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向かい風の中で主は
マルコ6:45-52

人生に向かい風はつきものです。が、その時、主が何をされているのかを僕らが想像することはほとんどありません。主はあなたのために祈っておられるのです。それでも解決できず、舟が進まないなら、イエスはその渦中にまで下りて来て下さいます。そして、「しっかりしなさい、わたしだ。恐れることはない」と声をかけてくださるのです。 それが「想像できない」とはどういうことか。それは、この直前に起こった5000人の給食の奇跡の証拠品、つまりかご一杯のパンが、まだこの舟に中に残っていたにもかかわらず、恵み深いイエスに思いが至らないということです。そんな僕らのために祈るイエス、渦中に来てくださるイエス、そして舟にまで乗って下さるイエスにです。僕らの心は、日ごろ、徹底的にふさがれていることを覚えたいと思います。 僕らは日常の向かい風の中で、まず「しっかりしなさい、わたしだ。」という主の声を、聞きたいと思ます。そしてこれを何度聞けるかです。もし一度でも聞けるなら、すぐに言いましょう。「私とともに、この向かい風の中に、とどまって下さい」と。主はあなたに、その人生の向かい風に立ち向かう術を必ず教えてくださいます。

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アブラハムの収獲
創世記14:8-24

アブラハムは、北の王の攻撃を受けて誘拐されたロトたちを救出しますが、その帰り道、メルキゼデクという不思議な祭司から神の祝福を受けます。アブラハムは、自分の成功が神によるものだということは知っていました。が、いよいよ、その神の御守りと祝福に、大喜びします。そしてその応答として、メルキゼデクに一番良い戦利品の十分の一を与えました。それも誰かに言われてではなく、自分から、喜んで。すべては恵み先行、祝福先行。これが神の順番です。 ザアカイもこのように呼ばれましたが(ルカ19章)、私たちは「アブラハムの子」です。それは神の恵みを受けた者という意味であり、私たちへの神の祝福はピンポイントです。決して雨や空気の様に無機質なものではありません。かつ一人一人に対する神の思いがあります。いつどんな形でその人を祝福するかは、神の御手の中にある。そして今悲しみの中にある方には、特に強く、はっきりと、誰が見ても分かる形で与えてくださる。これか父なる神の祝福です。 パウロしかり、ザアカイしかり、すべての「アブラハムの子」たちにとっての最大の祝福は神ご自身です。パウロは、「もっとイエスのそばにいたい、触っていたい、癒されたい、平安でいたい」と願いましたが(ピリピ1:21~)、そんな私たちの思いに、主ご自身が「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」と約束してくださっています。この臨在の主とともに、世の破れをつくろい、神の栄光を表す働きへと召されて参りましょう。

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闇でなく光に生きるために
ヨハネ12:44-50

「わたしは光の子だ」と言い切れる者は居ませんが、一方で「あなたは闇の子ですか?」と聞かれて、そうですと認める人も居ないでしょう。つまり、全ての人は光と闇の間を歩いており、どっちつかずの生き方をしているということです。でもイエスは、闇の中にとどまるな。そのための光としてわたしは世に来たのだと言われます(12:46)。 なぜ闇にとどまってはいけないのか。それはイエスを拒む人は自分をさばくものをひきずって歩いており、最後にそれがその人をさばくことになるからと(12:48)。だからそれを断ち切れとイエスは言われるのです。そのために必要なことは、ただイエスを見ること。見て信じること。そのことによって、僕らは闇を断ち切ることができるのです。 イエスの時代、イエスを見ながらその本質を見ずに終わった人がどれだけいたでしょう。でもイエスは誰もさばきません。救うために来られた方だからです。この主を信じること、それが「イエスを見る」ということです。と同時に、それはイエスを遣わされた方を見ることでもあります(12:44-45)。このまばゆい光をあなたは見ているでしょうか。

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アブラハムの選択
創世記13:1-9

アブラハムはエジプトで、妻のサラを自分の妹と偽ってエジプト人に進呈するという、大変な間違いを犯しました。それは恐れから出た失敗でした。その時彼は、神の守りというものが分からなくなってしまっていたのです。その後アブラハムが最初に造った祭壇のところまで戻って来て、神を呼び求めたのは、自分の中の破れを神に打ち明け、それをつくろってもらおうとした、その叫びでした。ここに彼の原点回帰があったのです。 その後ロトと別れざるを得ないとなった時、彼は甥のロトに行先を決める権利を与えます。アブラハムは年長者ですから、彼が先に決めてもよかったはず。が、彼はそうはしなかった。どうしてそんなことができたのか。それは、アブラハムには行き先にしがみつく必要がなかったからです。右に行っても左に行っても神の祝福はある、求められて手放すならもっと大きな祝福があると確信が、彼にはありました。その結果、明らかに放牧には向かない土地を選ぶことになりますが、それが彼の祝福の始まりでした。 僕らもこのアブラハムの軽やかさを忘れず、主に在る粋な選択をしていきたいと思います。神は、そんな僕らを通して世の破れをつくろう働きを進めたいと願っておられるのです。だから重要であればあるほど力を抜く。そしてゆだねる。その時僕らの想像を超えた祝福が待っているということを、このアブラハムの選択劇は語っているように思います。「あなたが左なら私は右に、あなたが右なら私は左に行く」と、自分の一番身近な隣人にとって最高の選択をする者でありたいと思います。

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神の愛の勝利
ローマ8:35-39

僕たち人間は神のかたちに造られ、それゆえ僕たちは人格を持つのです。が、世にはモノと人格の戦いがあり、人格を持たない世のあらゆる被造物は、僕らを常に非人格化しようとするとパウロは言います。 しかしキリストを通して知る神の愛のあるところ、その非人格化は許されず、あくまで僕らは人格的であり続けることができます。だからパウロは「私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的勝利者だ」と言っているのです。 パウロは、クリスチャンとはキリストのために死ぬ者だとはっきり言います。これが僕らの信仰の中心だと。その時、キリストが復活したように僕たちも復活する、それがこの「圧倒的勝利」の中身なのです。 戦争は非人格化の極みですが、たとえ戦争でなくとも世には非人格化があふれています。しかし礼拝を通じてイエスの人格に癒してもらえる者たちは、いつでも人格的であり続け、神の愛の勝利の歌を歌うことができるのです。 この主の復活のいのちに生かされて、僕らは自分の持ち場に遣わされて行きましょう。そして時が良くても悪くても、神の愛の勝利を告げ知らせましょう。そんなあなたが今、あなたの持ち場には必要とされているのですから。

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光の中を歩もう
ヨハネ12:27-43

僕らは何を愛して生きているのでしょう。結局は「人からの誉れ」かもしれません。それは魅力的です。人に褒められて気分の悪い人はいないからです。だから、人の評価を気にしない、人を恐れない生き方というのは、言うは易く、そう簡単にできるものではありません。本当に人の評価を気にしない唯一の手段は、神を愛し、「神からの誉れ」を愛することです。 僕らクリスチャン・ビジネスパーソンにとって、仕事を通して神の栄光を証しすることは大切です。特にうまくいかない時こそ、その人の本質は出て来るものです。こんな最悪の状況にあってもあの人は崩れない。部下に当たるわけでもなく、いつも通り粛々と、淡々と、為すべきことをやっている。これはあの人のかつて言っていた信仰の故ではないかと周りが思う、それがキリストの香りなんじゃないでしょうか。 教会ではクリスチャンらしく、そして社会では社会の価値基準にどっぷり。そんなダブルスタンダートの教会生活は疲れます。どちらも持ち出しだからです。頑張って教会に来てもそこからエネルギーをもらえないのです。が、昨今の若者は、自分の人生で何が大切かを見極め、それを共有できる人間関係を持つことを最高の生き方と考える、そんな時代になったと言われます。日本独特の「本音と建て前」はもうはやらないんです。 僕らはイエスの復活を知る者です。「いつも喜んでいなさい」は、それ故にできることです。「わたしはすでに勝利した」と主は言われましたが、僕らはその勝利を知る者たちです。僕たちクリスチャンは、本音と建て前の2本立てでなく、神からの栄誉の一本勝負の人生をこの2000年貫いて来た特殊な種族です。主はよみがえられた、主は勝ったと、このことを証しするために僕らは社会に遣わされているのです。

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アブラハムの旅立ち
創世記12:1-8

召し、コーリングを受けるとは、神からの促しを受けること。そして心が変えられること。ただこれはあくまで「促し」であって強制ではありません。だから逆らうこともできるのです。でもそれは神があなたを祝福したくて、そのためにあなたに示されるもの。アブラハムは答えがないままに神に信頼して出発し、その結果、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」と呼ばれるほどに、彼は人類の全ての祝福のスタートとされました。 僕らはもっと神に信頼して人生を楽しめばいいと思います。でも実際は、取るに足りないものを恐れ、楽しみ切れていないというのが実情ではないでしょうか。信仰とは、不安や恐れの中で、神に「恐れるな」と呼び掛けて頂き、その恐れの中にあっても支えられ、選び取って行く経験をし、それを体で覚えていくことです。実際アブラハムのやったことは、神の促しにしたがって、家畜を連れて引っ越しただけでした。が、大切なのはそれが神の促しへの応答だったということ。神は小をもって大をなさるお方なのです。 僕らも、神の召しにしたがって、「キリストにあって十分だった」と語れる人生を送りたいと思います。そのとき僕らの人生は、神の永遠のスパンのご計画の一部とされているのです。あとは神がなさいます。人生の主役は、神に従ったその時点で、すでに神にバトンタッチされているからです。日々リアルな弱さにもがく僕たちですが、僕らの回復のための努力は、世界の回復のご計画に結び付いています。そして僕らが感じる小さな回復の喜びは、再臨の時に世界をおおう喜びの予行演習なのです。

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バベルの塔
創世記11:1-9

バベルの塔は、為政者が人々の多様性を封じ込め、すべてをコントロールすることで、その建設は行われました。必要な人員を集め、一つの言語に統一したのです。しかし、神はそれを見過ごすことなく天から降りてこられ、セム、ハム、ヤフェテの時代の、多様な言語と文化に戻されました。どこに住んでもいい、どんな生き方をしてもいいという自由な状態にです。 ペンテコステでも、同じことが起きました。人々がその多様性を保ちながら、多くの言語を自由に使い、キリストの福音を語ったのです。何かと同じことを求める今の日本にはこの聖霊の働きが求められています。日本は不思議な国です。迫害ないのにキリスト教は1%以下。それも減り続けています。日本は聖霊によってはじめて、この天空の支配者サタンの呪縛から解放されるでしょう。 対人関係の問題も同じです。信頼できない人はいます。でも僕らはその人の中にある聖霊に信頼するのです。そのとき相手の人だけでなく信頼する自分も変えられて行く、これが聖霊のダイナミズムです。何をするでなく、そうして変えられ続けるあなたの存在が、周りを変えていきます。いつか感謝を持って見まわしたとき、あなたも周りも変わっていたということを発見するでしょう。

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ノアの箱舟
創世記9:1-17

洪水の後、空にかかった虹の「契約」を、神は人間と結んでくださいました。でもこれは人間の結ぶcontractではなく、一方的な恵みの契約、covenantでした。ノアに対し、「もう滅ぼさない」という約束。何をしたからでもなく、何をするならでもない、無条件であなたを祝福するという、そんな誓いを神は立てられたのです。 虹が出ていても出ていなくても、今やそこに十字架が上書きされています。神が本気で差し出されたこの祝福を、僕らはどれほど本気で受け取っているでしょうか。僕らは自分の現実を見て、神の祝福はどうせこんなもんと、小さく見積もってしまっているところがあります。でも神は、ご自分の作品に、絶対悪いようにはされません。それは、その作品が好きで好きで仕方がないからです。 もっと大きな口を開けて、ポケットを広げて、大胆に求めましょう。そしてその祝福を頂きながら、これ以上ない祝福がすでに注がれていることを信じて、一歩踏み出す。その時、その祝福が現実になるんです。イエスの復活を通して、「賭け」に大勝ちされた神の勝利を、希望を、祝福を、愛された息子として分けてもらう・・・そんな素直な信仰者であることを、神は一番望んでおられます。

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カインとアベル
創世記4:1-17

カインは、神に不公平な取り扱いをされたことに怒り、アベルを殺しました。それは、自分が主人公だと勘違いしたからでした。主人公の座を奪ったアベルが許せなかったのです。こいつさえいなければ自分が返り咲けると。神が真の主人公だということを忘れたゆえの怒り、それは、アダムとエバと本質的に同じ間違いでした。「あなたはどこにいるのか。あなたはわたしが主人公であることを知っているか」神のこの問いかけに、僕らは「はいここにおります。知っています」とまっすぐ答えたいものです。 ところがそのカインに、神は徹底的に寄り添われました。語り続け、誰かに殺されることを恐れたカインに対しても、しるしをつけることで彼を守られました。それは、この男はわたしの庇護のもとにあるという愛のしるしだったのです。あくまで愛。ぶれない神のお姿がここにあります。 イエスの血はアベルの血よりも優れた血だという言葉があります(ヘブル12:22-)。アベルは復讐を求める血、正しいさばきを叫び求める血です。が、イエスの血は罪びとの赦しを叫び求める血なのです。「父よ、彼らお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」と叫んだこの叫びです。僕らはこのイエスの後について行く者です。決してカインの後にも、アベルの後にもついて行きません。とりなす者、赦し、共に歩もうとする者、ぜひその生き方を僕たちも選んでゆきたいと思います。