「わたしは羊のためにいのちを捨てます」と言われたこのイエスのことばを、私たちはどれだけ自分へのことばとして受け取っているでしょう。私たちクリスチャンは、誰かのお世話をするとき、その人の中にイエスを見ます。これは素晴らしいことです。が、自分の中にイエスを見ているでしょうか。 困っている人、間違っている人を助けるには、困っている自分、間違っている自分に今寄り添い、助けてくださるイエスを見、その癒しを受け取った時に、初めてその人に対しても本当の伝道ができるのです。 またイエスが関心を示された「わたしの囲いに属さないほかの羊たち」は、これまで教会には見向きもしなかった人たちのことですが、この人たちを本当の牧者に連れ戻すには、私たち自身が「その牧者に今日帰るという」方向性を持っていることが必要です。 イエスが私たちの中でそのように働いてくださっていること自体が、レジリエンス(折れない心)です。そして、自分の弱さをイエスによって支えて頂いているという方向性が見えた時、周囲の人も本気でイエスに頼ってみようという気になるのだと思います。今どんな状態かということより、今イエスを見ているか。その方向性が大切なのではないでしょうか。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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イエスはよい羊飼い
イエスは門。この門を通らずに羊小屋に入る者はすべて、偽牧者であり、盗人だとイエスは言われます。羊に仕えるのが牧者であり、偽牧者は羊を食い物にし、最後は散らす者たちだと。ところで僕たちはどちらでしょう。真のサーバントリーダーは、「わたしは羊のためにいのちを捨てます」と言われたイエスに似る事なしには存在し得ないのです。 今の世界のクリスチャンリーダーたちは、なぜか力と富と繁栄を標榜します。が、マハトマ・ガンジーが目指し、達成した5億人の民主主義国家は、その延長線上にはありませんでした。彼はイエスの門から入り、イエス自身を手本とし、和解と、謙遜と、身代わりの犠牲に生きた真の指導者でした。でもその彼がクリスチャンではなかったというのは、なんという皮肉でしょう。 ですから僕らがリーダーになる時は、今、どっちを向いているか、本当にイエスの声を聞いているか、イエスの心を心としているか、問い続ける必要があります。そして自分が盲目で自己中心であることを認め、悔い改めることから始めたいと思います。小さな悔い改めが御国の到来の第一歩。1人が悔い改めるなら99人に勝る喜びが天にあるのです。(ルカ15:7)
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「すべてはよかった」と。なおかつすべてが人間中心。これが世界の始まりの図でした。が、現実はどうでしょう。世界のあちこちが壊れているとしか思えないような状態です。コロナ、アフガン、気候変動、周りの人間模様・・・。それは、イエスの到来によって始まった「御国」が、「いまだ」と「すでに」の間にあるからです。だから僕たちクリスチャンは、「御国が来ますように」と祈るのです。神が造られ、神が「よかった」と言われた、創世記にある神の完全なご支配が再び来るように祈るのです。 神は人類への愛ゆえにこの世を創造されました。そして神は人類への愛ゆえに、ひとり子イエスをお送りくださいました。創造から始まった人類に対する変わらぬ愛。それは、父からイエスへのロングパスとなり、イエスはそれをしっかり受け取り、十字架のゴールに持ち込んで下さいました。これらはすべて、神が私たち人間を愛するが故の、三位一体のチームプレーだったのです。 神は、この小さな地球に最大の関心を持っておられます。それは、そこが贖いの舞台だからです。あなたの過去の嫌な出来事は消せませんが、そこにイエスの十字架の贖いを迎え入れるのです。事実は消せないけど、福音のレンズでそれを見る。委ねるとは、自分で守ることを辞め、代わりに神に責任を持ってもらうことです。そのあなたの決断を、神は天をあげて喜んでくださいます。「光あれ、すると光があった」の光を楽しむ人生、勝利の主とともに歩む人生を、ここからスタートしたいと思います。
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盲人は礼拝堂を追い出された後イエスと出会い、最後は「主よ、あなたを信じます」と言ってイエスを礼拝します。この盲人は目が開かれてから、何もいいものは見て来ませんでした。見たのはせいぜい彼を取り囲む野次馬、言い逃れをする両親、形式主義のユダヤ人などで、その中に彼の目が開かれたことを喜ぶ人はいませんでした。が、その嫌な経験とイエスとの出会いは、無関係ではありませんでした。 僕たちも、人に裏切られがっかりすることの連続ですが、それを通してイエスを礼拝する者に変えられるのです。これが、彼が盲目で生まれついたのは神の業が現れるためだとイエスが言われた「神の業」(ヨハネ9:3)なのです。 僕らは未だに心の盲目状態にあり、立場や、国籍や、いろんなもので人を差別してしまう弱さがあります。そうではなく、「最も小さな者にしたのはこのわたしにしたのです」と言うイエスにお仕えする者でありたいと思います。そのためには「自分には闇があります。ここに光を下さい」と、心の闇を告白し、イエスの光によって真昼の心に変えて頂きましょう。 クリスチャンとは霊的呼吸をする人のこと。吐く息が悔い改めで、吸う息はその罪が赦されたと信じることです。逆にこの呼吸を辞めるなら、僕たちは霊的に死んでしまうのです。是非この盲目の男性と同じ信仰を持ち、心からこの主を礼拝したいと思います。
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癒された盲人は、神学的な知識は何も持っておらず、イエスについて問い詰められても、知らぬことばかりでした。が、「ただ一つのことはわかっています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ときっぱり答えることができました。キリスト教は事実を扱う非常に科学的な宗教です。神に聞き従うとは、自分が体験したことを証しすること。実は僕らのやるべきことはこれだけなのかもしれません。 紀元1世紀のユダヤは、イエスの味方をすると追放される社会になっていました。盲人の両親の「本人に聞いてください」の言葉は、それが怖くて言い逃れをしたのだと、ヨハネは説明しています。が、盲人本人は、「彼は神から来たキリストです」と言い放ち、ユダヤ人の不興を買い、追放されます。でもそれゆえにイエスと出会うことができたのです。我々も人目を恐れず是を是とし、イエスに会う道を選びたいものです。 ヘンリーナウエンは、「放蕩息子の帰郷」の絵を見て、「自分は兄息子だけど自分も父親に触れてほしい」と思い、ハーバード大の教授職を捨て、ラルシュ共同体に移り住み、そこで神に本当に愛されるとはどういうことかを知ります。そして最後の10年は、「成功しろ、成し遂げろ」ではなく、「『これは私の愛する子』と言う慰めに安らげ」の声を聞く人生にシフトチェンジします。さて、あなたは日ごろ心の中のどんな声を聞いているでしょうか。
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僕たちは伝道するとき自分の導かれた道筋をイメージして伝道します。救いの証しもします。でもそれが伝わらないこともしばしば。それは皆さんが、「互いに人を自分より優れたものと思いなさい」(ピリピ2:3)とある通り、僕たちより優秀だからです。だから、「この人は僕の説得力では導けません。でもあなたなら可能です。今働いて下さい」と、イエスの多彩さ、ポケットの多さに期待して、委ねたいと思います。この謙遜さは大事です。 マルチン・ブツァーは、「すべての栄光は神につながる。良い理由、良い目的無くして何も起こらない。神はその出来事の中で、こちらに顔を向けてくださっている。だからこちらからも、顔を向けて、忍耐強く、元気を出して、その時を待とう」と言っています。「だから、whyではなく、whatを問え」と。つまり「『なんでですか』じゃなく、『これからどんなことが起こるのですか』と問え」と言っています。 人は死を恐れます。でも本当の信仰者はそうではありません。その人は、死が新しい世界への通り道だと知っているからです。死が変質する、これがキリストの復活パワーです。ここに立つなら、日々のどんなことも決定的でないことが分かります。あなたに「最悪」はありますか。でもその「最悪」が、新しいストーリーの始まりなんですよね。今こそ「この人に神の業が現れるためです」のみ言葉に、もっと信頼したいと思います。
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信仰とは、まず主が既に与えてくださっているものを喜ぶこと。そして次に、主がこれから為そうとしておられることによって喜んでいくことです。僕らはともすると、喜びを自分で作り上げようとします。バベルの塔のように自分の力と努力で、喜びの世界を生み出していこうとするのです。主が為そうとすることを待とうとしません。でもそれでは、主のみ業を拝することも、主を喜ぶこともできません。 そうでなく、アブラハムがイエスの日を生きがいとし喜びとして生きて来たように、私たちも、イエスこそ自分の生きがい喜びとして歩めるよう、祈りたいと思います。そうするなら、それができるなら、時を委ね、賜物を磨き、そして一歩前に出る時は「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)の信仰を持って、本当の生きがいのある日々を生きることができるのです。 イエスはモーセに生きがいを与え、アブラハムの生活を支え、イザヤもイエスを証しし、皆がイエスの日を見て生きてきました。イエスはすべての時代でともに働いてこられたということ。これは過去だけでなく、今この瞬間も変わりません。その意味でイエスは、場所にも時間にも制限されない無限のお方です。このイエスと私たちはどのような関係を作っているでしょうか。
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「はじめ」は神のみが存在し、一切の被造物は存在しませんでした。その神が、ご自身の御力のみで、又私たちを愛する目的で、私たちを無から造られました。その存在の基である神を知るとき、私たちは初めて自分の存在の意味を知ることができるのです。この神が、最初に造られたのが天と地でした。天は全宇宙、地は地球。全宇宙からするとサイズ的には塵にも及ばないこの地球が、神にとっては最も麗しい場所でした。それは神がひとり子を送ってまで救おうとされた場所であり、そこに住む私たち人間の贖いの大舞台だからです。 宇宙から見た地球は、ブルーに輝くオアシスであり、いのちの楽園です。全宇宙そっちのけでこの地球に最大の関心を注いでおられる神の「アンバランスさ」はそのまま、70億そっちのけでこのちっぽけな自分に、そしてあなたに、最大の関心を寄せられる愛の神に通じます。その時初めて、「あなたは高価で尊い」とあなたに向けて発せられる神の愛のささやきが聞こえて来るのではないでしょうか。まさに「人とは何者なのでしょう。あなたが心を留められるとは・・・」です。 タチアナ・マクファーデンは米国の女子車いすレーサー。彼女の自分を鼓舞する言葉は「ヤサマ!」(ロシア語の「私はできる」)だと言います。多くのアスリートがそれぞれに「頑張りスイッチ」となるキーワードを持ちます。が、しょせんその頑張り力の源は自分自身。でも私たちクリスチャンには、天地を造り給うた主がともにおられるのです。ピリピ4:13「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」御子をお送りくださるほどに、全宇宙そっちのけで今も私を愛してくださっている、その愛に立ち返り、そこから力を頂く者でありたいと思います。
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悪魔は人殺しで嘘つきです。悪魔は蛇を使ってアダムとエバをだましましたが、このアダムの神への裏切りにより全人類が死んだ、このことが悪魔が本当の人殺しであることの証拠です。また、悪魔に壊された「悪魔の子」は、その存在そのものがすでに神に対する偽りなのです。 一方「神の子」、クリスチャンの特徴は、神のことばに聞き従うことと、愛をもっていること。愛する者は、言葉を聞く前から、相手の考えていることがわかるのです。愛情が分からせる力です。神の子には愛があるから、神のことばを聞き、理解し、従うのです。 信仰はシンプルです。今の時間をイエスの愛に安らぐなら、次にお会いするとき、つまり人生の終わりには、イエスはその人に100点満点を下さいます。これがまずクリスチャンのbeing。また、そのイエスとの再会まで、「どうせ同じ時間を過ごすなら、イエス喜ぶ使い方をしよう」と愛の赴くままにイエスの喜ぶことをするなら、それがクリスチャンのdoing。愛のある関係は、何をやれば喜ばれるかがわかるからそれができるのです。
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この10年、日本は3・11やコロナ危機といった様々な困難に遭遇しています。思うに任せない挫折感を味わっておられる方も多いことでしょう。しかし、聖書は「地は変わり、山々が海に沈むほど揺らぐ…神は夜明け前にこれを助けられる」(詩篇46篇)と、どのような状況にあっても、全てを支配しておられる神が共におられることを教えています。 イスラエルの歴史において、バビロン捕囚はまさに信仰の根幹を失うという危機でした。一方で国が変わる契機ともなりました。最も大きな変化は礼拝の形でした。神殿でいけにえを献げることができなくなり、各地にできた会堂でレビ記が朗読されるようになりました。そしてイエスがその十字架と復活によって、まことの礼拝の形を完成されたのです。「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:23) バビロン捕囚のさなかにエレミヤは「将来と希望」を語りました。全てのクリスチャンは、「元どおり」の状態への回復ではなく、神が共におられるという繁栄(シャローム)の実現を主に信頼し、自分の力を抜いてまず神の御前にしずまる者でありたいです。「静まれ。そして、知れ。『わたしこそ神…』」(詩篇46:10)
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