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信頼とそれ以外
マルコ12:35-44

イエスは懐疑論者たちに立ち向かいます。が、その最後になぜか、貧しいやもめがレプタ銅貨2枚を献げたお話が載っています。どうしてあんなギスギスした議論の最後に、この逸話が載っているのか。ずっと分からずに来ました。が、これが分からないと、イエスが本当に言おうとしておられたことが、本当の意味では分からないということが分かってきました。このやもめやイエスご自身だったのです。

神はご自分と貧しい人を同一視するということを、旧約以来繰り返し語って来られました。が、これは決して感情的なことではない。神は新約に至って、本当に貧しい人とご自分を同一視されたのです。イエスは飼い葉おけの中でお生まれになり、羊も献げられずハトを献げる家に育ちました。「狐には穴があり、鳥には巣があるのに、人の子には頭を置く場所もない」と。ホームレスだった主は、十字架の上で全裸にされました。イエスは完全な無一文になられたのです。

イエスは言われます。「あなたのために地上に来てコントロールを失った神を、今度はあなたがコントロールを失うことによって信頼してほしい」と。こんなことを言う宗教はほかにありません。でもイエスがそうされたのを見るなら、イエスがご自分のいのちを箱に入れられたのを見るなら、イエスがご自分のコントルールを失われたのを見るなら、それはあなたの心を溶かすのではないでしょうか。

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大いなる約束・たましいの安息
マタイ11:25-30

イエスは、「クリスチャンになるとは幼子のようになること」と何度も言っています。それはどんなことを言っているのでしょう。一つは自分が霊的に無力であることを認めることで、これは簡単なことではありません。自分のプライドをのみ込んで、「自分には恵みによる救いが必要です。自分は自分を救うことも、自分を取り戻すこともできません」と告白することだからです。そしてそれは最初に為さねばならないことです。

さらに、イエスの愛に完全に安住することも「幼子のようになること」の大切な部分です。子どもはどんな状況にあっても、自分は愛されていると確信しているからです。僕らは、自分がコントロールを失ったら、イエスにひどいことをされるんじゃないかと心配します。それを見越して「わたしは心優しくへりくだっている」と自己紹介されるのです。僕たちのために霊的な平安を捨て、いのちを投げ出して下さったお方。それゆえに、イエスは信頼に足るお方なのです。

しかしここで僕たちは、イエスのくびきにつながれていることを忘れてはいけません。クリスチャンになるということは、無償の救いを頂くと同時に、イエスの弟子になることだからです。もしあなたが教会に顔を出すだけで、聖書の教えに真剣に向き合わず、コミットしない教会生活を送るなら、あなたは弟子ではなく、この平安があなたの人生の隅々にまで入り込んでくることはありません。ですからこの機会に、共に学び成長する、本物のクリスチャンライフをスタートさせたいものです。

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あなたこそ運命の人?
マタイ11:1-6

バプテスマのヨハネは腹を立てていました。もしイエスが本当に救世主なら、どうして自分はこんなに弱いのかと。実際やることなすこと上手くいかず、今は牢獄に居て、いつヘロデに首をはねられてもおかしくない。どうなっているんだと。僕らも、イエスが神なら、どうしてこんなに事がうまく進まないのかと、いらだつことがあります。

でも僕らの頂いている信仰は約束の信仰。今すぐ役立つ「ご利益信仰」とは違うのです。信仰生活は疑いとの戦いです。逆に疑う心も起こらない信仰は、チャレンジから離れた安全地帯の信仰で、本当の信仰生活ではありません。我々の頼るべきは、目先の順調さではなく、神の真実。真実なる我が救い主、主イエスにのみ目を注ぐべきです。

イエスは、自分は心の貧しい人としか働かないと、聖書の中で何度も語られます。「心の貧しい人は幸いです」の「幸い」を手にするために、僕らに必要なことは、僕らは何もできない者、何の資産も持たず、借金だらけの人間だと知ることです。その時初めて、僕らの中の神のかたちをした穴が、ほかのものではなく、神の祝福によって満たされるのです。

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あなたには力がない
ヨハネ18:33-38,19:8-11

元チェコスロバキア大統領ハヴェル氏は、ご自身の経験から、政治家の仕事ほど、自分の心のむなしさをカバーし自己肯定感を与えてくれるものはないと言います。すべての人間はその心が空っぽで、何かをすることでその虚しさが、意義と、名誉と、栄光で満たされることを必要としている。だからその虚しさを持ったまま政治権力に近づくと、その虚しさを権力で埋めることになる。ここに権力が乱用される理由があると言うのです。

それは決して、パパとママに愛されなかった心の貧困者が政権を取ったら、権力にどん欲になるといういうのはない。すべての人の心が空しいのです。イエスの望みは、イエスがその人のために為されたことを知り、それによって心満たされた人が政界に出て、イエスのように自らの権力を手放す人間になること。その時こそどんどんその権力を行使してほしいと。

政治だけではなく、イエスが為したことを知り、それによって心満たされた者は誰でも、最早、性欲というものに対してもわがままでなくあくまで忠実になれ、またお金というものに対してもわがままでなくあくまで寛大になれます。この忠実、寛大を主の恵みにより兼ね備えた人こそが、自分の賜物、手のわざ、職場を通して、世界を変えて行くことができるのです。

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あの夢のことを
(峯村淳甲神学生)
申命記30:14

「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」(申命記30:14) 公民権運動のリーダー、マルティン・ルーサー・キングJR.は何度も逮捕され、又襲われましたが、1963年に行ったリンカーン記念堂に向けてのあの20万人のデモ行進のあとに行ったスピーチが歴史的な『私には夢がある』I have a dreamでした。

キングのノートには、日頃から思い浮かぶままにkeywordが書き込まれており、それらkey wordは、十分な肉付けはされていない状態にあるが、実際準備された内容を語っていく中で、会衆ニーズと自分の伝えたい思いが共に高まり、それらが或るkeywordと呼応してスパークした時、聖霊の導きの中でkey wordが瞬時に肉付けされ、メッセージにビッグバンが起こるというのです。実際「私には夢がある」のことば自体はノートにあったけれども、原稿にはありませんでした。

さてあなたには、人生のキーワードがあるでしょうか。それが聖書のみことばであれば、なんと力強いことかと思います。

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雲の柱、火の柱に導かれて
(高見澤栄子師)
出エジプト13:20-22

火の柱、雲の柱に導かれて始めた「モンゴルキッズの家」プロジェクト。首都ウランバートルの下水道に生活する4500人のマンホールキッズたちを救いたい。23年前に高見澤栄子師に与えられたこの思いは、止められることはありませんでした。火の柱、雲の柱に導かれて歩むイスラエルの民の歩みが、ファラオの軍隊にも、紅海にも止められなかったように。それは、彼らには、神の大切なメッセージが託されていたからでした。

彼らは鴨井と門柱に小羊の血を塗ったことで災いが通り過ぎるという経験をした民でした。これはイエスの十字架の福音のプロトタイプです。その後彼らは、昼でも夜でも、神が進めと言われる時に進みました。その時彼らは、彼らを導く雲の柱の一番上、神を仰いで進んだのです。今の時代、私達はこの神の福音のメッセージを、そして「この最も小さな者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのです」のイエスのメッセージを、地の果てにまで運ぶ役割を担っているのです。

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裏切られてもなお愛し
ヨハネ18:12-27

あなたの人生における最悪の出来事とは何でしょう。ペテロは炭火の横で「あなたもあの人の弟子ではないの?」と聞かれ、「違う」とイエスの弟子であることを否認します。ところが復活のイエスはご自分で炭火を起こし、あの時わたしはあなたのそばにいたとペテロに伝えられるのです。そして「わたしの羊を飼いなさい」とまことの弟子の召命を与えます。主はあの人生最悪の場面にもあなたと共におられ、愛といつくしみのまなざしであなたを見つめておられたのです。

4つの福音書全部に、このペテロの裏切りは描かれています。それは、それが大切な出来事であり、彼の信仰の原点がそこにあったからです。ペテロはやがてキリスト教会のトップとなりますが、この恥ずべき自分の失敗ストーリーを聖書から削除せず、逆に、自分の人生を語る時には、必ずこれを語れと指示します。彼は、自分の罪、恐れ、愚かさに勝ったのはこの方だ、人類の罪に完全勝利して下さったのはこの方だと、告げざるを得なかったのです。

ペテロはイエスを守ろうと、マルコスという男の耳を切り落とします。「耳を切れ」などイエスは言われなかったのに。またそのあとも、のこのこついて行って大失敗を演じます。「この人たちを去らせよ」が主の御心だったのに。ペテロはイエスのお考えを無視し、自分のおせっかいの性質ゆえに、罪を犯し、自分を追い詰めるのです。僕らも同じく、しばしば神のご命令よりはるかに多くのことをしようとします。たとえ勇気がないように見える道であっても、御心は何かを考え、真の勇気をもって選ぶ者でありたいと思います。

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わたしがそれです
ヨハネ18:1-11

僕らは、自分よりダントツに優れた人のそばに長くいるのはしんどいし、その差があまりに大きいと崩れ落ちてしまう、そんな弱さを持つ者たちです。相手が人間であってそうなら、神の前ではどうなるのでしょう。イエスが、「わたしはある」との神宣言をひとこと口にしただけでローマ帝国の正規軍がのけぞって倒れたとあります。聖書は、人は神の前には立てないと何度も語ります。なら、最後のさばきの場で、聖なる、聖なる、聖なる神を前にして、僕らはいったいどうなるのでしょうか。

だいたい、最後のさばきというものはあるのでしょうか。全人類の持つこの普遍的な問いに対する答えは3つです。世俗主義は「そんなもんはないから、好き勝手に生きろ」と言い、伝統的な宗教は「あるに決まっている。だからちゃんと生きろ」と言います。でも福音はこう言います。「さばきの日は来るけど、さばき主自身がやって来て、そのさばきを受けてくださった。だからあなたは裁かれず、無罪だ。あなたは神の前に立てる」と。これがイエスを信じる私たちへの最終的な判決文なのです。

人の子イエスの語った「わたしがそれだ」「わたしはある」の神宣言は、人類史上最大の宣言でした。また、最後のさばきがあるとしたら僕らはそこに立てるのかという問いは、おそらく最大の問いでしょう。またそれに対する最大の解決が、裁判官であるイエスが僕らの身代わりとなり、さばかれて下さったということ。そして今、僕らには、この恵みをまだ知らない人たちにこのことを伝えるという、人類史上最大の使命が与えられているのです。

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キリストによる和解
(坂野慧吉師)
ルツ4:13-17

ナオミは神を信じていても不幸続きだった。夫が死に、息子たちも死んだ。息子キルヨンと嫁ルツの間には子もいなかった。では、どうしてそんなナオミの信じる神を、ルツは信じることができたのか。ナオミがエルサレムに帰る時、ルツは離れようとせず、「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民」とまで告白した。 ナオミを通して、ルツは神を見ていたのだ。

やもめのルツにとって、ナオミは信頼に足る姑であり、異邦人ルツにとって、イスラエルの神、まことの神は、信頼に足る神だった。ナオミは、その不幸にもかかわらず、いや不幸を通して、なお神を映し出す人だった。だから、ボアズの布団に入るという大胆な「プロポーズ大作戦」をナオミが薦めても、その通りにする。ナオミへの信頼がなければそれはできない。そしてルツはボアズとの結婚に導かれて行く。

ボアズとの結婚によって、ルツはダビデの曾祖母(ひおばあちゃん)になる。いうまでもなく、イエスキリストの家系だ。「サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。」(マタイ1:5-6) 我々も今このイエスキリストの家系に組み入れられているというのは、何という幸いだろう。

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宣教の栄光
ヨハネ17:6-19

イエスの僕たちに対する期待は、宣教の特別な使命を担ってほしいというものです。宣教の使命とは何か。それは、「父の栄光を現す」「イエス・キリストの栄光を現す」「聖なる民となる」の3つの原則から成り立っています。では、「栄光を現す」とは具体的にどうすることを言っているのでしょうか。

栄光とは、物質、重量、存在を現す原語と実質的に同じことばです。歴史は水の流れで、小川に岩を置くと水はそれをよけて流れます。それは岩が水より栄光を持つからで、逆に葉っぱを置くと、すぐに流されて終わりです。流されずに永遠に残り続けるものが栄光あるものです。僕らは日々の生活の中で、永遠に残るもののために働いているでしょうか。父なる神に栄光を帰すとは、神はそのような方だと伝え、賛美することです。

聖霊の役割は、イエス・キリストを指し示すこと。実は、宣教の使命を担う僕たちは、この聖霊と同じ役割を期待されているのです。クリスチャンの皆さん、もっと口を開きましょう。そしてイエス・キリストのすばらしさを、僕らが受けた感動を、人々に流し出しましょう。「あの医者はすごいよ。なんかあったらあの医者に頼ったらいいよ」と本気で勧めましょう。

僕らが、個人ではなく集団として、横のきずなが強く、「何か違うものがある」と思われる集団となることをイエスは期待しておられます。これが宣教の基盤となる「聖さ」。ですから今後、男女の付き合い方、セクシュアリティ、家族の関係、仕事のとらえ方、お金の使い方、社会問題のとらえ方などの違いを示す、「聖なる民」としての宣教の基盤をTCCに形作りたいと思います。