一つの肩になって
(淀野仰師)
ゼパニヤ3:9-10
アモンは悪王だったが、その後のヨシヤ王は善政を行い、宗教改革を断行した。そのもとになったのが、このゼパニヤの預言と言われる。9節「一つになって」の別訳は「一つの肩になって」。これは、肩を並べて祈り合う信徒たちの姿を表して …
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アモンは悪王だったが、その後のヨシヤ王は善政を行い、宗教改革を断行した。そのもとになったのが、このゼパニヤの預言と言われる。9節「一つになって」の別訳は「一つの肩になって」。これは、肩を並べて祈り合う信徒たちの姿を表して …
江戸時代の武士、原主水(はら・もんど)は、キリシタン禁令の中で伝道したことのゆえに火あぶりとなったが、その子孫が銀座に十字屋という文書店を開き、それがのちに原女学院となった。女子学院の前身だ。そんな歴史を調べる中で都心で …
「信仰は望んでいることを保証し・・・」(1節)とあるが、日本には元来「信心」という言葉がある。「イワシのあまたも信心から」と。これは信じる心が大切なのであって、対象はどうでもよいという考え方。しかし聖書は「信仰」を語る。 …
ヨセフの長男の名は「忘却」を意味するマナセ。私たちには忘れてしまいたい過去がある。が、イエスはそのつらさを十字架に元に下ろせと言われる。それは簡単なことではない。だから、「主よ、私はあの人を赦せないのです」という祈りから …
イエスキリストがエルサレム入城の時に乗ったのは、馬ではなく子ろば、それもまだ人を乗せたことのない荷物用のろばの子だった。なんとたよりないことだろう。でもこの経験不足のろばを、イエスは弟子たちに「主がご入り用なのです」と言 …
「どんな苦労にも耐えることはできるが、人から忘れられる寂しさに耐えるのは難しい。孤独は山にはなく町にある。また一人の人間にあるのではなく、多くの人の間にある。」と三木清は「人生論ノート」という本の中に書いている。 こうい …
悪いことのとりこになっている人は傍から見ると一見楽しそうだが、実はそこに自分自身を傷つけるトゲが隠されている。しかし神は聖なる方であると同時に愛の方。ゆえに愛するひとり子のいのちを犠牲にしてまで私たちに救いを与え、その悪 …
旧約聖書ルツ記1章19-22節から 飢饉のユダを逃れ、ナオミ一家はモアブの地へ。現地で息子たちはモアブ人の嫁をめとり、そこまでは良かったが、しばらくして夫も2人の息子も死に、3人のやもめだけになる。その後、ユダの飢饉が終 …
神は私たち人間を、神のかたちとして創造された。それゆえに私たちを愛し、また世界を管理する仕事をお任せになった。エデンの園のものは何を食べてもよかった。が、ただ一つのルールがあり、それは善悪の知識の木の実だけは食べてはなら …
神の前に死に、神の前に再びいのちを得る。これが私たちの礼拝における経験である。私たちは罪びとであり、すでに死んだ者。しかし主が下りて来て下さり、まだ命があると言って下さり、希望を与え続行けて下さる。それが我々のイエス経験 …