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礼拝メッセージ

UNBELIEF
使徒4:1-20

人は皆、自らの人生のシステムを持っており、それが礎となり、自信の源となる。しかしペテロとヨハネは、ある事件を通してそれが壊された。だからペテロは、自分が主人を一旦は否定した事実まで公表し、「すべての人は罪びとだ」と語った。この言葉は衝撃だ。

ペテロもヨハネも自分が善人でないことは百も承知だった。だから、「自分には何もない」「この方以外には誰によっても救いはない」と断言したのだ。ところが人々は、恵みによってしか救われないという「無力感」をなかなか受け入れることが出来ない。だからイラつき、嫌うのだ。

アベルは神の恵みに生き、カインは自分のパフォーマンスに生きた。アベルはカインを愛し、カインはアベルを憎んだ。あなたの根っこのモチベーションは、愛かそれとも憎しみか。あなたの心の礎は、イエスかそれ以外か。カインは、自分に確信がないので、確信を持っている者を嫌った。これが迫害の起こるもうひとつの原因だ。

あなたが誰にも迫害されないとしたら、それは、あなたがイエスの様でないからだ。愛にあふれ、真実に行動するなら、その人は迫害される。迫害を避けようと必死になる必要はない。それは、イエスと同じ靴を履くことだから。死のあとには復活がある。私が死ぬとき人々は救われる。この奇跡は2024年にも起こるのである。

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預言者キリスト
使徒3:17-26

自由とは、僕らの心の奥底の切望を満たすこと。僕らの中にはいろんな欲求が渦巻いています。が、どの欲求があなたに解放をもたらし、どの欲求があなたを奴隷にするかは、僕らをとことん知っている設計者、創造主の著した取説である聖書だけが、僕らに語り掛け、教えてくれるのです。

結局僕らの持つすべての問題は、真理を拒むことから来ています。マタイ6:28「なぜ心配するのですか。…よく考えなさい」は、あなたの心配と疑いは、よく考えないことから来ているのだと言っています。だからまずはあなたがこれまで礼拝の中で神について聞いてきたこと、物事の本質をよく考えることです。「あなたはイエスに仕えるために造られた」これがメッセージです。

「みことばにとどまる時、真理はあなた方を自由にする」とあります。もしみ言葉に従い始めたのに、まだ自由になった気がしないというと人がいるなら、その従順が、律法偏重になっている可能性があります。福音の核心である恵みというものをつかんでいないのです。イエスが苦しんだのは、あなたの罪が払いのけられるため。それはもう終わったのです。

それを知った時、「まだ頑張らないとだめだ。そうでなければ自分は認められない。罪が消えない」と思う誤解からくる徒労感はなくなります。イエスはすでに苦しまれた。このイエスを救い主として受け入れる時、あなたの従順は、もはや苦行ではなくなり、感謝と喜びにあふれたものとなるのです。

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新しいコミュニティー
使徒2:40-47

私は最近ベートーベンとお友達になりました。それは彼の生い立ちを、キリスト教道徳の教科書から知ったからです。見栄えは悪く、20歳で耳を悪くした音楽家。彼はそんな自分も決して滅ぼさない神への賛美を曲にしていきます。そして最後に交響曲第九「歓喜」を完成します。こんな生来音痴の僕が、ベートーベンと心から響き合えるのは、正に奇跡で、それはイエスを信じる信仰という共通点を与えて頂いたからに他なりません。

さて、あなたにも、イエスを信じる信仰ゆえに交わりを持てたが、それがなければおそらくは一生付き合うことはなかっただろうというような友人はいますか。ペンテコステで聖霊を受けたクリスチャンたちは、元々なんの関係もなく、生活も文化もまるで異なる人たちでしたが、そんな彼らが親しくなり、いつも一緒にいるようになりました。それが今の教会家族です。そしてその交わりに、彼らは献身したのです。

CSルイスは、「賛美は楽しみを表現する手段だけでなく、その楽しさを完成させるものだ」と言います。確かにタレントでも、野球チームでも、同じ思いを持つ者たちでその栄光を応援すれば盛り上がります。が、人生を賭けるに値する栄光は神の栄光ただ一つ。我々の人生に置かれた様々な栄光は、最終地点を指し示す道路標識にすぎず、僕らはそこにとどまらず、栄光の神の為に生きる必要があるのです。

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心に切り込む
使徒2:32-41

ペンテコステの直後、3000人が救われたと使徒2章は言う。それはペテロの説教が鋭かったというより、聖霊が彼らに、「これは真実かもしれない。あなたも周りに引っ張られず、一生に一回ぐらい自分の頭で考えてみよ。」と語り掛け、さらに「あなたがイエスを十字架につけた」と知らせ、彼らはそれによって心を刺されたのだ。が、実は、これとおなじことが我々にも起こり、それが、回心と救いの秘訣となるのだ。

十字架上のイエスを見ると、あなたは自分の罪深さを知る。が、それと同時に、イエスがそこに居られることのもう一つの意味、すなわち、イエスのあなたに対する愛の強さも、あなたは知るようになる。イエスは十字架上で世界を失い、父の愛も失った。それはあなたを失わないため。あなたはイエスにとって何にも代えがたい大切な存在であり、イエスはあなたのために全てを失ってくださったのだ。

罪の力からの解放は、イエスがやってくれたことを知り、自分の心を溶かすことによって与えられる。その時、イエスを悲しませることはできないと自然に思うようになるのだ。実は、クリスチャンとは、イエスのしたことを知らなかった者が、それを知って、「私たちはどうしたらいいですか」と、悔い改めをもって問う者たちであり、実はこの経験のあるなしが、クリスチャンと宗教的なだけの人間との違いなのである。 

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新しい都市@ペンテコステ
使徒2:1-18

ペンテコステには聖霊の火が下りましたが、火の柱、燃える柴など、これまでも神はご自分を火として表わされました。それは神の力強さ、純粋さ、聖さ、美しさを表すと同時に、近づきにくさも示すものでした。「あなたは弱さを持つから神には近づけない」という、隔ての壁の象徴が火だったのです。ですからシナイ山における最初のペンテコステでモーセは岩の間に身を隠したのです。

しかし二番目のペンテコステでは、すべての信徒に聖霊の火が下り、その時以来、我々はそれに動かされる者となりました。ですから我々は、火であり、風である聖霊を感じるはずで、それは自分が恵みによって救われた事実を伝えたいという思いです。火が皆に下ったことで、福音宣教は皆の務めとなったのです。

なぜ初代の教会はこれほどまでに広まったのか。それはイエスが十字架上で火の洗礼を受け、我々の受けるべき報いを全部受けて下さったことにより、愛と律法を同時に満たす世界が始まったことを彼らが理解していたからです。我々も、神が我々のために何を為してくださったか、その御業を語りつつ山を下りるのです。その時、自分のために死んでよみがえられた方のために生きる人生が、我々にも始まります。(Ⅱコリント5:14-15)

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復活の証明のかずかず
使徒1:1-11

僕らはどれだけ復活を信じているでしょうか。それが簡単に信じられないのは、世界観が邪魔しているからです。宗教は信じない、社会として好まない、これが今の日本の世界観です。世界観は元々安定したものであって、これに合わないものは無意識のうちに拒絶し、見たことすら気づかず、受け流し、笑い飛ばします。が、これが1世紀に崩れた。パウロの書いたコリント人への第一の手紙には、500人が復活のイエスと出会ったとあり、彼らは死をも恐れぬ集団になっていったのです。パウロは牢獄でアグリッパ王の尋問を受けますが、その時パウロは「私がこれほど大胆になれるのは、復活が真実だったからです。」と答えました。復活は、真実と信じることが出来た時だけあなたを最後まで導くものとなるのです。

またステパノはイエスが最初の昇天者だったことを知らないわけではありませんでした。が、あの石打の刑の時、聖霊が、彼が知的に知っていたことを、現実にしたのです。彼が「父よ、彼らをお許しください」と微笑みながら死んだのは、復活が真実だと知ったからであって、「もし自分に神の微笑みがあるなら、地上のしかめっ面は大したことじゃない。もし私に神の称賛があるなら、地上の非難は取る足りない」と思えたのです。あなたもそんな大胆さを持ちたいと思いませんか。復活を信じなさい。復活はあなたの人生に、これまで経験したことのない深みある挑戦を与えるでしょう。その時、千年後の人類があなたの名を知ることになるかもしれません。

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どんな宗教でも救われますか?
ヨハネ14:1-6、使徒4:12

宗教心の篤い人は神に近づき天国に使づこうと、上へ上へと上って行きます。が、イエス・キリストは下って来られ、僕らに救いの道を示してくださいました。それが十字架です。

「死は一巻の終わり」というのが普通の考えです。でも、愛する人を失ったことで、その人がどんな思いで生き何を託して死んでいったのかを知り、そこに新しい「生」を発見して本当の自分の人生がスタートするということがあります。イエス・キリストの死が弟子たちにもたらした変化は、正にそれでした。

自分が愛されているという実感のない人、愛された経験のない人、自分を好きになれない人は人を愛することができません。「無い袖は振れん」という言葉通り、僕らは愛され、愛を頂いて初めて、人を愛することができる様になるのです。

人生は山あり、谷あり、谷底あり。でも僕らの人生には、歴史の支配者である神の圧倒的な勝利が鳴り響いている。それは僕らが、全能の神、イエス・キリストに愛されているからです。その愛の象徴が十字架なのです。

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都市のビジョン
使徒8:1-8

2000年前、使徒たちは散らされた後、まず大都市に向かい、その後のパウロも一貫して都市伝道を行いました。それは都市で起こったことがそのまま周辺の地域に伝わるからです。「全世界に出て行って」というマルコの大宣教命令を達成するために必要なことは、まず都市を福音で満たすこと。これこそがTCCが今都心で求められている働きなのです。

都会では、この人だけは可能性なしと考えてしまうような人によく出くわしますが、神の子イエスは「言葉は人となって」と、まさに境界線を越えて僕らと同じ人間となり、十字架にかかるほどに愛してくれました。だから「自分で線を引くな」とイエスは言われます。イエスの福音は、僕らを謙遜にし、次の「境界線越え」も僕らにもチャレンジして来ます。

「あなたも変えられたじゃないか。それも善行や徳によってではなく、ただ恵みで救われたことを忘れたのか。だから出て行きなさい」と主は語られます。救われたのは救うため。TCCが、その主の命に応えて、世界宣教の第一歩として、都心の僕らの持ち場へと、神の働き場へと、勇気をもって出て行くことを願います。

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救いへの導き
(石川礼宣教師)
使徒8:26-40

1、主の導き:救いは完全に主の導きによってなされます。ピリポはサマリアで順調に宣教の働きをしていましたが、主の導きに従いました。主は私たちのことも日々導かれており、主の示されたところへすなおに向かうよう求めています。

2、導き手として人を用いられる:主はピリポに、エチオピア人の宦官の馬車と一緒に行くようにと言われました。主は私たち人間を、主の導き手という重要な働きに召されます。 声をかけられた宦官は、イザヤ書43章についてピリポに尋ねます。異邦人の彼には、ふさわしい導き手がいなければ聖書の示していることがわかりませんでした。そこでピリポは成就されたばかりのイエスの福音を語ります。イエスキリストは、ユダヤ人だけでなくすべての人に救いをもたらすためにこられたのです。

3、救いの喜び:彼はためらうことなく受洗を決意します。はっきりと自分が救われたことを確信していたのです。バプテスマを受けて水から上がった彼は喜びに溢れていたでしょう。主の導きによって御言葉が心に届き、福音を心から受け入れることができたからです。

まとめ:救いのみわざは、このように主が先導し、人を通して行われます。御言葉はまことの神の言葉ですが、いつでも誰でも、その真理を容易に理解できるわけではありません。そんなとき、ふさわしい導き手がいて、主の助けがあって、私たちは御言葉の真理に到達することができるのです。 私たちは誰もが御言葉の導き手になることができます。主が言葉を導いてくださると確信していれば、ピリポのように、私たちも主の導きにしたがって語ることができます。私たち自身も、救いの喜びを味わったものとして喜びに突き動かされて福音を伝えていく者でありたいです。

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礼拝の中で起こること
(渕野弘司師)
使徒20:7-12

神の前に死に、神の前に再びいのちを得る。これが私たちの礼拝における経験である。私たちは罪びとであり、すでに死んだ者。しかし主が下りて来て下さり、まだ命があると言って下さり、希望を与え続行けて下さる。それが我々のイエス経験なのではないだろうか。 我々は、今は下に住む者だが、上に引き上げられる者。ユテコは1階まで落ちがた、そのあと再び3階まで引き上げられた。このことを毎回確定し、確認するのが礼拝なのではないだろうか。