放蕩息子は父を傷つけ、父の財産を湯水のように使い果たしました。が、父はその悔い改めた弟息子を受け入れました。ところで兄息子は父の何を求めていたのでしょうか。実は兄息子も弟と同じく、父自身を求めていたわけではなく、父の財産が目当てでした。だからこそ、それを無駄遣いした弟が赦せず、父の心を無視して、弟を受け入れた父親のことをなじったわけです。兄の問題は自己義認でした。「俺はちゃんとやっている、だから父親も俺の言うことを聞くべきだ」と。兄も弟も、結局は自分たちの欲求を満たすために父を利用していたにすぎませんでした。父を喜ばせるために父にお仕えするという気持ちは、両方とも持っていなかったわけです。32節でこのお話は突然終了しますが、本来兄はここでどういう行動をとるべきだったのでしょう。本来兄は弟を捜しに行くべきだったのではないでしょうか。それが父を一番喜ばせることだからです。そして、実際それをなされたのがイエスキリストでした。主は大いなる犠牲を払って、弟さがしの旅に出て来てくださいました。ですから私たちも、先に救われた者として、今もさまよう弟をさがしに出て行こうじゃありませんか。父は弟たちの帰りを待って、今日も戸口に立っておられるのですから。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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つぶやきってどんな時に出て来るか知っていますか?不平不満があって、それが内にこもっている時です。どうしてそれが祈りに発展しないのか?それは全てをつかさどる神を信じていないからです。そんなつぶやき癖のある私たちにイエスは3つのことを教えてくださいました。 1つは、信仰は100%神の恵みだということ。牧師と言えども、神を差し置いて介入できることではないし、ましてや知識の勝負でもありません。その神の一方的な恵みにまず感謝したいと思います。 2つめに、救いは今現在起こっていること。信じたとたん、世のいのちと、永遠のいのちの両方が私たちには与えられます。そしてこのダブルの恵みが、わたしたちクリスチャンの力の源なのです。 3つめに、イエスは小さくなられた神です。私たちが頂いている大きなめぐみを、世にお返ししていきましょう。もっとも小さな者にしたのはわたしにしたのであると、イエスは言われました。与えられた恵みを流し出すところに、本当の喜びがあるのです。このことを日本の若者に是非とも伝えていきたいと思います。
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あなたは「広い門からではなく、狭い門から入りなさい」と言われたらどうですか?きよい生活をして、いい人になりなさいと言われているような気がしますか。でも、イエスのこの言葉はそういう意味ではありません。「狭い門」とは、ただイエスを信じる信仰だけで通過できる、全ての人に開かれた救いへの道。それを見つけなさいという意味です。だから本当は「広く開かれた門」なのです。それを「狭い」と呼ぶのは、それを発見する人が少ないからです。イエスがいのちをかけて開いてくださっためぐみを知り、感謝する時、あなたはすでにその狭い門の内側にいるのです。でも逆に、それに気づかずやみくもに突き進む道は滅びへの道です。「そのままでいいよ」という甘い言葉は、耳に心地よくても愛から出てはいません。イエスを十字架にかけ、そのイエスを信じる信仰によってのみ与ることのできる永遠のいのちに進みなさいと、わたしはそのために愛するひとり子をあなたに贈ったと、天の父は今も、涙ながらに語っておられます。
- タグ ルカの福音書
あなたは「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということの意味を深く考えたことがありますか。それは、自分に徹すること。人まね人生を送らないことです。あの人のようになりたいと、理想を持ち、お手本にして努力することは良いことです。「学ぶ」という言葉は、もともと「真似ぶ」から来ているからです。でも、そのまま、自分に対する神のspecialなご計画を無視して、人の評価する自分、ああなりたい自分を目指すのは、人まね人生。それを捨て、自分に与えられた賜物に神のご計画を読み取り、そこに徹する人生にこそが「自分を捨て、自分の十字架を負う」人生なんですね。山上の説教の世界は、天の御国が舞台です。が、「自分の十字架」への招きは、そのまま天の御国への招きでもあります。まずこれに応答し、そこにある私たちの将来に約束された多くの幸い(たいやきの中のあんこ!)を楽しみましょう。
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聖書には多くの体の不自由な人が出て来ます。が、それらはみな僕らの霊的な不自由さを語っているのです。目が見えない人は、霊的なことも神の姿も見えない僕らのこと。耳が聞こえないのは、神のみ声が聞き取れないこと。また、しゃべることのできない人とは、祈れない僕らです。でもこんな不自由さを、イエスは放っておかれません。手の萎えた人に対して、「立って真ん中に出て来なさい。手を伸ばしなさい」と言われたイエスは、私たちに対しても、「私はあなたを癒したい。だから真ん中に出て来なさい。」と声をかけてくださっています。イエスのこの愛の声かけ、チャレンジに応答して前に進み出ようじゃありませんか。そして、イエスから新しいいのちを頂こうではありませんか。 あなたは一人ではない。 天地万物の造り主、全知全能のイエスはあなたのことを真剣に思って下さっています。ここにあなたの希望があり、あなたの生きていく力があります。
- タグ ルカの福音書
教会って、みんなニコニコしていませんか。その理由の一つが、罪の重荷を、自分で担ぐのをやめて、床に降ろした人たちの集まりだからということは、ご存知でしょうか。すごく単純な理屈です。自分の罪は、自分で担ぎ続けないとだめだと、これは俺の責任で、どこまでも抱っこしていくぞ!と、皆どこかで思ってしまっているのです。でもイエスは、それを引き受けるためにこの世に来られ、十字架に掛かってくださいました。それは、この世のすべての人たちが、一人残らず救われて、永遠のいのちを得るためだと聖書は言っています。条件なし、区別なし、これが新約の世界です。 この一方的な恵みをただ受けるだけでなく、イエスに自分から近づきイエスの差し出すいのちのパンを頂く時、あなたの人生の旅がななつ星の電車旅行に変わります。このパンを日々食することが信仰生活、それ以外にありません。
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僕らは人生を通して、何かを獲得しようと頑張ります。でもそれらは、獲得して満足して終わりではなく、達成した瞬間から新たな欲求が起こり、さらにその上を目指すというエンドレスな戦いの始まりであり、その欲求が本当の意味で満たされることはありません。が、聖書は「本当の満足」に至る食物があると言います。それは腹の中にとどまって、僕たちを満足させ続けてくれる食べ物だと。人生はよくマラソンのようだと言われます。どうせ走るなら、そのような永遠に朽ちない食物のために走りたいですが、実はそのスタートが永遠のいのちなるイエスキリストを頂くことにあるのです。イエスこそが「まことのパン」だからです。 人づきあいの要諦はその人を信頼することだとよく言われます。イエスへの信頼、それを信仰と呼びますが、それを手にしたとき、あなたの人生にも、その信頼・信仰に応えてイエスの祝福が、満ち満ちることでしょう。
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皆さんは、ご自分の人生でとんでもない嵐に遭遇し、「神様なんでですか?」と問うたことは無いですか?僕はあります。もう40年も前のことですが、神のガンガンに突っかかりました。そして、弟子たちがガリラヤ湖で遭遇した嵐も、まさにそんな状況でした。「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるの?」と。でもそれは、彼らが真に頼るべきお方は誰なのかを知るために必要な経験であり、訓練でした。自然も、嵐も、すべて神の被造物。始まりがあって終わりがある。しかし、それを造られた神は永遠なるお方。なおかつご自分の作ったすべての被造物を、今も完全にコントロールしておられるお方なのです。そのことをとことん理解したうえで、彼らは目的地カペナウムに到着し、そこで神の口の語る神のことばに、、ご自身がいのちのパンであるという説教に、真剣に耳を傾けることができたのです。今主は、あなたをfinal destinationに運ぶ前に、それにふさわしく整えようとしておられるのではないでしょうか。
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5000人のお腹がいっぱいになるだけの大量のパンを、イエスが生み出されたお話がここでは述べられています。有名な奇跡です。この御業を通してイエスが僕らに伝えたかったことは、次の3点。(1)決してイエス単独のわざではなかったこと。5つのパンと2匹の魚を持ってきた少年、それをイエスに紹介した弟子のアンデレ、そして増えたパンを群衆に配ってまわった12弟子。彼らの協力なしには起こり得なかったのです。奇跡は人の手を通してなされるのです。(2)「一つも無駄になさらない」方がイエスだということ。これが「一人も滅びないで」(ヨハネ3:16)にも通じるイエスの基本姿勢であり、その熱心によってイエスは十字架に掛かってくださったのです。(3)大麦は本来家畜のえさ。この大麦のパンという、貧しさの象徴のようなものが、イエスの手を通る時、とんでもない奇跡のために用いられるということ。ですから私たちの賜物を、気後れすることなくどんどん提供し、神の御業のために大いに使って頂こうではありませんか。
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今の日本の問題は、お金持ちとその助けを必要とする人たちの間に深い溝ができてしまったことにあり、昨今コロナ禍により、そういった貧富の差はますます拡大しています。かつ今の世にはそれを是正するシステムが存在しないのです。キリスト教会は、3世紀の「キュプリアヌスの疫病」の時から、ローマ帝国が隔離の名のもとに遺棄してきた病人を看護し、丁重に埋葬することで感染率を押し下げるなど、どの時代にあっても社会のシステムが機能しない隙間を埋めることで、異教徒たちの評価を勝ち取って来ました。またマザーテレサの働きが文化や宗教を超えてあそこまで評価されたのも、貧しい人と豊かな人の出会いの場を提供できたからでした。では今、日本の教会に期待されていることは何か。それは、豊かな人とその助けを必要とする人を結び付けるコミュニティーを提供すること。そこにおいては、イエスの思いに沿ったお金の使い方をすることで、豊かな人がこれまで受けて来たお金の呪縛から解放され、「受けるより与える方が幸い」の「幸い」を味わうことができるのです。そしてその時あなたは、お金、人の評価、成功した人生など諸々の「偶像」から解放され、本来のあなたに、神の子のアイデンティティーに、生きることができるようになるのです。
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