事情が変われば言うことも変わるのが僕たちです。が、主イエスはあるがままに受け入れてくださる方。神の創造に失敗作はありません。僕らにとっては×(ぺけ)を付けることの多い自分ですが、神にとってはすべてが〇(まる)。だから僕らに対する神のこの「しかり」を僕たちが受け取り、握って離さない時、そこに新しい世界が始まるのです。 「愛はすべてを耐え、すべてを信じ、全てを望み、すべてを忍ぶ」とは、愛ゆえに信じて望んで耐える時、そこに不思議が生じるということ。99%は見えない世界であり、十字架は自由意思。負っても負わなくてもいいものです。でもその十字架をあえて負い、障害のある子を「障害を持って生まれて来た我が子」として肯定して受け入れ、愛し続けるなら、その愛の決断は家族を本当の家族に成長させてくれるのです。 「この人に神の業があらわるため」とは、これまで歩んできた道を主がよしとされるなら、この人はこの後どんな生き方もできる様になり、そこに神の業が現れるということ。「この方には『しかり』だけがある」とは、神がすでに受け入れているのだから、あなたも自分のことをそのまま愛せよということ。ペテロが岩の人生を歩み、ザアカイがその名の通り正しい人になった如く、すべてを肯定するイエスに出会うとき、僕らは自分の人生を自分らしく歩めるようになるのです。