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人生の分水嶺
ヨハネ11:45-57

僕たちは、奇跡を見たら信じるのではないかとつい思います。でも聖書は、奇跡を見ても信じなかった人がたくさんいたことを伝えています。僕たちの信仰は、奇跡を見るか、人生がうまくいっているかには関係なく、みことばに応答することによってのみ生まれるものなのです。 そしてみことばによって与えられた信仰は、人生の中で「生きて働く主」を体験するとき、飛躍的に成長します。ああイエスは見ておられる。それも自分の非を責めるためではなく、自分が大きくそれないように守って下さっていると感じる時にです。そしてそれを伝えるには、牧師自身が生きて働く主を信じ、経験しているかが問われます。 まず牧師がそれに「アーメン、信じます」と応える。そして、その説教を聞き、死ななければならない存在である僕らと、神の子イエスが死んだという事実が切り結ぶとき、つまりキリストの死としっかり向き合うときに、僕らは初めて、「死からいのちへ」という峠に立つのです。

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ラザロよ、出て来なさい
ヨハネ11:38-46

日本人も、ギリシア人も、世界のもとの状態は死んだもので、そこには命はなく、無だったと考えます。命はその上に一瞬咲いたあだ花みたいなもの、だから最後は死に帰ると考えるのです。でも聖書はまったく逆のことを言います。初めにあるのはいのちであって、光だと。だから僕らは、本来的な立場に戻るなら、いのちと光に戻るのです。 イエスは「栄光の栄光」「光の光」です。それほどに光なるお方が、今墓に訪れる。それが「ラザロよ、出て来い」の叫びでした。あなたは今、墓場としか思えないようなところに居ませんか。ラザロよ出て来い。そこはあなたのいる場所じゃない。世界は元々いのちと光に満ちている。初めにあったのがいのちなら、終りに登場する栄光もやはりいのちなのだと主は言われます。 病を持つ方のために祈る機会があるなら、癒しと同時に、その方が永遠のいのちを頂くために全身全霊で祈りましょう。今いのちの主が、あなたに触れようとしていますよと。僕たちは、ラザロを墓から呼び出し、死んで死に打ち勝たれた勝利者なるイエスを知っているからです。そしてこの2000年前の事実を今の自分のところに引っ張ってくるのが信仰なのです。

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憤り、涙するイエス
ヨハネ11:28-36

僕たちには日々心騒ぐことが起こります。が、イエスが心を騒がされ、涙された。愛する者たちに死と絶望をもたらす、悪の源なる悪魔に対し、愛の憤りをもって挑み、勝利をされた。それがラザロ復活劇であり、そこから始まる十字架への道でした。 イエスはご自身の心騒ぐ戦いの末に「あなたがたは心を騒がせてはならない」と言われます。「なぜなら私の父の家には住むところがたくさんあるから。神を信じ、わたしを信じなさい」と。僕らの騒ぐ心は、根こそぎ掬い取って頂き、持って行って頂けるのです。 イエスの涙は、疑いようのない慰めです。そして死にゆく人にとってもこの涙は、死の闇を照らす光です。僕らは死ぬときこの涙を思い出すことができます。イエスはこの自分のために、今まさに涙を流してくださっていると信じて死ぬことができるのです。 それも、その愛の涙が、激しい憤りとともにあるということ。その憤りとは、すでに勝利した悪魔への憤りです。未だに最後の力を振り絞ってなんとか僕らを死と絶望の淵に追いやろうとする、往生際の悪い悪魔に対する怒りです。 イエスのよみがえりの光の中で、僕らの人生は、死を恐れない人生に変えられます。そして死を恐れない人生は、細かな恐れを吹き飛ばします。Jesus wept…僕らの悲しみに、駄目さに、常に寄り添ってくださるイエス。このイエスの語り掛けを聞く一週間となりますように。

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創造の完成
創世記1:26-2:3

僕たち人間は神のかたちに造られ、男と女に造られたと聖書にあります。それは三位一体の愛の関係をこの地上で完成するのは夫婦であるということ。認め合い、愛し合い、互いを尊敬し、個性を生かし、なおかつ独立している、そんな理想の夫婦は、間に神がおられて初めてできる関係なのです。 また神のかたちである人間は、神の創造の業を引き継ぎ、それを完成させる役目も担っています。創造直後のすばらしかった世界は、堕落でおかしくなりました。が、その崩れた世界を回復に向かわせる方向性を、自分の「仕事」に見つけ出し推し進める、それが僕たちクリスチャンに求められる新しい仕事観なのです。 第七日目を神は休まれ、聖とされました。僕たち人間が、それまでに造られた全被造物を有機的に活用するように、神はご自身の働きを一切やめて、その日を祝福してくださいました。だから僕たちも日曜をより分け、神を礼拝するのです。全身全霊を以て日曜礼拝をささげる、これこそが神のかたちとしての最高のレスポンスなのです。

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よみがえりであるイエス
ヨハネ11:17-29

イエスの出発が遅れたため、到着した時にはラザロは死んで4日も経っていました。イエスがそこに居なかったためにラザロは死んだと思ったマルタは「あなたがおられたらラザロは死ななかっただろうに」と言いました。本当にそうでしょうか。イエスは遍在なるお方です。と同時に、時間にも縛られないお方です。またお気持ちひとつで死をも留めることができるお方でもあります。僕たちは信仰にしても、神理解にしても、はなはだ限界ある者たちですが、イエスはそれを全部ご存じの上で、恵みを施してくださるお方なのです。 イエスはご自分を「よみがえりだ。いのちだ」と言われました。が、永遠のいのちは、イエスと今まさに交わりを持つ者だけが得られる特権であり、その者は愛に生きる!とアウグスチヌスは言います。つまり問われるのは、今愛に生きているかどうかです。妻や夫に対して。子どもに対して。隣人に対して。その人が生きている間に生かされてきた愛が、その人を死に打ち勝せるのです。それを説明した上でイエスは「あなたは、わたしがよみがえりでありいのちであることを信じるか?」と問われます。マルタのように、「主よ、信じます」と答えたいものです。

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死で終わらない死
ヨハネ11:1-16

キルケゴールは、絶望こそが、人間にとって最も恐るべき「死に至る病」だと言いました。そしてこの絶望の出方には2種類あって、一つは自分の弱さにムカつきながら生きるという症状。もう一つが自分のやり方にこだわり、猛烈な自己主張に生きるという症状です。これらの「弱さの絶望」「強さの絶望」とは対極にあるのが「望みを抱いた正しい自己主張」、でもこれは自分が好きになって初めてできることなんです。 イエスが最も大切な戒めと言われたのが、神を愛し、自分を愛し、人を愛するという3つの愛でした。「自分を愛するように人を愛する」は、僕らの隣人に対してできるmax/maxで、もし自分を愛することに絶望している人が居るとしたら、その人からは「人を愛する」は出てこないのです。逆に神のみこころを知り、その中で自分自身であろうとすること・・・ここにすべてがかかっています。 ラザロはイエスの光の中でよみがえりました。そしてこのラザロをイエスは「わたしたちの友」と呼ばれました。それは「お前たちにもラザロはいるだろう、その友のためにいのちを捨てるなら、あなたがたはわたしの友だ」ということです。僕らが絶望しないで済むのはイエスが復活されたから。この希望に生きる時、僕らは自分と和解し、いのちに生かされ、来るべき死の門を、喜びを以てくぐることができるのです。

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天にまします我らの父よ
マタイ6:9-13

祈りの習慣はありますか。それは、「お願いリスト」を空に打ち上げるような祈りになっていませんか。そうではなく、イエスキリストは、まず神が何を求めておられるかを知るために神のそばに行く祈りをせよ、神とともに過ごしたいという思いで神に近づく祈りをせよと言われました。動でなく、静の祈り・・・それが「御国が来ますように」「御心がなされますように」の祈りなのです。 自分が誰なのかを知り、神の大きな流れの横に立ち、何を期待され、何を為すべきかを思いめぐらす時、僕らの祈りは変質していきます。神は僕らがそう思う以上に、僕らと一緒に居たいと思っておられる・・・それが分かると、これまで必死で祈ってきたことが、神は全部ご存じで、そのすべてに責任を負ってくださっているということが分かって来る。その時祈りは「僕はいったいあなたと何をすればいいのですか」に変わるのです。 そして誰にも見せたことのない奥の間に、イエスキリストを招きましょう。神は僕たちの祈りが口にのぼる前からすべてご存知ですから、従来の通り一遍の会話にはがっかりされているかもしれません。そうではなく、これまで誰にも明かさなかった苦々しい思い、罪意識、嫉妬心、疑いを表に現わすなら、不思議なぐらい、これまで自分を縛って来た力がスーッと抜けて、急に楽になります。今週是非この新しい世界へ!

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キリストの声を聞き分けよう
ヨハネ10:22-30

僕たちの人生には、あの事さえなかったらということがたくさんあります。失敗、挫折、そして人と比べてどう考えても自分に足りないもの、欠点、欠陥、適性不足・・・。神は愛、全知全能と言われても、自分に関してはそれが感じられず、「すべてのことを働かせて益とする」と聖書は言うけど、「どこが?」という思いに、ついなってしまいます。 しかし人生はドラマです。すべてのドラマはダメだったものが回復するという筋書き。パラリンピックが感動的なのは、その回復、復活の物語がすべての選手にあるからです。聖書は、その回復のドラマの最たるもの。素晴らしく造られた人類が罪によってダメになった。そこにイエスキリストの十字架の贖いあり、もとの状態よりもさらに良いものに、人間もこの世界も変えられていく。これが聖書の示す人類の物語です。 イエスは「わたしの羊をわたしから奪い去る者はいない」と言われました。「あなたに預けたspecial giftを以て、わたしと一緒にあなたの物語を完成させよう。わたしは死から復活し、この世に勝利した。このわたしを信じなさい。」と言われます。イエスの群れに属する羊は真の牧者の声を聞きわけます。逆にそれ以外の群れの羊にとっては、それは愚かなことだとも。さて僕たちはどちらでしょうか。

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天と地と人間の創造
創世記1:26-31

神は僕たち人間を「あなた」と呼び、人格的交流の対象とされました。それが「神のかたち」の意味するところです。が、あなたは神を、モノあつかいをしていませんか。良い道具を捜すかのように、良い事だけをしてくれる神を捜すことを「偶像礼拝」と言います。 神をモノ扱いする人は、他人をもモノ扱いし、その人と問題が生じた時には、うざい!と切り捨てます。その問題を通して、愛をはぐくむ発想にはなりません。そんな人は、結局は自分も「モノ扱い」し、仕事の出来栄えで人生を判断します。でもそれが幸せを測る尺度でしょうか。 人生の目的は愛し合う関係を持つことです。神との、そして人との。神は人間を造られて「非常に良かった」と言われました。神を愛さないかもしれないこの人間に対して。ここに神の愛の覚悟があります。神は、混とんから、非常に良いものを生み出される方なのです。 僕らは様々な混乱を通ります。病気、失職、人間関係…。でもその中で非常に良いものを生み出す方、それが神様です。混乱以前より、さらに良い人間関係を生み出します。虚無から非常に良い世界を造り出した神が、今僕らの人生の中でそれをなそうとしておられます。だから試練の中でも絶望してはならないのです。

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試練における支え
(三橋与志哉先生)
マタイ14:22-33

イエスは弟子たちを強いて舟に乗せられました。が、その舟が嵐に遭ったのです。なぜ?と思います。それも、元漁師の弟子たちにさえ手に負えないほどの猛烈な嵐でした。舟は制御不能となり、彼らの自信も吹っ飛びました。私たちは、たとえ神に従って踏み出したとしても、逆境や試練を通ることがあります。 嵐に遭って弟子たちは叫びました。大の男たちがです。でも、そこにイエスはおられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださいました。私たちは、困難に遭うと、まず自分だけでそれを解決しようとしてしまいます。でもあなたは一人ではありません。イエスは試練の中にもおられます。 波が静まったあと、ペテロは水の上を歩きました。が、周りの状況を見て、恐れ、沈みかけて叫びます。私たちは、たとえ信仰を持っていても、常に信仰と不信仰の間で揺れる者たちです。私たちの信仰、頑張りは、決して信頼に足る土台とはなりません。しかし、私たちにはイエスがおられ、この方は真実な方です。 沈みかけた時、ペテロがイエスにしがみついたのではなく、イエスが彼の手をしっかり捕えたとあります。そして風がやむと、彼らは礼拝したと締めくくられています。嵐を通して、彼らはイエスがそこに居られ、イエスこそ神であるということを知ったのです。神に従っても困難はあります。が、その時、主の真実さがあなたを支えてくださいます。