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人生の2つの恵み/ヨセフの生涯の祝福
(滝田新二師)
創世記41:46-52

ヨセフの長男の名は「忘却」を意味するマナセ。私たちには忘れてしまいたい過去がある。が、イエスはそのつらさを十字架に元に下ろせと言われる。それは簡単なことではない。だから、「主よ、私はあの人を赦せないのです」という祈りから始めよう。 赦すことは痛みからの解放。私たちが赦せないあの人のために主イエスは死なれた。だからその人を赦さないなら、それは私たちの罪となる。一方感謝なことに、イエスの痛みによって私たちは癒して頂ける。赦しは忘却であり、同時に解放なのである。 ヨセフの次男の名は「2倍の実り」を意味するエフライム。私たちの苦しみに対し、主はその2倍の恵みで臨まれる。ヨセフは投獄され、見捨てられたが、それでも回復した。主にある人生は七転び八起きなのだ。 悲しみ、辛さ、痛みの中で主を見上げよう。主は忘れさせて下さり、同時に失ったものを取り戻してくださる。種をまけば収穫に与る。しかし、一旦種は死なないとだめなのだ。が、その時、ヨセフと同じく主は私たちにこの二つの恵みを備えてくださっている。

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私たちに注がれた神の愛
(相島功師)
創世記1:26-31

神は私たち人間を、神のかたちとして創造された。それゆえに私たちを愛し、また世界を管理する仕事をお任せになった。エデンの園のものは何を食べてもよかった。が、ただ一つのルールがあり、それは善悪の知識の木の実だけは食べてはならないということ。「神の命令を守ること、それが、神を愛すること。神の命令は重荷にならない」のだ(Ⅰヨハネ5:3)。 しかし人は神ではなく自分の考えに従った。実を食べたのだ。罪とは、人が被造物の分を超え神のようになること。その結果、神との関係は壊れ人間同士の関係も壊れた。アダムは失敗をエバのせいにした。エバは蛇のせいにし、蛇を置いた神のせいにしたのだ。自分の罪を棚上げにして人のせいにする。これが人間関係を壊す。これが罪の奴隷となった人間の姿だ。 今の世界は罪に包まれている。が、神のあわれみは今も注がれ続けている。そしてイエスは「わたしが来たのは罪びとを招くため」と言われた。神の立てた救いのご計画は、御子イエスを人として送り、十字架に掛けることだった。これは我々を取り戻すご計画だったのだ。 神の子として我々を受け入れ、永遠のいのちを、これを通して与える計画。「神のもとに今帰れ」と招きつつ。これが聖書の伝える福音、good newsの全容だ。主はそのために世に来られたのだ。今イエスを信じて、神とのほんものの関係に立ち返ろう。そしてこんがらがってしまった人との関係も、神に修復して頂こう。

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笑うアブラハム
創世記17:1-19

僕らは困難に出会った時、自分にもっと強い信仰があったらと思います。が、神はそこまで求めておられないどころか、神はその困難・苦しみを、丸ごと抱きしめてくださっている・・・それを知ることが信仰です。そして、その渦中にあっても「神がそこまで一方的な祝福の約束、covenantを語られるなら、ひょっとして」と、ちいさな笑いが生まれてくる。そんな神への信頼と「抱えられ方」を、僕たちはもっと経験したいと思います。 アブラハムは神の言葉を聞いて笑ったと聖書にあります。サラも同じようにみ使いの言葉を聞いて笑います。この二人の疑いと不信仰。これを神は怒られたのでしょうか?もしそうなら、そこから生まれて来る待望の息子をイサク(笑い)とは名づけないでしょう。神は、彼らの1%にも満たない頼りない信仰を見逃さず、その信仰を大切にし、育て上げ、「ひょっとしたら」の笑いしかできなかった2人に、本当の笑いをプレゼントされたのでした。 僕らはイエスの焼き印を押され、イエスの衣を着る者たちです。今や、イエスのパフォーマンスに満足される神は、その弟である僕らにも満足しておられます。これが、僕らクリスチャンの自由さであり、「行い人生」からの解放です。さらにイエスの血に染まったピンク色の服を着る僕たちは、思うところ、願うところまで変わって来る。少なくともそのon the wayにある。そんな僕らを、神はドンと腰を据え、一つ一つ新しく変え続けて下さっています。そのことを覚え、その働きに僕らも召されていることを覚え、感謝して歩んでいきたいと思います。

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神のうしろ姿を見るハガル
創世記16:1-16

僕らはある程度のポジションを獲得すると、「この組織は自分無しでは回らない」と誤解し、横柄になってしまうことがあります。懐妊後のハガルがそれでした。大エジプトから都落ちし、不本意なヘブル人の奴隷をさせられてきたハガルは、その「地位向上」を境に、女主人を見下す罪を犯します。これは誰にでもありがちな失敗です。これを防ぐには、まず自分がどこから拾われてきたかを自覚することです。そして今の自分があるのは、神のあわれみによることだと覚え、あくまで神のしもべに徹する。その時初めて僕らは、神の開かれたドアをくぐった後も、その新しい陽の下で、喜んで神と人にお仕えすることができるのです。 そうして追い出されたハガルでしたが、自分のダメさを知ったからこそ、彼女は神に会うことができました。信仰とは、神はあなたを見つけ出してくださる方だと知ることです。それは駆け寄って下さる神であり、神の愛はそれほどのものだと知ることです。元はと言えばこの事件は、サラの罪が引き金で、それに間違った反応をしたハガルの「追い出され事件」でした。が、そんな罪から発したことからも、神は良いものを生み出そうとしてくださいます。僕らは、自分の過去の罪も、その罪の結果も、十字架によって贖われていることを信頼すべきです。ハガルは、神を信じ、悔い改め、身を低くして家に戻った結果、本来は神の予定にはなかっただろう一大民族の母にさえなることができたのです。

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アブラハムへの神の約束
創世記15:1-21

アブラハムは神のことばを疑いました。それどころか失望と落胆のどん底にいて、顔を上げることすらできない状態でした。神は自分に子孫を与えるとは言われるけど、自分はもう歳だし、妻はもともと不妊だし、今さら子どもなど授かるはずがないと、彼は見切りをつけてしまっていました。が、彼は、祈りを途切れさせることはなかった。祈りは「神との友情」を育てる手段です。「神の友」としての彼は全然あかんたれの友でしたが、彼の不断の祈りを通して、神は降りてこられ、彼の手を取って外に連れ出し、空を見上げるようにと言い、満天の星を指さして、「数えてみよ。わたしがあなたに用意している祝福はこのレベルだよ」と、やさしく語られたのです。 子孫だけでなく土地もあげるというのが、神の約束でした。どんなふうに?と聞くアブラハムに対し、神は切り裂いた獣の間を通られます。これは契約を表し、「もしあなたを幸せにしないなら、私は切り裂かれてもいい」という意思表示でした。その後、契約違反をしたのは人間でした。罪を犯し、神を裏切った。しかし、それを償うために切り裂かれたのは神の子イエスキリストだったのです。神の、僕らを祝福するという思いは、それほどに本気なのです。祝福の影すら見えない時、僕らは疑います。アブラハムがそうだったように。でも何があっても神との会話をやめないことです。そしてそのやり取りの中で神は「必ずあなたを祝福する、それも満天の星のように」と誓われました。その証拠が、その成就が、イエスキリストだったのです。あなたはこれを信じますか。

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アブラハムの収獲
創世記14:8-24

アブラハムは、北の王の攻撃を受けて誘拐されたロトたちを救出しますが、その帰り道、メルキゼデクという不思議な祭司から神の祝福を受けます。アブラハムは、自分の成功が神によるものだということは知っていました。が、いよいよ、その神の御守りと祝福に、大喜びします。そしてその応答として、メルキゼデクに一番良い戦利品の十分の一を与えました。それも誰かに言われてではなく、自分から、喜んで。すべては恵み先行、祝福先行。これが神の順番です。 ザアカイもこのように呼ばれましたが(ルカ19章)、私たちは「アブラハムの子」です。それは神の恵みを受けた者という意味であり、私たちへの神の祝福はピンポイントです。決して雨や空気の様に無機質なものではありません。かつ一人一人に対する神の思いがあります。いつどんな形でその人を祝福するかは、神の御手の中にある。そして今悲しみの中にある方には、特に強く、はっきりと、誰が見ても分かる形で与えてくださる。これか父なる神の祝福です。 パウロしかり、ザアカイしかり、すべての「アブラハムの子」たちにとっての最大の祝福は神ご自身です。パウロは、「もっとイエスのそばにいたい、触っていたい、癒されたい、平安でいたい」と願いましたが(ピリピ1:21~)、そんな私たちの思いに、主ご自身が「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」と約束してくださっています。この臨在の主とともに、世の破れをつくろい、神の栄光を表す働きへと召されて参りましょう。

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アブラハムの選択
創世記13:1-9

アブラハムはエジプトで、妻のサラを自分の妹と偽ってエジプト人に進呈するという、大変な間違いを犯しました。それは恐れから出た失敗でした。その時彼は、神の守りというものが分からなくなってしまっていたのです。その後アブラハムが最初に造った祭壇のところまで戻って来て、神を呼び求めたのは、自分の中の破れを神に打ち明け、それをつくろってもらおうとした、その叫びでした。ここに彼の原点回帰があったのです。 その後ロトと別れざるを得ないとなった時、彼は甥のロトに行先を決める権利を与えます。アブラハムは年長者ですから、彼が先に決めてもよかったはず。が、彼はそうはしなかった。どうしてそんなことができたのか。それは、アブラハムには行き先にしがみつく必要がなかったからです。右に行っても左に行っても神の祝福はある、求められて手放すならもっと大きな祝福があると確信が、彼にはありました。その結果、明らかに放牧には向かない土地を選ぶことになりますが、それが彼の祝福の始まりでした。 僕らもこのアブラハムの軽やかさを忘れず、主に在る粋な選択をしていきたいと思います。神は、そんな僕らを通して世の破れをつくろう働きを進めたいと願っておられるのです。だから重要であればあるほど力を抜く。そしてゆだねる。その時僕らの想像を超えた祝福が待っているということを、このアブラハムの選択劇は語っているように思います。「あなたが左なら私は右に、あなたが右なら私は左に行く」と、自分の一番身近な隣人にとって最高の選択をする者でありたいと思います。

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アブラハムの旅立ち
創世記12:1-8

召し、コーリングを受けるとは、神からの促しを受けること。そして心が変えられること。ただこれはあくまで「促し」であって強制ではありません。だから逆らうこともできるのです。でもそれは神があなたを祝福したくて、そのためにあなたに示されるもの。アブラハムは答えがないままに神に信頼して出発し、その結果、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」と呼ばれるほどに、彼は人類の全ての祝福のスタートとされました。 僕らはもっと神に信頼して人生を楽しめばいいと思います。でも実際は、取るに足りないものを恐れ、楽しみ切れていないというのが実情ではないでしょうか。信仰とは、不安や恐れの中で、神に「恐れるな」と呼び掛けて頂き、その恐れの中にあっても支えられ、選び取って行く経験をし、それを体で覚えていくことです。実際アブラハムのやったことは、神の促しにしたがって、家畜を連れて引っ越しただけでした。が、大切なのはそれが神の促しへの応答だったということ。神は小をもって大をなさるお方なのです。 僕らも、神の召しにしたがって、「キリストにあって十分だった」と語れる人生を送りたいと思います。そのとき僕らの人生は、神の永遠のスパンのご計画の一部とされているのです。あとは神がなさいます。人生の主役は、神に従ったその時点で、すでに神にバトンタッチされているからです。日々リアルな弱さにもがく僕たちですが、僕らの回復のための努力は、世界の回復のご計画に結び付いています。そして僕らが感じる小さな回復の喜びは、再臨の時に世界をおおう喜びの予行演習なのです。

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バベルの塔
創世記11:1-9

バベルの塔は、為政者が人々の多様性を封じ込め、すべてをコントロールすることで、その建設は行われました。必要な人員を集め、一つの言語に統一したのです。しかし、神はそれを見過ごすことなく天から降りてこられ、セム、ハム、ヤフェテの時代の、多様な言語と文化に戻されました。どこに住んでもいい、どんな生き方をしてもいいという自由な状態にです。 ペンテコステでも、同じことが起きました。人々がその多様性を保ちながら、多くの言語を自由に使い、キリストの福音を語ったのです。何かと同じことを求める今の日本にはこの聖霊の働きが求められています。日本は不思議な国です。迫害ないのにキリスト教は1%以下。それも減り続けています。日本は聖霊によってはじめて、この天空の支配者サタンの呪縛から解放されるでしょう。 対人関係の問題も同じです。信頼できない人はいます。でも僕らはその人の中にある聖霊に信頼するのです。そのとき相手の人だけでなく信頼する自分も変えられて行く、これが聖霊のダイナミズムです。何をするでなく、そうして変えられ続けるあなたの存在が、周りを変えていきます。いつか感謝を持って見まわしたとき、あなたも周りも変わっていたということを発見するでしょう。

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ノアの箱舟
創世記9:1-17

洪水の後、空にかかった虹の「契約」を、神は人間と結んでくださいました。でもこれは人間の結ぶcontractではなく、一方的な恵みの契約、covenantでした。ノアに対し、「もう滅ぼさない」という約束。何をしたからでもなく、何をするならでもない、無条件であなたを祝福するという、そんな誓いを神は立てられたのです。 虹が出ていても出ていなくても、今やそこに十字架が上書きされています。神が本気で差し出されたこの祝福を、僕らはどれほど本気で受け取っているでしょうか。僕らは自分の現実を見て、神の祝福はどうせこんなもんと、小さく見積もってしまっているところがあります。でも神は、ご自分の作品に、絶対悪いようにはされません。それは、その作品が好きで好きで仕方がないからです。 もっと大きな口を開けて、ポケットを広げて、大胆に求めましょう。そしてその祝福を頂きながら、これ以上ない祝福がすでに注がれていることを信じて、一歩踏み出す。その時、その祝福が現実になるんです。イエスの復活を通して、「賭け」に大勝ちされた神の勝利を、希望を、祝福を、愛された息子として分けてもらう・・・そんな素直な信仰者であることを、神は一番望んでおられます。