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イエスの渇き
ヨハネ19:16-30

イエスはなぜ十字架にかかられたのか?それは地獄を見るためだったのです。からだの渇きも、魂の渇きも、最後は僕たちを死に追いやります。そして魂の渇きは、神以外のものを心の中心におくところに発生する現象です。主は十字架上で「わたしは渇く」と言われました。苦痛や痛みを一切語られなかった主が、渇きだけを口にしたのは、それが地獄を経験したことの証しだったのです。

その後イエスは「完了した」と言われましたが、これは「やり遂げた」という勝利宣言でした。主は僕たちが神のもとに行くのに必要なことのすべてをやり終えられました。ですから完成された愛を受け取ることだけが、僕らの今なすべきこと。にもかかわらず僕らは、キリストの業を今も完成させようとしているのです。だからどこかで優越感を得ようするし、自分の重要性を確認しようとする。それはキリストのみ業が「完成済み」ということを知らないからなのです。

恋に夢中、仕事の虫、あるいは人とのかかわりにまい進するなど、中毒症状はいろいろです。が、それらはすべて、自分を完成したいがための行動で、人は常に自分の価値を証明したいのです。また十字架のもとでは人間関係が劇的に変わります。以前のように自分を悩ませるものは何も無く、自分を支配するものは無いというのが救われた者たちの状態です。2024年は、更なる信仰の深化と十字架理解を通し、そのような劇的変化を経験する年としたいものです。

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最初のクリスチャン
ルカ1:26-38

自分から変身して熱帯魚になり話しかけない限り、魚たちは飼い主のことはわからない。いくら魚たちのために環境を整え、エサをあげ、心を込めて世話をしても、魚たちの自分への思いは「恐怖」であって、人間の神への思いもこれと同じ。だからそれを変えたい、愛していることを伝えたい・・・神が受肉されたモチベーションはこれだったとフィリップ・ヤンシーは語ります。

ザカリヤとマリアの対比。同じく天使に話しかけられ、また同じく疑いをもって質問をぶつけながら、片や閉ざされた心、片や開かれた心で接した両人でした。その結果、片やしゃべれなくされ、片や祝福を受け救い主の母となります。自分は人生の運転席から降りないと決めて投げて来る質問と、謙遜に、もし真理があるならそれに従うという思いで投げる疑問は違いました。さてあなたはどちらでしょう。

「み言葉通りこの身になりますように。不名誉極まりない人生も御心なら受け入れます。」15歳にも満たなかったであろうと言われる幼気なマリアに人類最大の貢献ができたのは、彼女がこう言ったからでした。ですからこのマリアのように「自分には正解は見つけられませんが、あなたがそういうお方なら、救い主なら、今知っていることを横に置き、キリスト第一で生きていきます。」と自分自身の人生から慎重に手を引くこと、それがあなたがダイナミックな人生を生きるカギなのです。

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恵みの歴史
マタイ1:1-17

福音は良い助言ではなく良い知らせ・・・マタイは、イエスにつながる系図を「事実」として伝えています。そこから始まるクリスマス物語、そして黙示録におけるキリストの再臨。それらを「昔々あるところに」の神話でなく、事実として信じるなら、聖書に書かれていることすべてが意味があるということになる。逆にそれが事実でないならすべてがナンセンスです。最初の一歩がすべてを決める・・・だから「福音はニュース」なのです。

キリストはこの世の価値観を根底からひっくり返す・・・マタイはこの系図に、モーセ時代なら載るはずのなかった異邦人の女、姦淫する者、近親相姦、売春を生業とする者など、アウトサイダーたちの名を連ねています。ここでは、姦淫の末に殺人を犯した王も遊女も関係なく、また金持ちも貧乏人も、道徳的な人も不道徳な人も、イエスを信じこの良い知らせを受け取るなら、皆等しく神の前にいる。これぞイエスの提供する驚くべき世界なのです。

キリストは究極の休息・・・イエスを信じるなら、僕らは自分を証明しなくてよくなります。遊女も王様も同じなのだから、それは当然です。さらに、この無情の世界の壁は裂け、僕らのキャプテンがまもなく登場する。その時世界の戦争は消え失せ、神の栄光がこの世界を覆う。系図で始まるこの物語はすべて真実であって、2023年の待降節で僕らが待ち望むのは、再び来られるキリスト、再臨の主。ここに僕らの確かな安息があるのです。

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父との祝宴におけるイエス
ルカ2:41-52

「少年イエスのエルサレム残留事件」では、心配して捜しに来たマリアとヨセフに対し、「どうして私を探したのですか。私が父のところに居るのが当然であることをご存じなかったのですか」と逆に彼らを叱責しました。この時イエスは、成人を前にして、自分が誰なのかを本当の父から教えられたのではないかと想像します。と同時にこの箇所から、たとえ自分を信じ愛する人々に対しても、イエスは混乱をもたらすことがあるとわかります。

イエスは、このエルサレム訪問後、家に帰り、公生涯に入られるまでの18年間、マリアに仕えられます。両親にとってこの時のイエスの行為の真意は、結局わからずじまい。ですがマリアはこれらのことをすべて心にとどめておいたとルカは記しています。僕らはこの、僕らをしばしば混乱させ、惑わせ、不安に陥れるイエスに信頼すべきなのです。それはイエスが、混乱の中にあるあなたを愛し、あなたに全力で仕えて下さる方だからです。

エマオ途上の二人の弟子たちは、イエスのなさったことが理解できず、やはり混乱の中にいましたが、その時イエスは彼らに「これは必然なのです」と語りました。救いのための必然が、僕らには理解できず、時に混乱します。でも、クリスマスに始まるイエスのご生涯は「仕えられるためではなく仕えるために来られた」ご生涯でした。そのことに信頼し、マリアがそうしたように、僕たちの人生において、イエスについて知っている情報の断片を、信仰を、イエスご自身を、心のうちに大切に育てていきたいものです。

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私たちはこの方の栄光を見た
(齊藤耕師)
ヨハネ1:14-18

「三位一体がわからないこと、キリスト教会の最大の弱点はここにある」と、20年前、当時の浦和教会主任牧師の坂野師が、説教で語っておられたと言う。そこに愛の原点があるからである。「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8,16)とあるが、一体(一つの神)だけでは、この真理は説明できない。これを説明するためには三位(或いは少なくとも二位以上)の神がおられ、そこに初めて愛の関係性が生まれるのである。

互いのために自分がある、自分以上に相手を大切にする、互いの栄光が現れる中で互いの独自性が輝く、そんな交わりが三位一体の神の本質なのだ。三位という別々の関係にありながら、そこには矛盾も対立もなく、愛の関係のみが存在する。ここに神の本質があるのだ。

浦和教会は交わりをテーマにしてきた。その真の意味、そしてその究極は、礼拝にある。賛美を通して我々は一つになるし、同じ神を見上げるときに我々は、真の一致を体験するのである。TCCは会堂のない教会だが、まずは礼拝を大切にすることで「キリストの愛に満たされた交わりの教会」を目指していきたい。

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イエスとペテロの食事
ヨハネ21:1-19

復活のイエスがガリラヤ湖で漁をする弟子たちに出会ったときのメンバーは7人。彼らは性格的にも、モノの考え方も、ばらばらの7人でした。疑り深いトマスと、何でもすぐに信じてしまうナタナエル。考えて分析しそれでも動かないヨハネと、とにかく走り出してから考えるペテロ。でもそんなバラバラな彼らをも、一つの船に乗せて一つの働きに送り出す方がイエスなのです。僕らの教会にも、主はそんな一致を与え、超自然の共同体にしようとしておられます。

ペテロは11人の中で、一番熱い弟子でした。が、一番自分のことをわかっていない弟子でもありました。弟子たちは全員イエスを裏切りました。が、ペテロの失敗は一番深刻で、悲惨でした。あれだけ大見えを切った末に犯した裏切り、3回の否認。ペテロの壊れ方は目を覆うほどでした。そんなペテロにイエスは言います。「あなたの失敗を丸ごとわたしの恵みの中に置きなさい。そこのことであなたは偉大なリーダー、誰よりも優れた羊飼いになれるから」と。

イエスはペテロに「あなたは両手を伸ばして、神の栄光を表しなさい」とも言いました。それは、一つは十字架を表し、もう一つは、無防備な状態に自分をおいて隣人を愛せよということでした。まさにイエスがされたように。ペテロにはその準備はできていました。ルカ5章でイエスの大漁を経験したときペテロは「私から離れて下さい」と叫びましたが、今回153匹の魚を見て、彼は服を着たまま水に飛び込んでイエスのところまで泳いだからです。僕らも自分の壊れた部分を示された時、「私から離れて下さい」ではなく、ペテロのようにがむしゃらにイエスに近づき、真の癒しを頂く者になりたいと思います。

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求められる3つのこと
(姫井雅夫師)
詩篇99:6-9

人は誰でも一度は死に、死んだら裁きを受けると聖書は言います。裁きの基準は神のみことば。だから神を信じることは大切なのです。その中身として次の3つのことが求められています。

  1. 主の御名を呼ぶこと(詩篇99:6)・・・健康、経済などいろいろな問題が人生には生じますが、その時こそこの習慣を持つことが大切です。
  2. 主のおきてを守ること(詩篇99:7)・・・主は聖書で、「わたしこそが道だ」と教えて下さっています。だから主の律法、主の規則を守る姿勢が大切なのです。
  3. 主をあがめること(詩篇99:9)・・・なぜなら僕たちの人生には落とし穴と誘惑が満ちているから。でも祈りに導かれることはすべてよし。あらゆる場面で主をあがめるところに本当の祝福があるのです。
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イエスとマタイの食事
マタイ9:9-17

パリサイ人が、イエスがマタイをはじめとする取税人、罪びとたちと食事をしているのを見て非難したのは、それによる汚れの感染を恐れていたためでした。律法の食事規定はこの感染を防ぐための方策だったのです。イエスは言われます。「あなたがわたしと関係を持つなら、きよくなかったあなたが、わたしのきよさに感染する」と。この「逆感染」こそが、イエスにあって働く、世とは正反対のダイナミズム。イエスと接する時、世とのかかわり方が、僕らにおいても完全に変わるのはこのためです。

クリスマスはこの「良き感染」のスタートでした。神ははるか彼方の遠隔地に鎮座しておられる神ではなく、また僕らに規則だけ与えて、「これに合格したら、あなたはきよくなって、最後はこの汚い地球を離れて、私と一緒に暮らせるようになる」と言う方では決してありません。逆に、この汚染された地球に来て、神のいのちを僕らに感染させるために起こった出来事、それがクリスマスだったのです。

僕たちクリスチャンの神観は、静的なものではなく、たった一人の人間でもありません。それはダイナミックに脈打ついのちと愛であって、永遠に続く一種のドラマであり、一種のダンスだとCSルイスは言います。すごい表現ですが、この父、子、御霊の三者三様の人生ドラマが、ダンスが、僕らの現実の人生の中に脈打っており、このほとばしる泉にアクセスする以外に、僕らの幸せはないのです。そしてそれを受け取り伝搬していく唯一の方策が、「良き感染」にかかることなのです。

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イエスとザアカイの食事
ルカ19:1–10

あの時代の夕食は、家族生活の中心でした。電灯はなく、たいまつとランプだけ。街灯もないから、夕食後歩いて帰る人はおらず、そこに誰かを招き入れるというのは、その人を家族生活の中心に巻き込むこと。それこそがイエスの願っておられることでした。主は「わたしをあなたの人生の経糸・緯糸として織り込み、わたしの恵みがあなたの人生の隅々にまでいきわたるように」と望んでおられます。

変化は救いの条件ではなく、救いがその人を変えるのです。そしてザアカイは、イエスの愛が稲妻のように彼を貫いたとき、自分から「だましたものは400%返す」と宣言しました。これはどこかにそう書かれているわけではなく、自分から言い出したのです。彼の中の子供が、「お父ちゃん!」と叫びながら起き上がり、福音がザアカイを冒険の旅へと送り出したのです。子供として抱っこされ続けるのが、信仰生活なのです。

ザアカイは子供のように木に登り、子供のようにイエスを迎え、子供がお父さんに「パパ、見て!」と叫ぶように「主よ、ご覧下さい」と叫び、まるで子供のようにそろばん勘定を外しました。このすなおさ、軽やかさ。これこそが、イエスが何度も言われた「子供のようにならなければ、だれも天の御国に入ることはできない」の中身なのです。信仰とは心の中の子供を取り戻すこと。僕らはこの「子供の心」をどれだけkeepできているでしょうか。

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神が支えて下さる
(松本民雄師)
詩篇37:23–24

僕らの人生は既に神に買い取られている。神が所有者。と分かると、自分だけでなく神とともに計画を立てて行くところに、その確かさがあると分かる。そしてその時、僕たちの人生は神のご計画通りの人生になるのである。

では僕たちの本当の幸せとはどこにあるのか。それはダビデがそうだったように、柔和でへりくだった生き方をするときに与えられるのである。一方で、悪者たちはやりたい放題。しかし彼らは自らそれを刈り取ることになる。が、あなたの正しさは真昼のように輝くのだ。

神はその救いの完成のために、人の手を使われる。教会を用い、仲間を用いる。教会はキリストのからだだからである。教会家族は互いが、キリストの手となって支え合うためにあるのである。

キリストの、御心のため、みことばに、従い歩む、御手の支えで