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キリストの遠さと近さ
ヨハネ13:33,36-38

ペテロが発した「主よ、どこへおいでになるのですか」の問いは、全人類が発し続けている問いです。「神よ、あなたは私の人生で、この世界で、歴史の中で、何をなそうとしておられるのですか」と。ペテロはイエスの語った「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」という言葉にショックを受けますが、それは、十字架は神のみが歩める道、人間の歩める道ではないという意味でした。そしてその言葉通り、ペテロは3度イエスを否みます。しかし復活のイエスに赦されたペテロは、再び「私に従いなさい」と語られ、小説「クオバディス」によると、その命令通り殉教の死を遂げます。これが、イエスが語られた「今はついて来れないが、後にはついて来る」の意味するところでした。 ペテロも僕たちも、「あなたは何のために死ぬのか」が問われています。僕たちは、この問いを深く掘り下げない限り、いたずらに生に固執し、うろたえ続けて死を迎えることになります。それに対しイエスの開いてくださった門が、「いのちを得たい者は、十字架を負って私について来なさい」というチャレンジでした。十字架を負うとは、死に至るまでイエスの後を追い続けること。イエスはその道を開いてくださり、それほどに僕らに近づいてくださった。遠いと思っていた神が、今はイエスによって近くに来られたのです。だから「どこに行くのですか」はもう問う必要がなくなりました。ここでイエスが問われるのは、「あなたはわたしを愛するか」という問いだけです。さてあなたはこの問いにどう答えるでしょうか。イエスを愛する死であり、また生でありたいと思います。

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神のうしろ姿を見るハガル
創世記16:1-16

僕らはある程度のポジションを獲得すると、「この組織は自分無しでは回らない」と誤解し、横柄になってしまうことがあります。懐妊後のハガルがそれでした。大エジプトから都落ちし、不本意なヘブル人の奴隷をさせられてきたハガルは、その「地位向上」を境に、女主人を見下す罪を犯します。これは誰にでもありがちな失敗です。これを防ぐには、まず自分がどこから拾われてきたかを自覚することです。そして今の自分があるのは、神のあわれみによることだと覚え、あくまで神のしもべに徹する。その時初めて僕らは、神の開かれたドアをくぐった後も、その新しい陽の下で、喜んで神と人にお仕えすることができるのです。 そうして追い出されたハガルでしたが、自分のダメさを知ったからこそ、彼女は神に会うことができました。信仰とは、神はあなたを見つけ出してくださる方だと知ることです。それは駆け寄って下さる神であり、神の愛はそれほどのものだと知ることです。元はと言えばこの事件は、サラの罪が引き金で、それに間違った反応をしたハガルの「追い出され事件」でした。が、そんな罪から発したことからも、神は良いものを生み出そうとしてくださいます。僕らは、自分の過去の罪も、その罪の結果も、十字架によって贖われていることを信頼すべきです。ハガルは、神を信じ、悔い改め、身を低くして家に戻った結果、本来は神の予定にはなかっただろう一大民族の母にさえなることができたのです。

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イエスの戒めは新しい
ヨハネ13:31-35

世の中に不条理があると言っても、神の子であるイエスキリストが人間によって殺され、のろいの木にかけられるほどの不条理はないわけです。が、そのユダの裏切りと同じ舞台にあって、イエスは、「これぞ栄光」と言い、この不条理に勝つ愛、裏切りに勝つ愛を体現しつつ、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と命じます。そして、「あなたがたは、この新しい愛の中ですでに生きているし、これからもそうあり続けることができる」とイエスは言われるのです。 なぜその愛の戒めが新しいのか。それは、イエスのもたらされたものが世のものとは違うからでした。イエスは「あなたがたは私がいるところに来ることができない」(ヨハネ7:33)と言いましたが、それは、歴史の外から来られた方が、歴史の外に帰って行かれたということ。この時歴史は、永遠に向かって窓を開いたのです。その方のもたらした永遠のいのち(ゾーエー)これが1つ目の新しさです。そして2つ目は、聖霊降臨によって与えられたイエスの御霊が、僕らとともにいてくださることの新しさです。 この新しさの中にあって初めて、「イエスが愛されたように、私たちも愛する」すなわち、イエスの愛を実生活で実践することが可能になるのです。それは、夫が妻を愛する時、主がこの妻を愛してくださっていることを信じ、この主の妻への愛が、自分の妻への愛に映し出されるように愛すること。これは自分を愛して下さっている、その主の愛で妻を愛するというのと、大きく変わりません。とにかく根っこはイエスの愛。この「イエスが愛したように」から始まる時、この「愛の戒め」が全く新しい戒めとなるのです。

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人間に対する最高の評価
ピリピ2:13、詩篇14:1-7

僕たちは、自分の人生に於いて何か大きなことをしたいと願います。それをambition、野心と言います。特に青年時代のそれは強烈です。その根っこは、自分がいい思いをしたい、勝ちたい、あいつの上に立ちたい、支配したいという間違った思いです。でもその求めるところが信仰の中に入れられる時、だんだん聖別され、個性的な要求が進化して、最後はいい形で成就する。これがヨセフをはじめとするクリスチャンの人生物語です。 そのためには、まず個性に生きることです。神が、小さな声で、志を立てさせ、それをなさしめる(ピリピ2:13)、その中であなたの個性が伸びていきます。これが分かると、ねたみというものがなくなります。自分には自分の使命があり、生き方がある。自分の個性がはっきりしていて、それを神に完成していただく。それが分かっているなら、他人の個性をうらやむなんてことにはならないわけです。 青年のみなさん。みなさんの理想、野心…それはあなたの個性の発露です。それは神の下さったものだから間違いなくいいもの。それを消さないこと、大事にすることです。それが、悲しみ、苦しみ、涙、いろんなことを通して、大小さまざまな挫折を100回以上繰り返し、きよめられ、予想もしなかった大いなることのために用いられる。これがクリスチャンの歩みです。これがイエスを信じる信仰者の人生です。なんかワクワクしてきませんか。

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闇に勝つために
ヨハネ13:21-30、ルカ10:30-37

リーダーは孤独だという言葉があります。リーダーになって「答えを出さないとだめ」となると、とたんに力が入ります。こだわりも出て来るし、ついそれを愛より優先してしまいます。僕らはどこか、トップよりナンバー2の方が楽だという思いがありますが、それは、ナンバー2は最終的な責任を負わなくていいからです。 でもクリスチャンは全員ナンバー2。最後の面倒を見てくれるイエスという後ろ盾があるからです。この安心に生きる時、たとえ肩書はナンバー1であっても、心はナンバー2のゆとりでやっていけます。そして、結果が出れば主に感謝し、出なくても、それも主の御手の中にあると思えるのです。 なぜならイエスキリストのパフォーマンスゆえに、神はあなたを愛し、あなたに最高得点をつけてくださっているから。だから、どこにあってもこの福音に生きる限り、あなたは自分の良いパフォーマンスで誰かに愛されようとか、いい点を付けてもらおうとする必要はないのです。 この確信に生きるために必要なことはただ一つ。それは、神とともに職場に行くことです。そこでも神を神とする。サタンはセカンドベストをあたかも神のように見せかけてきますから、そのすり替えに注意しつつ、ぜひとも新しい週、神の平安とそれゆえに表される最高のパフォーマンスをエンジョイしましょう。

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アブラハムへの神の約束
創世記15:1-21

アブラハムは神のことばを疑いました。それどころか失望と落胆のどん底にいて、顔を上げることすらできない状態でした。神は自分に子孫を与えるとは言われるけど、自分はもう歳だし、妻はもともと不妊だし、今さら子どもなど授かるはずがないと、彼は見切りをつけてしまっていました。が、彼は、祈りを途切れさせることはなかった。祈りは「神との友情」を育てる手段です。「神の友」としての彼は全然あかんたれの友でしたが、彼の不断の祈りを通して、神は降りてこられ、彼の手を取って外に連れ出し、空を見上げるようにと言い、満天の星を指さして、「数えてみよ。わたしがあなたに用意している祝福はこのレベルだよ」と、やさしく語られたのです。 子孫だけでなく土地もあげるというのが、神の約束でした。どんなふうに?と聞くアブラハムに対し、神は切り裂いた獣の間を通られます。これは契約を表し、「もしあなたを幸せにしないなら、私は切り裂かれてもいい」という意思表示でした。その後、契約違反をしたのは人間でした。罪を犯し、神を裏切った。しかし、それを償うために切り裂かれたのは神の子イエスキリストだったのです。神の、僕らを祝福するという思いは、それほどに本気なのです。祝福の影すら見えない時、僕らは疑います。アブラハムがそうだったように。でも何があっても神との会話をやめないことです。そしてそのやり取りの中で神は「必ずあなたを祝福する、それも満天の星のように」と誓われました。その証拠が、その成就が、イエスキリストだったのです。あなたはこれを信じますか。

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いのちと愛の手本
ヨハネ13:12-20、ゼカリヤ14:4-9

人に裏切られることは人生最大の苦しみ、悲しみです。旧約聖書のヨセフは、兄たちに裏切られ、献酌官長にも忘れ去られてしまいました。が、そんなヨセフを支えたのが、「主がヨセフとともにおられた(ので)」という事実でした。要は、人に期待するな。人を恐れるな。主のみを恐れ、主のみに期待せよと。壮絶な裏切りが待つことを知りつつ、3年の月日を共にすごし、足まで洗い、十字架の前日まで12人を「わたしの者」と呼び続けたイエス。この方こそわが救い主として最適なお方です。そしてこのイエスの愛と忍耐は、世の人間関係に傷つく僕らにとっての最大の癒しなのです。 洗足には、2つの意味がありました。ひとつは家族間の愛、そしてもうひとつは奴隷としての謙遜の極みに神の子が立たれたということ。12人の足を洗い終えたイエスは、「わたしのしたことは今に分かる」と言われました。その時は何も理解できなかった心の固い弟子達でしたが、師として、弟子たちに向けて全存在をかけて残された究極のメッセージが、この愛と謙遜でした。そして僕たちはイエスに洗ってもらったからこそ、今こうして教会の群れに属しているのです。 足を洗っていただいた僕らは、今度は家族のところに遣わされます。モーセがエジプトに遣わされたように。そしてこれまでいろんなことがあった、その年寄りの面倒を見る。年寄りの傍らに座る時、僕らはそこでイエスの弟子です。イエスが今、この父に、この年老いた母に、何を為さるのか、それを僕らが示すのです。年寄りの手をさすり、やさしく語り掛け、傾聴する、そんな小さなしぐさにイエスのしぐさが現れるのです。イエスが全存在をかけて示されたことを僕らがこの世に現わしていく、そこに弟子としての生きざまがあります。

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イエス、弟子たちの足を洗う
ヨハネ13:1-17

互いに愛し合うというのは、一方的に愛することより難しいことです。しかし愛とへりくだりの快い感銘を僕らが受け続ける時、今度は僕らの方からほかの人たちに対する「善」が湧き出る・・・これこそがキリスト者の偉大さ、教会の偉大さなのです。相手だけ見ているとそんなことはできないと思うかもしれません。でも相手を見るのではなく、その先におられるイエスを見るのです。「私の洗いなしには、私とあなたは何の関係もない」とイエスが言われた理由はここにあります。 大切なのは、イエスが何を為さったか。それは主の洗いがあったということ。それゆえに僕らは主の前に立ちおおせるのです。まず僕らが洗っていただいた。だから僕らも人の足を洗うんです。神の子イエスがここまで降りてきてくださった。だから僕らは降りていくんです。「互いに愛せよ」の意味するところは、なんと高く、深く、広く、長いことでしょう。 この弟子たちの中に、ペテロがおり、ユダがいる。そしてこの弟子たちをイエスは愛して愛して愛し抜かれたとある、この言葉に偽りはありません。つまりユダもイエスの愛から堕ちていないということ。どんな罪深い者であっても、今なお背いているものであっても、「自分の者」と呼んで下さるイエスの愛に変わりはなかった。その意味で、僕ら自身もイエスに愛し抜かれています。We are still in time. 悔い改めるに遅すぎることはありません。イエスから頂いた愛と信仰をもとに、互いに愛し合う者へと遣わされて行きましょう。

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エマオの弟子たちの見た復活の光
ルカ24:13-33

エマオの弟子たちは、世事に疎い一人の旅人に出会い、ここ数日のエルサレムであった出来事を説明したところ、この旅人は「鈍いのはあなたたちだ」と切り返します。「人のせいにするのでなく、自分の心に目を向けろ。落ち込みの原因は、あなたがたの信仰の薄さにある」と。僕らは、問題の原因を分析し、そこから解決を求めようとします。が、大切なのは、問題を共有してくれるイエスの目線を知ること。その時僕らは、孤独からも不安からも解放されるのです。 初代教会の使徒たちは「イエスがよみがえったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と語る復活の証人でした。ところが今の時代、復活が腹に入っていないクリスチャンが多いのも事実です。そして彼らは世の厳しさを乗り越えるだけの感動を持っていないのです。エマオの弟子たちが、復活のイエスに出会った時、きびすを返して危険の待つエルサレムに走ったそのパワフルな方向転換を、僕らも復活のイエスと出会うことを通して、日々体験する必要があるのです。 復活とは、何もなかったところに何かを生じ去る神の力です(ローマ4章)。それを信じる僕らは、ウクライナとロシアの戦争を見て、たとえ一見無力に見える中でも平和を求めます。なぜなら、神にはそれがおできになるということを僕らは知っているからです。復活はおまけじゃないし、ゴールのない競走はありません。世界は確かに終末に向かっているし、僕らはキリストに似た者に変えられつつある。この復活信仰に生きる者でありたいと思います。

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キリストのまなざしを知る
Ⅰヨハネ3:1-3

2000年前の今日、イエスキリストは、墓を打ち破り、死から復活されました。十字架の直前、イエスを「知らない」と3度否認したペテロは、そのことゆえに恐れと後悔にさいなまれていたはずです。が、その彼に対し、復活のイエスが最初に伝えたことは、あなたは愛されている、赦されている、あなたには新しい役割があるということでした。僕らの人生は失敗の連続です。でも取り返しのつかない失敗はない。なぜならイエスキリストは復活されたから。そしてこんな僕らにも、この3点、愛と赦しとあなたの人生には価値があるということを、主は告げ知らせてくださっているからです。 イエスキリストから僕らが頂くギフトの中身は、永遠のいのちです。と同時に、それを受け入れた者はどんどんキリストに似たものの変えられて行くということ。更には、イエスキリストを受け入れた人は、無償で、全てを手に入れる。神の持つ全財産をわがものとすることができるという「常軌を逸した約束」が聖書にはしたためられています。主イエスの復活されたこのイースターの意味を、また私たちへの愛ゆえにご自分の息子を死に追いやって下さったという神の愛をもう一度かみしめ、愛をベースにしたこのキリストのまなざしの中に生きる日常を、今日ここからスタートしたいと思います。