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都市への愛
使徒11:19-30

「都市ではキリスト教は死ぬ」という人がいます。が、キリスト教が二千年前に、ローマという大都市で大いなる発展を遂げたというのは歴史的な事実です。発展の理由の一つ目は、都市に住む奔放な人でないと、キリスト教の福音の新しさに耐えられなかったこと。その結果ローマ帝国においては人口の56%、都市住民についてはほぼ100%が信仰を持ちました。

次に大都市アンティオキアで起こった出来事は・・・元々この都市は18の居住区に分かれ高い壁で仕切られていて、それは、壁をまたぎ、民族を超えた争いが生じた場合、互いを皆殺しにする危険があったからです。が、その壁を越えて共に礼拝する者たちが現れたのです。世界は驚き、この時はじめて彼らをキリスト者と呼びました。

その頃、疫病が蔓延し、異教徒たちはどんどん死ぬことに動揺して病人を道に投げ出しました。が、キリスト者たちは彼らを家に入れたのです。それは、死んだらキリストのところに行くことを彼らは知っており、死を恐れなかったからです。その結果、彼らは効果的な医療システムを提供することとなり、生活の耐久力を上げる新しい文化をもたらしました。彼らが都市で歓迎されたのは当然でした。

世界最高のアーティストであるイエス・キリストが聖書に残された教会像こそが、真のキリスト教会の姿です。それをしっかり読み取り、人の生活を変え、人間関係を変え、生活文化を変える福音の力を知り、都市のためにとりなす者となりたいと思います。

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聖霊の働きによる回心
使徒10:27-47

洗礼を受け、教会の会員となったとしても、その人の礼拝が変わらない限り、その人は変わりません。賛美とは、究極に何が大事かを認めた時に出てくるもので、回心は、神を心から賛美し、礼拝した時に起こります。たとえ道徳的になり、宗教的になったとしても、神の愛が自分の現実になっていない人は、回心したとは言えず、その本質は変わりません。

使徒の働きで異言が登場するのは、2章のペンテコステと、ペテロがコルネリウスを訪ねた10章だけ。ペテロはすでに教会の偉大は指導者でしたが、まだペンテコステを、福音を、その恵みを、実践していなかったのです。そしてその日ペテロの目の前で起こって小さなペンテコステは、「わが真理はどの文化も、どの言語をも凌駕する」という神の宣言でした。

世界は、戦争に突き進もうとしており、今や僕らクリスチャンが、人種を超え、言葉や文化を超えて、本当の福音の真理に生きるということはどういうことかが問われる時代です。この文化は好きじゃないと心の中で思っている対象が一つでもあるとしたら、それは聖霊に抵抗していることになります。

キリスト教は真実でないと無価値です。そしてペテロは真実だと言います。彼は「復活のイエスと飲み食いした」と言うのです。今問うべきは、キリスト教が真実かどうか。そして真実なら、それはあなたを回心させるでしょう。

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キリスト教会の土台
(坂野慧吉師)
マタイ16:13-18

1964年に坂野師は救われた。その直前にパチンコで持ち金を全部すり、むなしい思いに浸って帰って来た時に、弟が「音楽と話の夕べ」のチラシを見せて、一緒に行かないかと誘って来た。その日、二人の宣教師から「カルバリ山の十字架」についての話を聞き、もう一度教会に行ってみようと思った。

「人々はイエスを誰だと言っているか」という質問に対する答えは3通り考えられる。一つは偽善者で大ウソつきというもの。2つ目は素晴らしい教えを説く偉人で、とにかく正しい人。そして3つ目は神の子だ。

丸5日間そんな話を聞いた後、大学の授業中、それはトーマス・マンについての講義だったが、師の頭の中は「あなたはこれから何を信じて生きていくのか?」という問いがこだましていた。「誰も信じずに生きていくことはあり得ない。では、これまでに出会った人の中で誰を信じられるのか」この問いに、師は「私はイエスを神の子、救い主と信じます」と自分で告白していた。

「イエスは誰か」は人生のテーマで、これによってその人の生き方が変わって来る。「あなたは神の子キリストです」とペテロは告白した。聖書のすべてを理解することは不可能だが、人は必ず死ぬ。またそこにどんな意味があったかを必ず問われる。「イエスは誰か」の問いとその答えに、人生の意味と、あなたの存在の意義が込められている。

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イエスの復活による回心
使徒9:1-20

もともと不幸で落ち着きのない男だったパウロが、あの日を境に不動の人間に変えられたわけですが、そのことが起こった第一の理由が、「自分の思い通りにならない神」との出会いでした。それまで彼の信じて来た神は、パウロ好みの神。しかしそれは現実の神とは違うのだという気づきがイエスとの遭遇で与えられ、その突破口となったのです。こういう神なら信じたいとあなたが思う神は、あなたを変えることは決してできません。

次に、3日間パウロの目が見えなくなったのは、物理的な光が目に当たったからで、その証人となったのが、ダマスコ遠征に同行したユダヤ人たちでした。また「復活のイエスは五百人と一時に出会った」との記述は、出会いの32年後に手紙に書かれましたが、この五百人はその時まだ生きており、もしそれが作り話だったら、そんなことは書けなかったはずです。この「客観的かつ頑固な事実」がサウロ回心の2つ目の理由です。

またパウロはイエスに「あなたは誰か?」と聞き、イエスは「わたしはあなたが迫害している者だ」と答えられます。パウロはこの言葉から、クリスチャンになるとはどういうことかを考えたのです。「わたしと民はひとつであり、クリスチャンが傷つく時はわたしも傷つく」とイエスは語ります。この「結合」は僕らクリスチャンの、苦しみに対するとんでもないリソースであり解決です。これぞ苦しみの敗北であり、復活はこの苦しみを完全に打ち砕く教えなのです。

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二人目の迷子
ルカ15:20-32

放蕩息子の兄は、弟と同じく迷っていました。「父は出て来て兄をなだめた」とあるからです。兄は、からだは父のそばにありましたが心は離れていました。つまり兄は、神と共にいながら神を少しも知らないという恐ろしい状況にありました。だから道に迷っていたのです。

兄はその正しさゆえに、弟よりひどい迷い方をしていました。善意が悪意よりあなたを神から更に引き離す理由は2つあります。それは、1)善良さが、「自分こそが救い主になる」という神との戦い、罪のポイントを隠し、最終的に人生が崩壊した時、その問題点が弟より捜しにくいから。さらには、2)その正しさが自分の我を通す当然の理由になってしまうためです。

兄タイプの特徴は、1)自分の人生の状況に腹を立てていること。2)律法を愛していないこと。3)喜びも自信もないこと・・・の3点。しかし、もしあなたが恵みによって救われた罪びとなら、その福音を理解するなら、あなたは自分でも信じられないほどの確信を持つことが出来ます。

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放蕩息子と兄
ルカ15:11-32

神を体験するには悔い改めが必要であり、それは我に返ることでもある。その時、世界を見る目が変わるのだ。弟は我に返って、父から離れようとしていた自分に気づいた。これが罪の本質であり、罪とはルールを破ることではないのだ。

兄は弟と違って、家に残ることで金への支配権を得ようとした。罪の本質は自己中心で、父は不要だという思い。兄は、ルールを守りつつも、神は死んだかのような生き方をし、家に居ながら家にいなかった。家とは、自分が受け入れられている場所のことだ。弟は、自分の支配権を求めて家を出た。が、家でもない所を家にしようとし、自分の支配権を見失った。つまり世間にそれを明け渡した結果、世が自分を定義し、不安、恨み、憎しみが自分の人生をコントロールするようになったのだ。

父は帰って来たどろどろの息子にキスをした。そこにはその汚さを圧倒する愛があったのだ。彼は兄のようになれば何かもらえると思い「雇人にしてくれ」と言ったが、それは間違っていた。父と本当の兄・イエスの待つ家にはダンスがある。それがまだないとしたら、あなたは父の愛を理解しておらず、放蕩中なのだ。見つけた羊の足を縛るのは羊飼いの愛。だから「どうしてこんな目に合うのか」と言わず、今すぐ家に帰りなさい。

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失われた宝物
ルカ15:1-12

ティムケラーは、あなたの善良さがあなたと神との障壁となっていると言います。それは、自分はまじめだし、これからも神なしで大丈夫という思いを起こさせるからで、これが兄息子の状態でした。それは、ただ自由を求めて父を離れた、一見ハチャメチャな弟より深刻でした。イエスの示す新しい罪の定義は、ルール違反をすることではなく、神から離れること。兄の離反の罪は、弟の場合より悔い改めの道が長く、これがルカ15章の示すパリサイ人の状態だったのです。

兄も弟も、「お父ちゃんならこの問題を必ず解決してくれる」という信頼を持っていませんでした。これが罪の状態です。逆に信仰とは、「この問題は複雑だけど、お父ちゃんは何とかしてくれる」という単純素朴な安心に生きること。これが「心の中にシオンへの大路のある人」(詩84:5)の生き方なのです。

イエスは羊を捜しに行く羊飼い、一番ダメな子羊を誰よりも愛してくださる方です。かつ、それだけでなく、我々のために命を捨てた子羊でもある。それは我々に価値があるからです。この神の愛と、自己価値を知った時、我々も、炭火できよめられたイザヤのように、「私を遣わしてください」と神に言えるようになります。「主に愛された価値ある者」という自己像を見たクリスチャンは、義認に終わらず、聖化と派遣のブレークスルーを経験するのです。

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新しく変えられる
(井上薫師)
Ⅱコリント5:17

クリスチャンの比呂子さん(今の井上師夫人)から聖書を渡され、当時まだバリバリのやくざだった井上師は、マタイ5:30「右手が汚いなら切り落とせ。一緒にゲヘナに落ちるよりましだ」を読み、初めて自分の汚れた手を見て大泣きした。5日後、教会に行ったら、みんながにこにこ迎えてくれるので、こんな俺でも迎えてくれるところがあるのかと驚いた。

変わっていく自分を組の親分は見ていたのだろう。ある日「今日は日曜日だろ。教会に行け」と言われ「はい」と応え、帰って来て「親分のために祈ってきました」というと「そうか」との返事。しばらくたって、一緒に教会に行って牧師と面談することとなり、その時親分の口から出た言葉が、「井上がまじめにやるなら、やくざの世界から足を洗わせます」だった。抗争が絶えず、いつ命を落としてもおかしくない中、親分は俺に生きていてほしいと思ってくれたのだ。

やくざの世界では、子分が親分のために命を張る。が、キリスト教の神は、親分であるキリストが、我々のために命を捨てて下さった。「自分はこの新しい親分に仕えます。親分もやくざをやめるよう祈ります」と親分に告げ、自分はやくざをやめた。数年後、親分もやめた。全ては祈りの力。Ⅱコリント5:17「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

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神との出会い
使徒9:1-8,17-19

キリスト教の改心は事実に基づいたもので、具体的には、神が人となり死んで蘇ったという事実に基づきます。実際蘇りのイエスに出会ったという人が当時数え切れないほどいましたが、この外的な証拠をもとに考えるのがその第一歩です。

パウロは霊的な目が開き始めた時、これまで自分がいかに盲目だったかに気づきました。全てのクリスチャンはこの経験をしています。それは、神の神聖さと真実さ、そして自分の罪深さに気づき、これまで「そんなもの見たことがない」と言っていた自分の愚かさに気づくことなのです。

パウロのステパノへの殺意は、「私は何とみじめな人間でしょう」という思いへの抵抗で、とげの付いた棒を蹴る「痛い行為」でした。それと同じくもし僕らに、今向き合っている困難があるとすれば、それは自分を間違いから引き戻すための神の愛のあおりかもしれません。その解決は、とげの付いた棒を蹴るのを今すぐ辞めることです。

ステパノは、自分の人生が崩壊した時も彼自身は崩壊せず、神を見つめ、真理に生きました。その姿をサウロは見たのです。全てが崩壊した時にこそ、それが本物だという証拠となり、人の心を打ち砕くのです。その時の改宗者は一人だけでしたが、その改宗者がのちに世界を変えました。あなたが従順であれば、神はあなたを通してとんでもないことをされるのです。

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都市における喜び
使徒8:4-8,26-39

パウロの伝道戦略は、徹頭徹尾「都市中心」、だからこそ「この地方には私の働くべき場所は残っていない」と断言できたのです。都市は新しい情報にオープンで、人の移動による情報の拡散も期待できる・・・それゆえ都市に福音を植え付ければ、時間と共に国全体に影響を及ぼせるとの確かなイメージが、パウロにはありました。

「寄留の民」はクリスチャンの霊的状態であり、このことをリアルに認識させるために、神は時にクリスチャンを、あえて物理的に散らすのです。迫害による離散は、その意味で神の采配でした。離散することで彼らの古い根は断ち切られ、新しい根は天国に向かいました。そのことがどこにも支配されない自由さを彼らに与えたのです。

ピリポが「汚れた土地」サマリアに入り、「枯れ木」と中傷される宦官との出会いに導かれたのはなぜか。それは「私の契約を守る宦官には神殿を与える」(イザヤ56:3-5)という、神の驚きの福音を実現するためでした。福音は、優越感に浸っている人には自分はけがれていることを知らせ、劣等感に苦しむ人には神の愛を知らせるのです。

福音によって変えられたクリスチャンが心に望むのは、ただ生き残ることではなく、町全体が喜びに満たされること。あなたは、東京が幸せな場所になることを切望するほどに、優越感や劣等感から脱却できているでしょうか。これが散らされた先でピリポの見た景色でした。もしあなたも同じ景色を見るなら、町には大きな喜びがあふれるでしょう。