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神のかたちに造られた私たち
(坂野慧吉師)
創世記1:26-28

創世記1:26には「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。』」とある。「仰せられた」は三人称単数。しかしそれに続く内容は「われわれ」と、どう見ても複数の内容。これは神が三位一体の関係にあることを表している。そしてイエスはヨハネ17:21「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」と言っている。子なるイエスの中に父がおられ、父の中に子がいる、この相互内在の関係性が神のかたちとわかる。

また神は男性の助け手として女性を造られた。それも男のあばら骨から。そして1:27-28「神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。」とある。男女、夫婦の関係においてもそう。またエペソ1:10には「時が満ちて計画が実行され、天にあるものも地にあるものも、キリストにあって、一つに集められることです。」とあり、ヘブル1:3には「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」と。

東京センターチャーチの新しい会堂が月島に与えられた。これは月島の、東京の人達を、イエスに在って一つにするため。何年も祈って来た東京都心での教会が、具体的な場所として与えられ、夢のようだ。共に祈り、賛美し、安否を問いあい、子供たちのために祈る共同体として、更にこの教会が用いられるように祈りたい。

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絶望しない人生 ヨセフ物語 Part.2
創世記50:15-26

英語にはanother ideaという言葉があります。もう一つの思い、自分が考えるのとは別次元の考えという意味です。僕らはこれが最高と思っていろんなことを決め、物事を進めますが、それをはるかに超えるアイデアがあり、神はそれを実現される。これが歴史の支配者である神のなさり様であり、僕らを愛してやまない神のご人格なのです。

「ここに私を遣わしたのは、あなたがたではなく神なのです」このヨセフのことばは、神は、兄たちの罪や悪事からも、それが悲惨な結末に行き着かないよう守り、かえってそこから世界の祝福という次なるみ業を紡ぎ出される。それらすべてが神の御手の中に在る。私の知る神はそんな神だということです。

ヨセフの最終目的地は、神から頂いたあわれみを人に注ぐこと、そして神が自分を通して為そうとしておられる「全人類の祝福」という遠大なご計画の、一歩でも半歩でも為していくこと。そこに彼の人生目標がありました。ヨセフが神に託されたこの目標は、絶望とは対極のポジションにあり、これこそが彼の、窮すれど絶望せずの秘密だったのです。

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誘惑に負けない人生
創世記39:5-23

ヨセフは幸運な人となったと聖書にあります。それは神が共におられたからです。そして、それ故に、あんな過酷な人生を歩んだにもかかわらず、彼は過去に縛られることなく、今を一生懸命生きることができました。そして異邦人ポティファルまでが、彼を見て、神が彼を成功させていることを見たと聖書は言うのです。なんとみごとな証しでしょうか。

あなたは使命をもって生きているでしょうか。使命の伴った人生とは、神の愛と期待を知り、それに応答して生きる人生です。そしてその使命感が誘惑に対する抵抗力を作り上げてくれます。ですから僕たちも、もっと神と近くにあって、どんどん祈り、会話を増やし、神から頂く使命を確かなものにしていきたいと思います。

「神を愛し、人を愛する愛」をもし僕らが持つなら、その愛は僕らを誘惑から守ります。都市伝道のために世界中を旅するティムケラーに「これまで都市で誘惑に負けそうになったことはなかったですか」と尋ねたら、彼は「福音があまりに魅力的なので、他からの誘惑を受けたことは一度もありません」と答えたそうです。まさに福音にぞっこんの人生だったのです。

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祝福を受けるコツ
創世記32:21-32

あなたはどんな祈りを神にささげていますか?綺麗なことばを並べる「よそ行きの祈り」になってしまっていないですか?そうではなく、本心をぶつける祈りこそが大切と、ヤコブの格闘は語ります。詩篇のダビデのように、偽りのないことばで祈る。素の自分で、弱さをオープンにして、恐れがあるならそれを伝え、神のあわれみを乞う。まるでレスリングのようなつかみ合いの格闘、そんな祈りこそが、僕らが神の祝福を受けるコツなのです。 さらに祈りには二種類あり、一つは人格的な祈りで、もう一つが非人格的な祈りです。後者の「人格的でない祈り」は、祈りが聞かれたかどうかの結果だけを見ます。ところが大切なのは結果ではなく、そこに至るプロセス。神は祈りを通して僕らを高め、祈りそのものを変え、元々求めていた以上のバージョンアップした内容にしてそれをかなえて下さいます。そしてそのプロセスを通して、神は僕らの中の神の形を回復して行ってくださるのです。 神は僕らをとことん愛しておられます。その神を知り、楽しむことができた時、僕らの世界は一変します。すべてが愛の対象となって来るのです。自分がどれほど愛されているかを知った時、これまでは恐れと憎しみの対象でしかなかった人まで、自分と同じく祝福を共有すべき人なんだと知るようになるのです。

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どん底に降りてこられる神
創世記28:10-22

ヤコブは長男の権利を兄から奪い取り、父の祝福まで横取りしたことで、兄に殺意を抱かれ、這う這うの体で一人ラバンの家に逃れます。その旅先での最初の夜、彼は神と出会うのです。どん底での神との遭遇。それは神自らが、情けない一人ぼっちのヤコブに寄り添って下さり、お前はわたしの祝福から漏れていないということを彼に告げるためでした。 どん底にいる時、僕らは「なぜ」と神に問います。が、答はありません。でもそこに、神の愛といつくしみのまなざしがあることを覚えたいと思います。イエスも「どうしてですか」と問いました。「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と。その答えは無かったのです。でも「御心のままに」と進んで行かれ、父の無言のまなざしの中でイエスはよみがえりました。 ヤコブにとって、これまではおじいちゃんとお父ちゃんの神でした。礼拝も一緒に出た。でも、この時初めて、神にじかに会えたのです。神を知り、神が自分の神になったのです。「なんと恐れ多いことだ。ここは神の家、天の門だ」という驚きこそが、僕らの礼拝です。はしごを降りて来られ、日々僕らに話しかけ、共に生きることを喜び、僕らを世界の祝福の基としてくださる神、このイエスキリストのもとに居続ける者でありたいと思います。

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神に喜ばれる結婚
創世記24:1-27

結婚など、親しい人間関係に回復がある時、僕たちは本当に慰められます。神はそんな身近な人間関係の回復を通して、この世を変えて行かれるのです。そこには恐れがあったり、自己評価の低さがあったり、いろんな妨げはありますが、それが一番リアルになるのが夫婦関係かもしれません。 全ての人間関係のスタートは夫婦関係です。それは人類の最初の、かつ最小の単位だから。祝福もここからやって来るし、崩壊もここからだということ。この事実はサタンも知っています。だからこそ巧妙に入ってこようとするんですよね。 「まず神の国とその義を第一に求めなさい」神を第一とする人を通して、世界は回復していくし、その一歩は僕たちの中に始まっているのではないでしょう。その一歩を停めない僕たちでありたいと思います。

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ひとり子さえ惜しまずに
創世記22:1-18

イサクはアブラハムにとって、今や宝物中の宝物。でもそれが神以上になった時、イサク奉献の命令が神から下りました。それは、あなたの霊は死んでいないか、向くべき方向を向いているかという問いかけでした。これは僕らへの神の問いかけでもあります。僕らにとって一番大切なものが神以上の存在になっていないでしょうか。 大切なものをいったん手放し、神にお返しするなら、その時、その賜物は、神から託された本物の力を発揮するようになります。アブラハムが、それまで握りしめていたイサクをいったん手放すことによって、これまで死んだイサクだったのが、生きたイサク、いのちあるイサク、アブラハムの祝福を大胆に引き継ぐイサクとなって帰って来たのです。 試練の山には神の臨在があり、それを通して神は僕たちをもっと祝福したいと願っておられます。あなたに試練を告げる時、神は泣いておられます。でもそれ以上に、それを通してのあなたの更なる成長を望んでおられるのです。目の前の試練に挑みましょう。そして「主の山に備えあり」を体験させて頂こうではありませんか。

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イサクとイシュマエル
創世記21:1-13

ペテロの手紙は、サラのことを、神を恐れかしこむ良い生き方をしたと高く評価しています。が、実際のサラを見ると、神に望みを置くよりも人間的な解決を求めてハガルをアブラハムに与えたり、はたまたハガルが身ごもると今度は2人して自分を馬鹿にしているとハガルを追い出しにかかったりと、しっちゃかめっちゃかで僕らと大差ない人生です。 ところがサラはイサクを生み、「神は私に笑いを下さった」と言います。これは、神がアブラハムを通じて全人類を祝福するという神の壮大なご計画の最初の一歩に自分がかかわれたこと、また神の御心のど真ん中を歩いていることへの、喜びの表現でした。事実、サラのイサクを生むという働きがなければ、モーセも、ダビデも存在せず、イエスキリストのお働きもなかったわけです。 サラは神の国を建て上げる使命に生きたと言えます。同じく、僕らが密室で捧げる祈りも、人知れず流す涙も、神の国の見えない下地に用いられます。ビルの全容は主の再臨までわからないし、土台は更に見えませんが、罪や弱さゆえに神の計画からそれることはあっても、神の御手からこぼれ落ちることはないことを知って、僕たち信仰者は、自分に与えられた使命と、持ち場を通しての神の国建設に大胆に生きたいものです。

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アブラハムの2度目の失敗
創世記20:1-18

アブラハムはアビメレクに対し、サラのことを、自分の妻なのに妹だと偽って「進呈する」という失態を演じます。これは以前犯したのと同じ失敗でした。なぜこんなことになったのか。それは恐れによるものでした。アビメレクは決して変な奴ではなかったのに、アブラハムは勝手な妄想を描いて、ありもしない恐れを自分で作り出したのです。 逆にアビメレクは全能の神、それも自分の幸せを考えてくださり、自分を信頼してくださる神との出会いを通して人格的に変えられ、アブラハムに対しても紳士的にふるまいます。それに対してアブラハムには、信仰の父としての立派さはみじんもない。でもこの「罪びと」アブラハムが、アビメレクの家のために祈るわけです。するとその祈りは聞かれ、アビメレクの家の女性たちの胎は開かれるのです。 罪を犯した相手のことでも祈れるのがクリスチャン。それは、僕たちを通して世界を祝福するのが神のご計画だからです。ダメな僕らを見ても、神はあきらめておられないということ。十字架にかかる前、主はペテロに「立ち直ったら兄弟たちを力づけよ」と、罪の赦しを差し出されました。僕らは自分にがっかりすることだらけです。でも神はその失敗も織り込み済みで、その後の、他者を執り成す者としての務めに、僕らを任じておられるのです。

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主のあわれみを信じてとりなす
創世記18:16-33

さばきは主の専売特許。でもそのさばきに口をはさむことを、言い換えれば、盾突くことを、主はアブラハムに期待されました。ソドムの町の罪を赦すにはこれだけの正しい人が居ることが条件という「数字」を、主は50人からどんどん減らし、最後は「10人いるなら滅ぼさない」と約束されます。 ソドムの罪は、貧しい人々、弱い人々に手を差し伸べず、弱肉強食が横行していたことだと聖書は語ります。では今の日本はどうでしょう。パワハラによる自死があっても組織を守る、保育園では幼児の逆さづりが発生する、いじめ、虐待は日常茶飯事という、まるでソドムのような日本。この国のためにとりなして祈ることを、主は今、我々に期待しておられます。 でも私たちのとりなしでは救えないという現実があります。ソドムはアブラハムのとりなしにかかわらず滅んだからです。実は、私たちは救われないとダメな罪びと、ソドムの住人なのです。でもこのような私たちの真のとりなし手として送られたのが、主イエスキリストでした。 敵であった私たちのために、体を張って命を注いでくださった主がおられたことで、今の自分がある。それゆえ私たちは自分の敵としか思えないような人のためにもとりなすことができるのです。とりなすことは、主に似た者に変えられつつあることの証し。今も降り注ぐイエスのあわれみを受け、とりなす者として新しい週も遣わされて行きましょう。