Q&A

同じではありません。仏陀の最後の言葉は「怠ることなく、努力せよ」だったと言われていますが、キリストの十字架上での最後の言葉は「完了した」でした。この違いは、私たちの救いが人間の努力で勝ち取るものではなく、キリストがなして下さった御業によるものであることを教えています。
どなたでも歓迎致します。聖書や讃美歌もこちらで用意しています。
シアター形式に着席し、全体で約一時間。その半分は牧師の説教、残りは賛美歌を歌ったり、祈ったり、聖書の朗読などです。詳しい流れは次の通り。
  1. 招詞:言葉通り、「招きのことば」を、司会者が朗読します。私たちはみな、神に招待され集まりました。
  2. 賛美(第一曲目):神をこころから賛美します。
  3. 司会者のいのり
  4. 使徒信条(キリスト教の信仰を簡潔にまとめた文章)を、一緒に言い表します。あるいは、聖書の数節を、交互に読みます(ヨハネの福音書15章1~12節など)。
  5. 賛美(第二曲目)
  6. 牧会祈祷:牧師が教会を代表して祈ります。
  7. 賛美(第三曲目)
  8. 聖書朗読:当日のメッセージに箇所を司会が読みます。
  9. 説教:牧師によるメッセージです。
  10. 賛美(第四曲目)
  11. 献金:神への感謝として捧げます。金額も、献金するかしないかも自由です。
  12. 主の祈り:キリスト教会で一番有名な祈りを皆で唱えます。これは世界中の人々の祝福を願い、また日頃与えられている全ての恵みに感謝する祈りです。
  13. 頌栄・祝祷:牧師がみんなの祝福を短く祈ります。
※ 以上、手ぶらでご来場くださって全く問題ありません。  
まだよくわからなくても、神に思いを向けてみることで、目の前の煩いをこれまでと違った視点で見ることができます。また教会は、お年寄りから幼い子どもまで、ただキリストによって一同に集まる、この世にないユニークなコミュニティです。共に祈れる友だちができます。知識や理性では解決できない問題、永遠について答えをくれるのも教会です。
カトリックの歴史は2000年、プロテスタントは500年です。私たちは後者で、マルチ・ルターの宗教改革(1517年)が発端です。カトリックの教職者を神父、プロテスタントの教職者を牧師と呼びます。また日曜ごとの礼典をカトリックではミサ、プロテスタントでは礼拝と呼びます。同じ聖書を用い、同じ神を信じ、イエスキリストを主とあがめます。歴史上いろいろなことがありましたが、今は違いを受け入れ、互いを尊重し、協力し合う態勢が整いつつあります。
信仰はあくまで個人の選択によるものです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)とあります。一方で「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒の働き16章31節)ともあります。あなたがまず教会に行くことで、ご家族にも神の恵みが広がることでしょう。
聖書は約1500年という長期にわたり、約40人の著者によって書かれました。著者の職業は、預言者(イザヤ)、王(ソロモン)、取税人(マタイ)、医者(ルカ)、漁師(ペテロ)など様々であり、それぞれの時代背景・地域性を持って書かれています。礼拝では説教者によって、聖書が解き明かされます。神を知りたいと願うあなたに、聖霊なる神が生きて働き、あなたの聖書理解を助けてくれるでしょう。
天地創造→人類の堕落→キリストの降誕→新天新地へと向かう「神の物語」です。堕落した私たちを神はあきらめることなく、キリストを信じることによって、再び神と共に生きる者として下さいました。聖書には、神があなたをどんなに愛しておられるか、また私たちはどのように神を愛したらよいのか書かれています。 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5章8節)
死んで何もかもなくなってしまうなら、何のために今、頑張って生きるのかと考えてしまうかもしれません。天地をお造りになった神はあなたをお造りになり、あなたのことをあなた以上に知っておられます。神が造られた本当の「あなたらしさ」を探しに、教会にいらっしゃいませんか。
ただの誕生日ではありません。天地創造の初めからおられたキリストが、この世に降りて来られた「降誕日」です。その日、罪のない完全にきよい神が、肉体をもった人間としてお生まれになりました。ある大きな目的をもって・・・
私たちにも理由がわからないことがたくさんあります。しかし後から振り返って、そのことで神に近づくきっかけになったということもあります。「なぜですか」と問うことを、神は受け止めて下さる方です。
日本人は道徳的にも大変レベルが高いですが、自分の心を顧みれば、誰もが完全な善人でないことに気づかされます。神は人の心を取り扱われる方です。神を無視し自己中心的であるなら、それは神の目に罪とみなされます。
キリストが、私たちの身代わりとなって下さいました。キリストを信じる者は罪の罰から解放され、さらに罪の誘惑からも自由な者として生きることができるのです。
礼拝の中で献金をしますが、これは入場料や聴講料のようなものではありません。クリスチャンは、神が私になして下さったことに対する感謝の応答として、自ら決めた額を献金します。献金は神に捧げるもので、喜んで捧げることで、きっとあなたへの祝福となるでしょう。
禁じられているものはありません。「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」(テモテへの手紙第一4章4節)と書かれています。一方で聖書は、私たちの体は聖なる神の宮であるとも教えています。身体をいたわる意味でも、肉体が傷んでしまうような、食べ方・飲み方は差し控えるべきでしょう。