愛するマリアが妊娠!?なんというショックでしょう。「それは聖霊によるって?そんなこと誰が信じれるものか!いったいどう離縁するのが自分にとって正しい道か?」セルフトークの連続だったヨセフは、この時、「神なき正しさ」に生き、でもそれでは解決できない問題の中で、悶死寸前だったはずです。 世の理屈では離縁が正解でしょう。が、その時、神の視点が与えられます。「この子はご自分の民を罪から救う神の子だ」と。自分は正しい者と思ってきたが、その「正しさ」ゆえにマリアを切り捨てる、その程度の男だったことにヨセフは気づきます。自分の愛の無さと自己中心に気付いた時、彼は、そんな罪びとのために御子を送ろうとしておられる神の愛を知るのです。 神の子がこれまでの在り方を自ら破壊し、この世に人として生まれ、33年生きたうえで十字架に死んで復活し、全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられる。その御子を迎えるクリスマスがやって来ます。光から闇への危険な旅。僕たちもこの主を迎えるにあたって、自分の殻にとどまることなく、自らの大変革を恐れず、お迎えいしたいとおもいます。 神は愛する者に自由を与えます。アダムも、アブラハムも、マリアとヨセフも、神の側を取るか、反対側を取るかについて自由に選べました。僕らもすべてが自由。これが神の愛し方です。そしてこの自由の中で何を選ぶかで僕らの人生は決まって来ます。この神の愛に驚くとき、僕らの選ぶべき道もおのずと決まって来るのではないでしょうか。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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さばきは主の専売特許。でもそのさばきに口をはさむことを、言い換えれば、盾突くことを、主はアブラハムに期待されました。ソドムの町の罪を赦すにはこれだけの正しい人が居ることが条件という「数字」を、主は50人からどんどん減らし、最後は「10人いるなら滅ぼさない」と約束されます。 ソドムの罪は、貧しい人々、弱い人々に手を差し伸べず、弱肉強食が横行していたことだと聖書は語ります。では今の日本はどうでしょう。パワハラによる自死があっても組織を守る、保育園では幼児の逆さづりが発生する、いじめ、虐待は日常茶飯事という、まるでソドムのような日本。この国のためにとりなして祈ることを、主は今、我々に期待しておられます。 でも私たちのとりなしでは救えないという現実があります。ソドムはアブラハムのとりなしにかかわらず滅んだからです。実は、私たちは救われないとダメな罪びと、ソドムの住人なのです。でもこのような私たちの真のとりなし手として送られたのが、主イエスキリストでした。 敵であった私たちのために、体を張って命を注いでくださった主がおられたことで、今の自分がある。それゆえ私たちは自分の敵としか思えないような人のためにもとりなすことができるのです。とりなすことは、主に似た者に変えられつつあることの証し。今も降り注ぐイエスのあわれみを受け、とりなす者として新しい週も遣わされて行きましょう。
- タグ 創世記
アモンは悪王だったが、その後のヨシヤ王は善政を行い、宗教改革を断行した。そのもとになったのが、このゼパニヤの預言と言われる。9節「一つになって」の別訳は「一つの肩になって」。これは、肩を並べて祈り合う信徒たちの姿を表している。とりなしは、天の神に、その人に対して祝福を与えるように頼むことで、これは人へのプレゼントの中で最高の贈り物である。 使徒2章には、最初のペンテコステの様子が描かれているが、そこには3000人が仲間に加えられ(41-42節)、彼らは一つになったとある(46-47節)。使徒2章はゼパニヤ3章の成就なのだ。隣の人が何に苦しみ、何を悩み、何を喜びとしているかを知り、共に祈り合い、とりなし合う。ここに教会の成長がある。 マザーテレサは、来日し、物質的に繁栄している日本を見て、「この国には貧困がある」と言った。4年目に入ったTCCのビジョンな何なのか。東京の、まだ主イエスキリストの福音を聞いたことのない人たち、祈り祈られる幸いをまだ知らない人たちのために、とりなす教会となることではないだろうか。
- タグ ゼパニヤ
江戸時代の武士、原主水(はら・もんど)は、キリシタン禁令の中で伝道したことのゆえに火あぶりとなったが、その子孫が銀座に十字屋という文書店を開き、それがのちに原女学院となった。女子学院の前身だ。そんな歴史を調べる中で都心での教会開拓とTCCを応援してきた。銀座は元々キリスト教となじみが深いのだ。 一匹を捜す羊飼い、一枚のコインを捜す女性、一人の放蕩息子の帰りを待つ父親と、ルカの福音書は続く。失った者を必死で探す一人の人が居たということ。手のかかった生徒ほど、卒業後も教師は気にかけるものだと、ある老教師は、手をかけた教え子の葬儀に、自分は足が悪いのに、車いすを自動車に積んででも出席した。 この子のためには行かないとだめだという思いであなたを見、あなたの救いを求めて走り、そのために十字架にかかった方がいる。それが主イエスキリストだ。そうして救われたあなたなのだから、やはり一人の人の救いの為に、この都心でこれからも労してほしい。またそれを支えるTCCであってほしい。
- タグ ルカの福音書
「信仰は望んでいることを保証し・・・」(1節)とあるが、日本には元来「信心」という言葉がある。「イワシのあまたも信心から」と。これは信じる心が大切なのであって、対象はどうでもよいという考え方。しかし聖書は「信仰」を語る。これは信じて仰ぐことを奨めており、その対象が大切だと語っている。 創世記のヤコブは長い人生の終わりに、「今日この日まで、私の羊飼いであられた神よ」(創世記48:15)と祈った。これは、わが人生にこれまで試練はあったが、神が共におられるので、私はその試練を乗り越え、祝福を得たという告白だ。あくまで神を見上げるこの信仰を、主は喜んで下さるのだ。 また「神はご自分を求める者に報いてくださる」(6節)とある。私たちはつい神から出て来るものを求めてしまい、ご自身を求めることがどうしても少ない。が、神が共におられることが最高の力なのであり、それを知った上で「私もあなたを求めます。私を導いてください」という祈りを捧げたいと思う。
- タグ ヘブル人への手紙
ヨセフの長男の名は「忘却」を意味するマナセ。私たちには忘れてしまいたい過去がある。が、イエスはそのつらさを十字架に元に下ろせと言われる。それは簡単なことではない。だから、「主よ、私はあの人を赦せないのです」という祈りから始めよう。 赦すことは痛みからの解放。私たちが赦せないあの人のために主イエスは死なれた。だからその人を赦さないなら、それは私たちの罪となる。一方感謝なことに、イエスの痛みによって私たちは癒して頂ける。赦しは忘却であり、同時に解放なのである。 ヨセフの次男の名は「2倍の実り」を意味するエフライム。私たちの苦しみに対し、主はその2倍の恵みで臨まれる。ヨセフは投獄され、見捨てられたが、それでも回復した。主にある人生は七転び八起きなのだ。 悲しみ、辛さ、痛みの中で主を見上げよう。主は忘れさせて下さり、同時に失ったものを取り戻してくださる。種をまけば収穫に与る。しかし、一旦種は死なないとだめなのだ。が、その時、ヨセフと同じく主は私たちにこの二つの恵みを備えてくださっている。
- タグ 創世記
イエスキリストがエルサレム入城の時に乗ったのは、馬ではなく子ろば、それもまだ人を乗せたことのない荷物用のろばの子だった。なんとたよりないことだろう。でもこの経験不足のろばを、イエスは弟子たちに「主がご入り用なのです」と言って連れて来させられた。 自分がどんな状態かが重要なのではない。大切なのは、主に「あなたが必要だよ」と呼んで頂くこと。そして神のご栄光のために用いられること。そこに最大のよろこびがある。 子ろばのそばには母ろばがついていた。経験のない子ろばのサポート役として。奉仕には、中心となる働きと、副の働きがある。しかし子ろばは、この母の存在で、初めて自信をもって大勢の人前に立つことができたのだ。 子ろばに乗った主の目線は、周りの人々と同じ高さだった。馬上から見下ろすことのない平和の王、へりくだりの主、仕えるために来られた方のお姿だ。主は、この後、我々の罪の贖いのために、十字架に身を置き、最も低くみじめな最期を選んだ下さった。
- タグ マタイの福音書
「どんな苦労にも耐えることはできるが、人から忘れられる寂しさに耐えるのは難しい。孤独は山にはなく町にある。また一人の人間にあるのではなく、多くの人の間にある。」と三木清は「人生論ノート」という本の中に書いている。 こういった言葉を読むと、我々は自分の以前感じた寂しさを思い出す。そしてまた忘れられて、寂しい思いをするのではないかと疑ってしまう。が、「安心せよ」と。「誰がいくら無視しても、わたしはあなたを忘れない」とキリストは言ってくださるのだ。
- タグ イザヤ書
悪いことのとりこになっている人は傍から見ると一見楽しそうだが、実はそこに自分自身を傷つけるトゲが隠されている。しかし神は聖なる方であると同時に愛の方。ゆえに愛するひとり子のいのちを犠牲にしてまで私たちに救いを与え、その悪い習慣を改めるチャンスを下さった。これが「古い人を脱ぐ」ということ。 イエスはご自身を「人の子」と呼ばれた。これは、人間のあるべき理想の姿がイエスにあるということ。つまりジーザスハート、ジーザスマインドに生きる時、我々は神がデザインした本来の私たちに戻ることができるのだ。これが「新しい人を着る」の中身。しかしこれは決して自分以外になることではなく、本当のあるべき姿に変えられるのだ。 キリストの平和、キリストの言葉を内に持つなら、我々はそれを人に語り、人に伝えることができる様になる。主のみこころはまずあなたが変えられること。そして主イエスの名によって行動すること。その時私たちが向き合う人たちも、内なるキリストの力によって変えられて行くのである。
- タグ コロサイ人への手紙
旧約聖書ルツ記1章19-22節から 飢饉のユダを逃れ、ナオミ一家はモアブの地へ。現地で息子たちはモアブ人の嫁をめとり、そこまでは良かったが、しばらくして夫も2人の息子も死に、3人のやもめだけになる。その後、ユダの飢饉が終わったといううわさを聞き、ナオミは一人でユダに帰ろうとする。が、ルツだけは「母を捨てて帰るように仕向けないでください」と頑として受け入れず、結局ついて帰ることになる。 「ナオミ」とは心地よい、優しいの意で「マラ」は苦いを意味する。10年ぶりに帰ったナオミを迎えた友人たちに彼女は「わたしをナオミと呼ばず、マラと呼んで」と言う。なぜなら私は多くを持って出たのに最後は手ぶらで帰って来たから、こんな私が神から愛されているなんて到底考えられないと。実際は、彼女は手ぶらではなくルツを連れて帰って来たのだが、そんなことは忘れているし、またそこには期待もしていなかったということだ。 女が働く手段などほぼ皆無の時代、できるのは落穂ひろいのみ。ルツが最初に行ったのはナオミの夫の血縁ボアズの畑で、いきなり彼女は36リットルの落ち穂を持って帰って来る。それを見てナオミは、ボアズがルツと結婚したがっていることに気づき、彼女に綺麗に飾らせ、大胆にもプロポーズをさせるのだ。ボアズとルツは結ばれ、オベデ、エッサイ、ダビデ、イエスキリストとつながる血筋がここから生まれたという、これは実際のストーリーだ。 僕らはイエスに救いといのちを頂いている。先は見えないし、見方によっては、今は不幸のどん底の様に思えるかもしれない。現実は厳しい。が、見えないところで神のご計画は着実に進んでいる。神にすべてを委ねることが一番の幸せへの道なのだ。
- タグ ルツ記