カテゴリー
礼拝メッセージ

失楽園
創世記3:13-24

エデンの園からアダムとエバを追い出した神でしたが、ご自身も楽園に留まることはなさいませんでした。神の愛の物語、ネバー・エンディング・ラブ・ストーリーは楽園の外で続くのです。創造、堕落、贖い、刷新、回復の5つが神の物語の全体像ですが、このうちの後半3つは、神が人を追いかけて楽園の外に出て来られたあとの出来事でした。 創造の時に「よかった」と神が叫ばれた、あのすばらしさはあなたの仕事にありますか。堕落の悪影響はどんな形で出ていますか。次に贖いですが、十字架の業はあなたの仕事にどう反映されていますか。また世に対するどんな刷新・リニューアルの役割が今の職場にありますか。そして完成ですが、あなたの仕事は新創造の中でどう神の働きに貢献しますか。 各業界で、これらの内容は違っていますが、この刷新部分が、クリスチャン・ビジネスパーソンの役どころなのです。もちろん戦いはあります。原福音でも「かかとに蛇がかみつく」とありますから。でも教会は負けない。それはイエスの勝利があるからです。そして、僕らの刷新の働きの一つ一つが、神の物語を形づくっていくのです。 この思いをもって会社に向かうあなたを想像してみてください。何も考えずにto do listをにらんで会社に向かうこれまでのあなたとは明らかに違う自己像がそこにあるんじゃないでしょうか。これが霊的呼吸なんです。これがいのちある職場の過ごし方であり、「神の遣わし」なんじゃないでしょうか。僕らの為すべきことは、おかれた場所で、日々為すべき刷新の業にていねいに取り組むことです。世界を支配しておられるのは神だからです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

ああ、アダムよ、人間よ
創世記3:1-12

どうして食べてはいけない木なんかを園の中央に植えたの?これはひっかけ問題か?神さまちょっと意地悪なんとちがう?と、最初にこの箇所を読んだときは思いました。でも違うんですね。世界は創造主なる神が造られました。しかしその完成には、僕たち人間の「愛の選択」「いのちの選択」が必要だったのです。 園の中央には、まずいのちの木があったと聖書は言います。その次に善悪の知識の木があり、その木は、食べることが禁止じられていたのですが、神は僕らに「いのち」を選んでほしかったのです。いのちを選ぶとは、神を愛し、神に従う道を選ぶこと。そして、生物的な生命より大切なものがあると知った時、使命と役割に生きる時、人は本当の意味で生きるのです。 それは大きな決断をすることを言っているのではありません。どうしようもなくしんどい時、少し神の方に手を伸ばす、ちらっとイエスを見る、そんな行為を、神はご自分を選んだ行為と見て、喜んでくださるんです。僕たちは、いのちを選んだ者たちです。でも一回で終わりじゃない。今日も、明日も、明後日も選び続ける、これがクリスチャンの生き方です。 アダムが失敗したこの選択を、僕らが正しくできるのは、僕らが一人じゃないからです。愛するために生き、死んで復活されたイエスが、僕らとともにいてくださる。そして、どうしても駄目な時も、「あなたはどこにいるのか」と捜してくださる。その声を聞くなら、「私はここにいます。罪びとの私をあわれんでください」とお応えしましょう。その時、父はすぐさま、キリストのいのちで僕らを包んでくださいます。

カテゴリー
礼拝メッセージ

主の光に引き上げられて
ヨハネ12:27-36

私たちは人生において、自分自身に幻滅することがどれほど多いかと思います。それは、世的な基準で評価した結果が悪かったり、他の人と比べて見劣りしたり、理想としていた基準に達せずそのギャップに苦しんでという場合がほとんどです。でも、神の目から見てどうなのでしょう。神は預けたタラントを以て実を結ぶことだけを私たちに求めておられます。 イエスは、ご自身が十字架から上げられる時、私たちを引き上げると約束しておられます。鉄くずのような私たちをもあきらめない、イエスの愛のmarvelous magnetに感謝したいと思います。私たちがこの恵みに与る方法は、唯一の救い主であるイエスを信じ、悔い改めの実を結び、光の子として歩むこと。その時私たちも「今日あなたはわたしとともにパラダイスにいる」と言っていただけるのです。 レンブラントの「三本の十字架」という版画があります。本来十字架の周りは真っ暗のはずですが、彼の絵には光があふれているのです。それは天からの光で、十字架のイエスご自身と、イエスを主と告白した泥棒と、百人隊長に注がれています。そしてこの光は闇ゆえに光り輝くのです。私たちの人生も闇が深いかもしれません。が、深ければ深いほど、イエスの復活の光はとんでもなくまばゆく、私たちの人生を照らしてくれるのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

一粒の麦の恵み
ヨハネ12:20-26

昨年の東京オリンピックでは多くのゴールドメダリストの勇姿が報じられ、まさに栄光のラッシュでした。本領を発揮し人生の頂点に立った人たちの笑顔は、今も目に焼き付いています。イエスもここで「人の子が栄光を受ける時が来た」を言われましたが、それは一粒の麦として死ぬことを指していました。これがイエスの本領発揮の時であり、ゴルゴダの丘がその「ひのき舞台」だったのです。 洗礼を受けても信仰から離れてしまう人がいますが、それは、その人の中で、このイエスの死が意味ないものとなった時に起こる現象です。それは、イエスという一粒の麦を踏みにじる時であり、それによって生まれた自分という一粒をも踏みにじる時です。イエスのいのち以上に自分の命を愛する時であり、そこからその人の人生の孤独が始まるのです。 僕たちが人を愛する、その愛は教会にあります。キリストがからだなる教会を愛されたからです。そしてそのキリストに仕える気持ちが、夫を愛し、妻を愛し、人に仕える気持ちを生み出してくれるのです。その時あなたは一人じゃない。なぜならキリストがあなたとともにいてくださるからです。 キリストは2000年後の僕らの生活の中で結ばれていく一粒一粒を見ながら、「一粒の麦は落ちて死なずば一粒のまま。しかし死ぬなら多くの実を結ぶ」と語られました。「これぞわが栄光!」と。このキリストの栄光を、僕らも自分の生活の中で味わわせて頂きましょう。そしてこの栄光をキリストと共有する限り、僕らが信仰から離れることは決してないのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

しゅろの聖日・まことの主イエス
ヨハネ12:12-19

しゅろの主日は、イエスキリストがエルサレムにロバに乗って入城された日曜日のことです。群衆は「ホサナ!今お救い下さい」と歓呼の声をあげました。が、その5日後には、この同じイエスを十字架にかけて殺すのです。これらすべてをご存じの上で、あえて群衆の歓呼に応えられたイエスは、この時どのようなお気持ちだったのでしょう。 ただ一つはっきりしているのは、イエスは、群衆ではなく父なる神を見ていたということ。それゆえに、心を一切さわがせることなく、このエルサレム入城と、それに続く十字架と復活にイエスは堂々と向かわれたのでした。僕らも日ごろ誰を見ているのかが問われます。人の評価に右往左往することなく、神のみこころに標準を充てた生活を送りたいものです。 イエスの、王としてのエルサレム入城は、長く旧約に語られてきた預言の成就でした。このように聖書の預言はことごとく成就します。イエスがもう一度来られる「再臨」もしかり。僕らは日ごろから、このイエスの再臨に標準を充てた生活をしているでしょうか。バタバタする必要はありませんが、首都直下型地震に備えて水の買い置きをするがごとく、再臨に備えた日常を送りたいものです。 エルサレム入城の日曜には大歓声でイエスを迎え、金曜には十字架に捨て、再び日曜の復活を通して悔い改めに導かれる。口先でイエスを大歓声で迎えた群衆は、私たちです。しかしこの群衆の歓呼をあえてお受けになる、ここにイエスの、我々への、いつかは帰って来るという信頼があるのです。やがて天の御国で、「イエスこそわが王」と、心から声をあげる者へと、我々は招かれているのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

ナルドの香油の放つ香り
ヨハネ12:1-11

あなたには未来に対する計画がありますか?友達はいますか?デボーションが義務になっていませんか?この3つにネガティブだと、ユダの罪に走る可能性があるし、最後は燃え尽きる可能性すらあると、「牧師のレジリエンス」という本を書いたジョン・ヒューレットは言います。ショックな言葉ですが、これは今の僕たちの働きが、Beingを忘れてDoingに走っていないかを問う質問でもあります。 マリアが香油を注いだあの現場に居たとしたら、あなたはどちら側でしょうか。イエスに最上のものを差し上げるとなったら一滴残らず全部振りまいてしまうマリアか、それとも「それは高く売れたのに」と批判するユダか。マリアはイエスの最高の賛辞を得、ユダはイエスから悪魔呼ばわりされます。が、これはユダだけではなく、ペテロも「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されました。 結局僕らは、何をするとしても、イエスの十字架に対する感謝の応答からするのでなければ意味がないということです。それもなく、とにかく見えるところで勝負するというのが、ユダの罪の始まりなのです。マリアは、イエスの十字架の死を、何より価値ある宝物ととらえました。僕たちも、自らを推薦する者ではなく、イエスの十字架を推薦する者でありたいですし、愛されているという喜びと感謝を出発点に、自らの賜物をささげる者でありたいと思います。

カテゴリー
礼拝メッセージ

世界で初めのクリスマス
マタイ1:18-2:12、ルカ2:6-20

皆さんはヨセフの立場で処女降誕をとらえたことがあるでしょうか。おなかの子は神の子だと夢の中で天使に告げられても、それだけで100%納得がいくでしょうか。「俺はただのお人よしで、世界一の大バカ者かもしれん。」そんな疑問を打ち消しながら世間の荒波に耐える・・・これがヨセフに課せられた務めでした。 誰にも助けを求められない。だから逃げるように駆け込んだ馬小屋。そんな世界一孤独な、極限状態で生まれたのが主イエスでした。でも生まれたばかりのイエスを腕の中に抱き上げた時、その子はヨセフの何かを救った・・・ヨセフの目からは涙がこぼれ落ちたんじゃないでしょうか。 僕らは「助けて」と、声すら上げられない孤独の中にいる時があります。でも、そんな居場所のない僕らの心の中に生まれてくださるのが主イエスであり、このイエスをお迎えするのがクリスマスなのです。主のご降誕を心から感謝したいと思います。 神のモチベーションはあわれみです。本来、天を超えて高いところにおられるはずのお方が、その高みから身を投げ出して、降りて来られた。本来は「静」なるお方が「動」となられた。これが神の愛です。愛は自己保存のための武装をせず、傷つけられることを恐れないのです。 幼子イエスを礼拝し、「静」のなかに「動」を見た博士たちは、別の道を通って帰りました。僕らは今日、何を決断すべきでしょうか。何を変えて頂くべきでしょうか。どこに踏み出して、神のこのダイナミックな愛にお応えしていくべきでしょうか。

カテゴリー
礼拝メッセージ

恵みを受ける人
ルカ1:26-38

僕らは人生の中で、色々な選択をします。でも、自分の人生を振り返ると、その根幹部分が、努力の結果や熟慮の末に選択したことによって決まるのではなく、「出会い」によって決まってきたことを発見します。つまり神のご計画、摂理が、人生の大枠、いや全てを決めると言って過言ではありません。 マリアは、突然現れた天使ガブリエルから、「おめでとう、恵まれた方」と言われ、「あなたは神の子を産みます」と一方的に言い渡されます。実際それは試練の始まりでした。が、それを「恵み」と受け取り、「お言葉通りになりますように」と答えた従順さに、僕らは信仰者のあるべき生きざまを見ます。 転勤、解雇等々、降ってわいた出来事に僕らは抵抗します。また人生の選択に震えおののきます。でも神は僕らを愛しておられ、その恵みは無限大。だから信頼して恵みを待ち、感謝してその恵みを受ければいいのです。戸惑いの人生か、それとも神の用意された料理をおいしいと堪能できる人生か、その分かれ道がここにあります。 アドベントは、ラテン語のアドベンタス(到来)から来た言葉で、大事件の到来をハラハラドキドキ待つこと。そこからアドベンチャーという言葉が出てきました。たとえ恵みの全体像が見えなくても、そこに主と共に踏み出すグレート・アドベンチャーがあるのです。その思いをもって、「お言葉通りにこの身になりますように」とお応えしたいものです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

クリスチャンとしての成熟・変容篇
ピリピ2:5-11

キリストの受肉は奇跡中の奇跡です。それは、陶器師が、陶器になられたということ。それも壊されるために。この神の「変容」が分かった時、僕たちも初めてキリストに似た者として変えられて行くのです。 ダビデは主の箱が戻ったことを喜んで、「力の限り跳ね回った」と聖書にあります。よほどうれしかったのでしょう。ところが妻のミカルはそれをみてダビデを蔑んだと。ミカルは、自分の夫に、部下たちの手前、もっと王らしく、堂々とふるまってほしかったのです。 僕たちは、周りの人が喜ぶようにと自分らしさを殺してしまうことがあります。それはミカルの世界です。でもダビデは、人が何と思おうが、自分の踊りで主を賛美しました。僕たちも、人まねではなく、神が造られた自分を100%発揮して全身全霊で神を賛美したいと思います。 職場のパワー、ステータスは、神がご自身の愛を運ぶためのツールとしてあなたに託されたものです。そしてあなたの周りの多くの涙を癒すため「それを貸してほしい」と、今神は言っておられます。「はい」と応答するとき、あなたは職場において神を賛美する者へと変えられます。

カテゴリー
礼拝メッセージ

クリスチャンとしての成熟・福音篇
マルコ1:9-11

僕たちは頑張ることを求められる世界にいます。その結果、頑張った末できなかった時には自信を失い、できた時には傲慢になります。それは決して「当然のこと」ではなく、僕たちが福音に生きていないことから来る残念な結果なのです。 「あなたはわたしの愛する子」という、天の父がひとり子イエスに掛けられたこの珠玉の言葉は、そのまま私たちへの言葉でもあります。でも、自分の働き、功績に頼るなら、この愛の言葉も僕たちの人生には響かなくなってしまいます。 悪いことを悔い改めるのは、ある意味簡単です。でも、いま必要なのは、自分のやっている「よいこと」が偶像化し、あたかも自分を自分たらしめている最も大切なもの!となってしまっている状況に気づき、これを悔い改めることなのです。 そして落ち込むことの多い僕たちが元気になる秘訣は、こんな罪深い僕らを愛し、僕たちに祝福の計画を用意している神を知ること。そして、その神の力は僕たちの弱さを通して完全に発揮されるという聖書の奥義を知ることなのです。