ヨセフの長男の名は「忘却」を意味するマナセ。私たちには忘れてしまいたい過去がある。が、イエスはそのつらさを十字架に元に下ろせと言われる。それは簡単なことではない。だから、「主よ、私はあの人を赦せないのです」という祈りから始めよう。 赦すことは痛みからの解放。私たちが赦せないあの人のために主イエスは死なれた。だからその人を赦さないなら、それは私たちの罪となる。一方感謝なことに、イエスの痛みによって私たちは癒して頂ける。赦しは忘却であり、同時に解放なのである。 ヨセフの次男の名は「2倍の実り」を意味するエフライム。私たちの苦しみに対し、主はその2倍の恵みで臨まれる。ヨセフは投獄され、見捨てられたが、それでも回復した。主にある人生は七転び八起きなのだ。 悲しみ、辛さ、痛みの中で主を見上げよう。主は忘れさせて下さり、同時に失ったものを取り戻してくださる。種をまけば収穫に与る。しかし、一旦種は死なないとだめなのだ。が、その時、ヨセフと同じく主は私たちにこの二つの恵みを備えてくださっている。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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イエスキリストがエルサレム入城の時に乗ったのは、馬ではなく子ろば、それもまだ人を乗せたことのない荷物用のろばの子だった。なんとたよりないことだろう。でもこの経験不足のろばを、イエスは弟子たちに「主がご入り用なのです」と言って連れて来させられた。 自分がどんな状態かが重要なのではない。大切なのは、主に「あなたが必要だよ」と呼んで頂くこと。そして神のご栄光のために用いられること。そこに最大のよろこびがある。 子ろばのそばには母ろばがついていた。経験のない子ろばのサポート役として。奉仕には、中心となる働きと、副の働きがある。しかし子ろばは、この母の存在で、初めて自信をもって大勢の人前に立つことができたのだ。 子ろばに乗った主の目線は、周りの人々と同じ高さだった。馬上から見下ろすことのない平和の王、へりくだりの主、仕えるために来られた方のお姿だ。主は、この後、我々の罪の贖いのために、十字架に身を置き、最も低くみじめな最期を選んだ下さった。
- タグ マタイの福音書
「どんな苦労にも耐えることはできるが、人から忘れられる寂しさに耐えるのは難しい。孤独は山にはなく町にある。また一人の人間にあるのではなく、多くの人の間にある。」と三木清は「人生論ノート」という本の中に書いている。 こういった言葉を読むと、我々は自分の以前感じた寂しさを思い出す。そしてまた忘れられて、寂しい思いをするのではないかと疑ってしまう。が、「安心せよ」と。「誰がいくら無視しても、わたしはあなたを忘れない」とキリストは言ってくださるのだ。
- タグ イザヤ書
悪いことのとりこになっている人は傍から見ると一見楽しそうだが、実はそこに自分自身を傷つけるトゲが隠されている。しかし神は聖なる方であると同時に愛の方。ゆえに愛するひとり子のいのちを犠牲にしてまで私たちに救いを与え、その悪い習慣を改めるチャンスを下さった。これが「古い人を脱ぐ」ということ。 イエスはご自身を「人の子」と呼ばれた。これは、人間のあるべき理想の姿がイエスにあるということ。つまりジーザスハート、ジーザスマインドに生きる時、我々は神がデザインした本来の私たちに戻ることができるのだ。これが「新しい人を着る」の中身。しかしこれは決して自分以外になることではなく、本当のあるべき姿に変えられるのだ。 キリストの平和、キリストの言葉を内に持つなら、我々はそれを人に語り、人に伝えることができる様になる。主のみこころはまずあなたが変えられること。そして主イエスの名によって行動すること。その時私たちが向き合う人たちも、内なるキリストの力によって変えられて行くのである。
- タグ コロサイ人への手紙
旧約聖書ルツ記1章19-22節から 飢饉のユダを逃れ、ナオミ一家はモアブの地へ。現地で息子たちはモアブ人の嫁をめとり、そこまでは良かったが、しばらくして夫も2人の息子も死に、3人のやもめだけになる。その後、ユダの飢饉が終わったといううわさを聞き、ナオミは一人でユダに帰ろうとする。が、ルツだけは「母を捨てて帰るように仕向けないでください」と頑として受け入れず、結局ついて帰ることになる。 「ナオミ」とは心地よい、優しいの意で「マラ」は苦いを意味する。10年ぶりに帰ったナオミを迎えた友人たちに彼女は「わたしをナオミと呼ばず、マラと呼んで」と言う。なぜなら私は多くを持って出たのに最後は手ぶらで帰って来たから、こんな私が神から愛されているなんて到底考えられないと。実際は、彼女は手ぶらではなくルツを連れて帰って来たのだが、そんなことは忘れているし、またそこには期待もしていなかったということだ。 女が働く手段などほぼ皆無の時代、できるのは落穂ひろいのみ。ルツが最初に行ったのはナオミの夫の血縁ボアズの畑で、いきなり彼女は36リットルの落ち穂を持って帰って来る。それを見てナオミは、ボアズがルツと結婚したがっていることに気づき、彼女に綺麗に飾らせ、大胆にもプロポーズをさせるのだ。ボアズとルツは結ばれ、オベデ、エッサイ、ダビデ、イエスキリストとつながる血筋がここから生まれたという、これは実際のストーリーだ。 僕らはイエスに救いといのちを頂いている。先は見えないし、見方によっては、今は不幸のどん底の様に思えるかもしれない。現実は厳しい。が、見えないところで神のご計画は着実に進んでいる。神にすべてを委ねることが一番の幸せへの道なのだ。
- タグ ルツ記
神は私たち人間を、神のかたちとして創造された。それゆえに私たちを愛し、また世界を管理する仕事をお任せになった。エデンの園のものは何を食べてもよかった。が、ただ一つのルールがあり、それは善悪の知識の木の実だけは食べてはならないということ。「神の命令を守ること、それが、神を愛すること。神の命令は重荷にならない」のだ(Ⅰヨハネ5:3)。 しかし人は神ではなく自分の考えに従った。実を食べたのだ。罪とは、人が被造物の分を超え神のようになること。その結果、神との関係は壊れ人間同士の関係も壊れた。アダムは失敗をエバのせいにした。エバは蛇のせいにし、蛇を置いた神のせいにしたのだ。自分の罪を棚上げにして人のせいにする。これが人間関係を壊す。これが罪の奴隷となった人間の姿だ。 今の世界は罪に包まれている。が、神のあわれみは今も注がれ続けている。そしてイエスは「わたしが来たのは罪びとを招くため」と言われた。神の立てた救いのご計画は、御子イエスを人として送り、十字架に掛けることだった。これは我々を取り戻すご計画だったのだ。 神の子として我々を受け入れ、永遠のいのちを、これを通して与える計画。「神のもとに今帰れ」と招きつつ。これが聖書の伝える福音、good newsの全容だ。主はそのために世に来られたのだ。今イエスを信じて、神とのほんものの関係に立ち返ろう。そしてこんがらがってしまった人との関係も、神に修復して頂こう。
- タグ 創世記
神の前に死に、神の前に再びいのちを得る。これが私たちの礼拝における経験である。私たちは罪びとであり、すでに死んだ者。しかし主が下りて来て下さり、まだ命があると言って下さり、希望を与え続行けて下さる。それが我々のイエス経験なのではないだろうか。 我々は、今は下に住む者だが、上に引き上げられる者。ユテコは1階まで落ちがた、そのあと再び3階まで引き上げられた。このことを毎回確定し、確認するのが礼拝なのではないだろうか。
- タグ 使徒の働き
ナオミは神を信じているが、いい事が続かない。それどころか、不幸を絵にかいたような状態だった。しかしそれを見てもなお、ルツはナオミと同じ信仰を持とうとする。なぜか。ナオミの人格に惹かれたのか。おそらくそうだろう。状況の良しあしと無関係に、その人が醸し出す人格というものがある。いやそれどころか、状況が悪ければ悪いほどかえってそれが際立つ時がある。また人によっても感じ方は違う。同じ状況を見て、もうひとりの嫁は去って行ったからだ。 神は、選びの器ルツにその感性を与え、ナオミの家を支え、異邦の地エルサレムに彼女を導き、最後はルツがダビデのひおばあちゃんになる道を開く。不幸のどん底のようなナオミと、そのナオミに従うルツ。神を信じていてどうして?と問いただしたくなる現実がある。しかし、そこには、我々には計り知れない神のご計画があるのだ。 なぜこんな事になったのですか?と問う弟子たちにイエスは「神の栄光が表されるため」と答えたとヨハネ11:4にある。神の愛する者たちにとって、神の与える試練には理由があるということ。そしてそれは耐える価値があるものであり、また耐えるための神の支えもすでに備わっているということではないだろうか。
- タグ ルツ記
イエスはすでに漁師である弟子たちに、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われた。とるものがかわるだけで、今の生活の延長線上に答がある。かつ、決して大工や教師にしようなどと突飛なことは言われない。 これに応答して人間をとる漁師になるのはあくまで私達。イエスが勝手に私たちをそんな漁師にされるわけではない。召しと応答。これはエレベーターの様に受けたら一気に上まで行くものではなく、エスカレーターの様に召しと応答をフロアーごとに繰り返し、最後にトップフロアーにたどり着くのだ。 更にこれは直接献身にこだわるものではなく、主は少しずつ献身を励まし、必要な勇気を与えて下さる。「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と今日あなたに語られる主は、真実なお方なのである。
- タグ マルコの福音書
「わたしは本当にみじめな人間です」から始まるパウロの葛藤。なんと我々に共通した思いでしょう。しかしこれに対し、「しかしイエスと歩む者が罪に定められることは決してありません」と、パウロは自分自身と我々に向かって大胆に宣言して、この葛藤のことば締めています。我々は、日々この声を聞く者でありたいと思います。
- タグ ヨハネの福音書