのです。さて僕らの心の中にこのヘロデ王はいないでしょうか。 メシアと出会って、今持っているものを手放して、新しい旅、危険な旅に出るか、それともこれまでの自分に留まるか。これを鋭く問いかけて来るのがクリスマスです。自己中心のままでは、キリストを礼拝し、真の交わりに生きることはできないのです。 あなたは最終的に何を求めていますか。主は再びこの世に来られます。僕らは今、主の再臨を待ち望む待降節、アドベントに生きています。あなたもこのクリスマス、持っているものを手放してメシアと出会う旅に出ませんか。「主よ、来たりませ」と再臨の主を待ち望みつつ。
- タグ マタイの福音書
愛するマリアが妊娠!?なんというショックでしょう。「それは聖霊によるって?そんなこと誰が信じれるものか!いったいどう離縁するのが自分にとって正しい道か?」セルフトークの連続だったヨセフは、この時、「神なき正しさ」に生き、でもそれでは解決できない問題の中で、悶死寸前だったはずです。 世の理屈では離縁が正解でしょう。が、その時、神の視点が与えられます。「この子はご自分の民を罪から救う神の子だ」と。自分は正しい者と思ってきたが、その「正しさ」ゆえにマリアを切り捨てる、その程度の男だったことにヨセフは気づきます。自分の愛の無さと自己中心に気付いた時、彼は、そんな罪びとのために御子を送ろうとしておられる神の愛を知るのです。 神の子がこれまでの在り方を自ら破壊し、この世に人として生まれ、33年生きたうえで十字架に死んで復活し、全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられる。その御子を迎えるクリスマスがやって来ます。光から闇への危険な旅。僕たちもこの主を迎えるにあたって、自分の殻にとどまることなく、自らの大変革を恐れず、お迎えいしたいとおもいます。 神は愛する者に自由を与えます。アダムも、アブラハムも、マリアとヨセフも、神の側を取るか、反対側を取るかについて自由に選べました。僕らもすべてが自由。これが神の愛し方です。そしてこの自由の中で何を選ぶかで僕らの人生は決まって来ます。この神の愛に驚くとき、僕らの選ぶべき道もおのずと決まって来るのではないでしょうか。
- タグ マタイの福音書
さばきは主の専売特許。でもそのさばきに口をはさむことを、言い換えれば、盾突くことを、主はアブラハムに期待されました。ソドムの町の罪を赦すにはこれだけの正しい人が居ることが条件という「数字」を、主は50人からどんどん減らし、最後は「10人いるなら滅ぼさない」と約束されます。 ソドムの罪は、貧しい人々、弱い人々に手を差し伸べず、弱肉強食が横行していたことだと聖書は語ります。では今の日本はどうでしょう。パワハラによる自死があっても組織を守る、保育園では幼児の逆さづりが発生する、いじめ、虐待は日常茶飯事という、まるでソドムのような日本。この国のためにとりなして祈ることを、主は今、我々に期待しておられます。 でも私たちのとりなしでは救えないという現実があります。ソドムはアブラハムのとりなしにかかわらず滅んだからです。実は、私たちは救われないとダメな罪びと、ソドムの住人なのです。でもこのような私たちの真のとりなし手として送られたのが、主イエスキリストでした。 敵であった私たちのために、体を張って命を注いでくださった主がおられたことで、今の自分がある。それゆえ私たちは自分の敵としか思えないような人のためにもとりなすことができるのです。とりなすことは、主に似た者に変えられつつあることの証し。今も降り注ぐイエスのあわれみを受け、とりなす者として新しい週も遣わされて行きましょう。
- タグ 創世記
アモンは悪王だったが、その後のヨシヤ王は善政を行い、宗教改革を断行した。そのもとになったのが、このゼパニヤの預言と言われる。9節「一つになって」の別訳は「一つの肩になって」。これは、肩を並べて祈り合う信徒たちの姿を表している。とりなしは、天の神に、その人に対して祝福を与えるように頼むことで、これは人へのプレゼントの中で最高の贈り物である。 使徒2章には、最初のペンテコステの様子が描かれているが、そこには3000人が仲間に加えられ(41-42節)、彼らは一つになったとある(46-47節)。使徒2章はゼパニヤ3章の成就なのだ。隣の人が何に苦しみ、何を悩み、何を喜びとしているかを知り、共に祈り合い、とりなし合う。ここに教会の成長がある。 マザーテレサは、来日し、物質的に繁栄している日本を見て、「この国には貧困がある」と言った。4年目に入ったTCCのビジョンな何なのか。東京の、まだ主イエスキリストの福音を聞いたことのない人たち、祈り祈られる幸いをまだ知らない人たちのために、とりなす教会となることではないだろうか。
- タグ ゼパニヤ
江戸時代の武士、原主水(はら・もんど)は、キリシタン禁令の中で伝道したことのゆえに火あぶりとなったが、その子孫が銀座に十字屋という文書店を開き、それがのちに原女学院となった。女子学院の前身だ。そんな歴史を調べる中で都心での教会開拓とTCCを応援してきた。銀座は元々キリスト教となじみが深いのだ。 一匹を捜す羊飼い、一枚のコインを捜す女性、一人の放蕩息子の帰りを待つ父親と、ルカの福音書は続く。失った者を必死で探す一人の人が居たということ。手のかかった生徒ほど、卒業後も教師は気にかけるものだと、ある老教師は、手をかけた教え子の葬儀に、自分は足が悪いのに、車いすを自動車に積んででも出席した。 この子のためには行かないとだめだという思いであなたを見、あなたの救いを求めて走り、そのために十字架にかかった方がいる。それが主イエスキリストだ。そうして救われたあなたなのだから、やはり一人の人の救いの為に、この都心でこれからも労してほしい。またそれを支えるTCCであってほしい。
- タグ ルカの福音書
「信仰は望んでいることを保証し・・・」(1節)とあるが、日本には元来「信心」という言葉がある。「イワシのあまたも信心から」と。これは信じる心が大切なのであって、対象はどうでもよいという考え方。しかし聖書は「信仰」を語る。これは信じて仰ぐことを奨めており、その対象が大切だと語っている。 創世記のヤコブは長い人生の終わりに、「今日この日まで、私の羊飼いであられた神よ」(創世記48:15)と祈った。これは、わが人生にこれまで試練はあったが、神が共におられるので、私はその試練を乗り越え、祝福を得たという告白だ。あくまで神を見上げるこの信仰を、主は喜んで下さるのだ。 また「神はご自分を求める者に報いてくださる」(6節)とある。私たちはつい神から出て来るものを求めてしまい、ご自身を求めることがどうしても少ない。が、神が共におられることが最高の力なのであり、それを知った上で「私もあなたを求めます。私を導いてください」という祈りを捧げたいと思う。
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