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ここにいのちがある
ヨハネ5:31-47、使徒19:1-7

コロナや自然災害は、私たちのすべての計画に見直しを迫ります。そうでなくても、思うように進まないのが人生です。そんな時私たちは、自分の能力の足りなさや、めぐりあわせの悪さや、降ってわいた災難にがっくり来て、ときには自暴自棄になりかけることさえあります。でも、もともと私たちキリストとともに歩む者の人生に、完璧も、完成も、失敗も存在しないのです。すべては中途半端で終わる、これが人生。でもそれを私たちの想像を超えた形で仕上げてくださる方がいます。それがイエスキリストです。イエスにつながり、そこからいのちを頂き、この方のベクトルに沿って歩む限り、この方が、私たちの小さな小さな努力を、おどろくべき完成品に作り変えてくださるのです。でもそのために必要なことが2つ。それは「あなたは愛されている」この力強い神のことばを、あなたの存在に隅々にまで響き渡らせること。そして、 ぶどうの枝がぶどうの木につながるように、 なにがなんでもイエスにつながり続けること。さすれば必ずや、そこから得られたたわわな実が、そしてそれから作られた極上のぶどう酒が、あなたの人生の宴席を豊かに潤すことでしょう。

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東京のど真ん中に立つ教会
エレミヤ29:4-7、創世記11:3-4、黙示録21:2-3

イスラエルの民は、自らの不信仰のゆえにバビロン捕囚に遭いました。が、それは神の世界宣教の一環でした。それゆえ彼らは、引いて行かれた敵国の都バビロンの繁栄を祈るようにと神に求められました。実は、東京都心に置かれている僕たちについても、同じくこの東京のために祈ることを神は期待しておられます。それは、この東京の繁栄が自らの繁栄でもあるからです(繁栄は、ヘブル語でシャローム)。そのためには宣教のために都心に導かれた「捕囚の民」である我々が、まず神に癒されることが必要で、そのためには赦し赦され愛し愛される場としてのコミュニティーが不可欠であり、そのためにこのTCCが東京に立てられました。 ところで僕らは仕事に全身全霊を注ぎます。それ自体は良い事です。が、その成果や組織を通してアイデンティーを確立しようとするとき、仕事や組織が偶像化し、結局ひたすらそれを通して「名をあげる」だけの空しい人生となります。そこでは優越感が支配し、その人は結局「良好な人間関係と栄光ある人生」の両方を手にすることはできません。この両方を獲得するために必要なのが、神との確かな関係、真のシャロームなのです。さて、あなたの人生はどちらを向いているでしょうか。

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一人を心からあわれむ
ルカ10:25-37

メル・ギブソン監督の映画「ハクソーリッジ」のデスモンド・ドスは、衛生兵として米軍に入隊して以来、「汝殺すなかれ」の戒めに従って銃を持たない主義を貫いたことで、臆病者として軍隊内部で散々いじめを受けます。が、その後沖縄に送られ、いきなり起こった激烈な地上戦では、75名の負傷兵を救出するという大活躍をします。 たったひとりで 、祈りだけを武器に。彼のその姿はまさに「良きサマリア人」でした。が、彼らに共通するのは、ともにあわれみの心に突き動かされたということです。 我々人間は、神によって神のかたちとして造られ、全被造物の支配を委ねられています。が、この「神の国」「神の支配」が実現するためには、我々が、自分の中に頂いた神のかたちから発するあわれみの心を、最大限に発揮する必要があります。つまり「隣人」に対して「彼らと同じことをする」こと、その一つ一つが神の国を構成するシナプス細胞なのですね。ところで、あなたにとっての「隣人」とは誰でしょう。また「同じことをする」とは? まるで戦場のような今の世の中ですが、そのことを通して、共に神の国を実現させていこうじゃありませんか。

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驚きつつ、いのちに生きる
ヨハネ5:19-30

「まことに、まことに、あなたがたに言います」という枕詞に続いて、イエスは常に大切なことを語られます。1つ目は「驚け」、2つ目は「生きよ」と。ところで、あなたの信仰に驚きはありますか?もしないとしたらイエスの本質に触れていないということかもしれません。だって、イエスはその日(おわりの日)私たちの前で感嘆の的になられる(Ⅱテサロニケ1:10)とあるからです。このイエスを見つけるまで、僕たちは求め続けないとダメだということです。「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見出します」(マタイ7:7) 私たちは、日本の政治をあきらめてしまっているところはないでしょうか。確かにがっくりさせられることの連続です。が、福音的クリスチャンの石破さんが次期総裁選でのポスト安倍の有力候補の一人と言われている昨今、このことのために祈るのはごく自然なことだと思います。イエスキリストは私たちの理解力、想像力をはるかに超えたお方。かつ神は人を通して奇跡を為されます。そして驚き続けることを期待しておられます。ならば近い将来、主のなされるサプライスを期待し祈り続け、そして最後に「やっぱり主だ!」と、感嘆し、驚きあきれる者となろうじゃありませんか。イエスは、干からびた骨(エゼキエル37:11)のような日本にいのちを与え、生きるものとしてくださるお方です。

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今も働かれるイエスキリスト
ヨハネ5:1-18

「withコロナ」時代の突然の到来に、戸惑いを覚えている方が実に多くおられます。感染を免れ、健康も経済も守られ、うれしい事づくめのはずなのになぜか喜べない・・・。ベテスダの池で癒しを経験したその男性も、同じ思いだったに違いありません。すばらしい事の始まりも時として戸惑いの方が多いもの。でも彼がすごかったのは、神に感謝するために宮に戻って来たことでした。そこでイエスと会い、自分の癒しがイエスによるものであったことを知り、その日彼は、イエスの証し人としての新しい人生をスタートします。 僕たちは多くの「めぐみ」を頂きながら、それを貰いっぱなしにしていないでしょうか。彼はまず感謝するために宮に帰りました。イエスは本来僕らの応答を期待して、めぐみをお与えになるお方です。ですからまず頂いた「めぐみ」を感謝し、みことばに帰りましょう。そこから「めぐみ」の意味を知ることができ、そこから新たな使命が与えられるからです。このコロナ時代にしかできない、あなただけに準備された使命があります。 それを教えて頂き、 今も働かれるイエスキリストと共に、目の前のnew worldに向かって歩き始めませんか。

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生きるということ
ヨハネ4:43-54

拉致被害者、横田めぐみさんのお父さん滋(しげる)さんが亡くなられました。滋さんがどうしてここまで頑張れたのか?おそらくはイエスの励ましを直接受けて来られたのではないかと思います。それは滋さんがイエス同様、捕らわれ人を解放するために、世の逆風にさらされながらも巨悪に挑み続けた人だからです。「めぐみに会えなかったのが無念だ」と最後まで言っておられましたが、今めぐみさんの2人の弟さんたちが、この巨悪と戦い続けることを約束しておられます。 王室の役人は、息子の癒しをイエスに願い、イエスはそれに対して「あなたの息子は生きる」と語られます(ヨハネ4:50-53) 。そのことばを信じて帰途に就いた役人は、家にたどり着くまでにその息子が癒されたことを知り、このしるしを通して役人はイエスを信じ、家族も信じます。イエスの「生きよ」という命令に従うとき、そこには祝福が必ず追いかけて来ます。 横田家はクリスチャンファミリーです。めぐみさんがいつか救出され、滋さんと同じ信仰を持つなら、滋さんは天国でめぐみさんと会うことができるわけです。なんという希望でしょう。そして滋さんのこの悲願を達成するために家族が一つになって生きること、これが神の計画でなくてなんでしょう。イエスがどのような方かを知ること、これが信仰の第一歩です。 イエスはいのちの主です。「イエスに在って生きよ」という神の命令に従って生きる時、イエスは全責任を負って下さいます。

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出て行きなさい
マタイ28:16-20

黒人男性ジョージ・フロイドさん殺害事件と差別撤廃を訴える過激なデモが、全米を覆っています。が、その弟テレンスさんは、兄の殺害現場にハンドマイク一本で立ち、「暴動をおこすのは間違っている。そんな自滅行為はやめて、選挙に行って投票してください」と訴えました。彼は、建国以来の奴隷制度と人種差別の歴史、それに対する黒人の積年の怒りという巨大な敵に一人で立ち向かったわけです。キング牧師を彷彿とさせますが、クリスチャンであるテレンスさんがここまで大胆になれたのは、復活のイエスの、「わたしは天と地の一切の権能を預かっている。そのいのちと力をあなたに注ぐから、あなたは出て行け」の命令に応答したからだと、私は考えます。私たちも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われるイエスに、遣わされて行こうではありませんか。それは5つのパンと2匹の魚を引っ提げて5000人の中に出て行くようなクレージなシーンかもしれません。が、神の期待はここにあります。Let’s go crazy! (英語では楽しもうという意味)イエスの権能のダイナミズムを、今こそ世の雑踏の中で楽しもうではありませんか。

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世界を愛せる人になりたい
ヨハネ4:39-42

プロレスの木村花が、ネットによる誹謗中傷を受けたことで、不幸な死を遂げたと報じられています。 アメリカでは白人警官が黒人を窒息死させたという事件が起きました。どうしてあそこまでできるのかと不思議になります。が、悪いやつをとっちめてやるという「間違った正義感」ほど、人間をおかしくするものはありません。すべての戦争は、正義対正義の戦いだからです。しかし憎しみに対して憎しみで応戦するかぎり、僕らは滅びの道を歩み続けることになります。その意味で今の世は、すでに限界まで来ているのではないでしょうか。神は、実に、ひとり子を賜るほどに「世」を愛されました。神の子キリストは「世の救い主」として来られ、人類が世界規模で愛し合い赦し合うひな型となられました。赦しがたい!と思う相手に対し「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないのです」というとりなしの祈りを捧げること。これが今、神の我々に期待する「神との共同作業」の中身なのです。

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種蒔きの喜びと刈り入れの喜び
ヨハネ4:27-38

私たちの人生の目的とは何でしょう。多くの人が「仕事」を人生の目的に挙げるのではないでしょうか。となるとどうしても勝ちたい、評価されたい、儲けたいという思いが強くなり、せっかくの仕事を楽しんだり喜んだりすることができなくなってしまいます。イエスキリストは、「父なる神のみこころを成し遂げることが、私の食事だ」と言われました。私たちの人生の本当の目的は,「神との関係を築くこと」にあります。そこに人生の基礎を置いた時、私たちは初めて自分の仕事を喜び、楽しみ、それを通して神のみこころを為し、また日々神からエネルギーを頂いて大きな力を発揮することができます。そのことを伝え、実践するために、私たち働くクリスチャンは世に遣わされているわけです。そしてこの福音宣教の働きは、蒔く者も、刈る者も、ともに喜びあえる働きなのです。

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一人を捜される主イエスキリスト
ヨハネ4:16-26、創世記28:10-22

僕たちは平安の人生を求めます。が、意に反して苛酷な環境におかれることもしばしば。そんな時「神様、どうしてですか?」と噛みつくような祈りをしてしまうこともあるんじゃないでしょうか?でも、あれがあって今がある、我が人生に必要だったと、その「荒野」を振り返って思えるとしたら感謝です。主イエスは サマリアの女性に会うために炎天下の荒野に出て行かれましたが、それと同じく、今あなたを捜しに出て来ておられます。大切なのはそのイエスと出会い、本気で向き合うこと。そしてもっと噛みついてもいいんじゃないでしょうか。主はあなたの主への信頼を喜んでくださり、必ずあなたの求めに応えてくださいます。