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カインとアベル
創世記4:1-17

カインは、神に不公平な取り扱いをされたことに怒り、アベルを殺しました。それは、自分が主人公だと勘違いしたからでした。主人公の座を奪ったアベルが許せなかったのです。こいつさえいなければ自分が返り咲けると。神が真の主人公だということを忘れたゆえの怒り、それは、アダムとエバと本質的に同じ間違いでした。「あなたはどこにいるのか。あなたはわたしが主人公であることを知っているか」神のこの問いかけに、僕らは「はいここにおります。知っています」とまっすぐ答えたいものです。 ところがそのカインに、神は徹底的に寄り添われました。語り続け、誰かに殺されることを恐れたカインに対しても、しるしをつけることで彼を守られました。それは、この男はわたしの庇護のもとにあるという愛のしるしだったのです。あくまで愛。ぶれない神のお姿がここにあります。 イエスの血はアベルの血よりも優れた血だという言葉があります(ヘブル12:22-)。アベルは復讐を求める血、正しいさばきを叫び求める血です。が、イエスの血は罪びとの赦しを叫び求める血なのです。「父よ、彼らお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです」と叫んだこの叫びです。僕らはこのイエスの後について行く者です。決してカインの後にも、アベルの後にもついて行きません。とりなす者、赦し、共に歩もうとする者、ぜひその生き方を僕たちも選んでゆきたいと思います。

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失楽園
創世記3:13-24

エデンの園からアダムとエバを追い出した神でしたが、ご自身も楽園に留まることはなさいませんでした。神の愛の物語、ネバー・エンディング・ラブ・ストーリーは楽園の外で続くのです。創造、堕落、贖い、刷新、回復の5つが神の物語の全体像ですが、このうちの後半3つは、神が人を追いかけて楽園の外に出て来られたあとの出来事でした。 創造の時に「よかった」と神が叫ばれた、あのすばらしさはあなたの仕事にありますか。堕落の悪影響はどんな形で出ていますか。次に贖いですが、十字架の業はあなたの仕事にどう反映されていますか。また世に対するどんな刷新・リニューアルの役割が今の職場にありますか。そして完成ですが、あなたの仕事は新創造の中でどう神の働きに貢献しますか。 各業界で、これらの内容は違っていますが、この刷新部分が、クリスチャン・ビジネスパーソンの役どころなのです。もちろん戦いはあります。原福音でも「かかとに蛇がかみつく」とありますから。でも教会は負けない。それはイエスの勝利があるからです。そして、僕らの刷新の働きの一つ一つが、神の物語を形づくっていくのです。 この思いをもって会社に向かうあなたを想像してみてください。何も考えずにto do listをにらんで会社に向かうこれまでのあなたとは明らかに違う自己像がそこにあるんじゃないでしょうか。これが霊的呼吸なんです。これがいのちある職場の過ごし方であり、「神の遣わし」なんじゃないでしょうか。僕らの為すべきことは、おかれた場所で、日々為すべき刷新の業にていねいに取り組むことです。世界を支配しておられるのは神だからです。

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ああ、アダムよ、人間よ
創世記3:1-12

どうして食べてはいけない木なんかを園の中央に植えたの?これはひっかけ問題か?神さまちょっと意地悪なんとちがう?と、最初にこの箇所を読んだときは思いました。でも違うんですね。世界は創造主なる神が造られました。しかしその完成には、僕たち人間の「愛の選択」「いのちの選択」が必要だったのです。 園の中央には、まずいのちの木があったと聖書は言います。その次に善悪の知識の木があり、その木は、食べることが禁止じられていたのですが、神は僕らに「いのち」を選んでほしかったのです。いのちを選ぶとは、神を愛し、神に従う道を選ぶこと。そして、生物的な生命より大切なものがあると知った時、使命と役割に生きる時、人は本当の意味で生きるのです。 それは大きな決断をすることを言っているのではありません。どうしようもなくしんどい時、少し神の方に手を伸ばす、ちらっとイエスを見る、そんな行為を、神はご自分を選んだ行為と見て、喜んでくださるんです。僕たちは、いのちを選んだ者たちです。でも一回で終わりじゃない。今日も、明日も、明後日も選び続ける、これがクリスチャンの生き方です。 アダムが失敗したこの選択を、僕らが正しくできるのは、僕らが一人じゃないからです。愛するために生き、死んで復活されたイエスが、僕らとともにいてくださる。そして、どうしても駄目な時も、「あなたはどこにいるのか」と捜してくださる。その声を聞くなら、「私はここにいます。罪びとの私をあわれんでください」とお応えしましょう。その時、父はすぐさま、キリストのいのちで僕らを包んでくださいます。

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創造の完成
創世記1:26-2:3

僕たち人間は神のかたちに造られ、男と女に造られたと聖書にあります。それは三位一体の愛の関係をこの地上で完成するのは夫婦であるということ。認め合い、愛し合い、互いを尊敬し、個性を生かし、なおかつ独立している、そんな理想の夫婦は、間に神がおられて初めてできる関係なのです。 また神のかたちである人間は、神の創造の業を引き継ぎ、それを完成させる役目も担っています。創造直後のすばらしかった世界は、堕落でおかしくなりました。が、その崩れた世界を回復に向かわせる方向性を、自分の「仕事」に見つけ出し推し進める、それが僕たちクリスチャンに求められる新しい仕事観なのです。 第七日目を神は休まれ、聖とされました。僕たち人間が、それまでに造られた全被造物を有機的に活用するように、神はご自身の働きを一切やめて、その日を祝福してくださいました。だから僕たちも日曜をより分け、神を礼拝するのです。全身全霊を以て日曜礼拝をささげる、これこそが神のかたちとしての最高のレスポンスなのです。

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天と地と人間の創造
創世記1:26-31

神は僕たち人間を「あなた」と呼び、人格的交流の対象とされました。それが「神のかたち」の意味するところです。が、あなたは神を、モノあつかいをしていませんか。良い道具を捜すかのように、良い事だけをしてくれる神を捜すことを「偶像礼拝」と言います。 神をモノ扱いする人は、他人をもモノ扱いし、その人と問題が生じた時には、うざい!と切り捨てます。その問題を通して、愛をはぐくむ発想にはなりません。そんな人は、結局は自分も「モノ扱い」し、仕事の出来栄えで人生を判断します。でもそれが幸せを測る尺度でしょうか。 人生の目的は愛し合う関係を持つことです。神との、そして人との。神は人間を造られて「非常に良かった」と言われました。神を愛さないかもしれないこの人間に対して。ここに神の愛の覚悟があります。神は、混とんから、非常に良いものを生み出される方なのです。 僕らは様々な混乱を通ります。病気、失職、人間関係…。でもその中で非常に良いものを生み出す方、それが神様です。混乱以前より、さらに良い人間関係を生み出します。虚無から非常に良い世界を造り出した神が、今僕らの人生の中でそれをなそうとしておられます。だから試練の中でも絶望してはならないのです。

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光あれ、すると光があった
創世記1:1-10

「すべてはよかった」と。なおかつすべてが人間中心。これが世界の始まりの図でした。が、現実はどうでしょう。世界のあちこちが壊れているとしか思えないような状態です。コロナ、アフガン、気候変動、周りの人間模様・・・。それは、イエスの到来によって始まった「御国」が、「いまだ」と「すでに」の間にあるからです。だから僕たちクリスチャンは、「御国が来ますように」と祈るのです。神が造られ、神が「よかった」と言われた、創世記にある神の完全なご支配が再び来るように祈るのです。 神は人類への愛ゆえにこの世を創造されました。そして神は人類への愛ゆえに、ひとり子イエスをお送りくださいました。創造から始まった人類に対する変わらぬ愛。それは、父からイエスへのロングパスとなり、イエスはそれをしっかり受け取り、十字架のゴールに持ち込んで下さいました。これらはすべて、神が私たち人間を愛するが故の、三位一体のチームプレーだったのです。 神は、この小さな地球に最大の関心を持っておられます。それは、そこが贖いの舞台だからです。あなたの過去の嫌な出来事は消せませんが、そこにイエスの十字架の贖いを迎え入れるのです。事実は消せないけど、福音のレンズでそれを見る。委ねるとは、自分で守ることを辞め、代わりに神に責任を持ってもらうことです。そのあなたの決断を、神は天をあげて喜んでくださいます。「光あれ、すると光があった」の光を楽しむ人生、勝利の主とともに歩む人生を、ここからスタートしたいと思います。

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はじめに
創世記1:1

「はじめ」は神のみが存在し、一切の被造物は存在しませんでした。その神が、ご自身の御力のみで、又私たちを愛する目的で、私たちを無から造られました。その存在の基である神を知るとき、私たちは初めて自分の存在の意味を知ることができるのです。この神が、最初に造られたのが天と地でした。天は全宇宙、地は地球。全宇宙からするとサイズ的には塵にも及ばないこの地球が、神にとっては最も麗しい場所でした。それは神がひとり子を送ってまで救おうとされた場所であり、そこに住む私たち人間の贖いの大舞台だからです。 宇宙から見た地球は、ブルーに輝くオアシスであり、いのちの楽園です。全宇宙そっちのけでこの地球に最大の関心を注いでおられる神の「アンバランスさ」はそのまま、70億そっちのけでこのちっぽけな自分に、そしてあなたに、最大の関心を寄せられる愛の神に通じます。その時初めて、「あなたは高価で尊い」とあなたに向けて発せられる神の愛のささやきが聞こえて来るのではないでしょうか。まさに「人とは何者なのでしょう。あなたが心を留められるとは・・・」です。 タチアナ・マクファーデンは米国の女子車いすレーサー。彼女の自分を鼓舞する言葉は「ヤサマ!」(ロシア語の「私はできる」)だと言います。多くのアスリートがそれぞれに「頑張りスイッチ」となるキーワードを持ちます。が、しょせんその頑張り力の源は自分自身。でも私たちクリスチャンには、天地を造り給うた主がともにおられるのです。ピリピ4:13「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」御子をお送りくださるほどに、全宇宙そっちのけで今も私を愛してくださっている、その愛に立ち返り、そこから力を頂く者でありたいと思います。

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福音の流れをせき止めない
創世記45:16-46:7

ヨセフは幼いときは、実に嫌な少年でした。しかし、多くの苦労を経て謙遜な人柄に変えられ、その謙遜さゆえにファラオの好意を得、今度はファラオの決断によってヤコブ家の一族はエジプトに迎えられるのです。それに先立って兄たちの悔い改めがあり、ヨセフとの和解があり、ヤコブ家は祝福の発信源となって行きます。僕たちは祝福を味わい、流し出したいと願いますが、そのために必要なのが、この悔い改めと、謙遜と、和解なのです。 ヨセフは自分を売った兄たちを無条件に赦します。が、一つだけ依頼事項がありました。それは「道中、言い争わないでください」ということ。もし、道中、兄たちが「ベニヤミンだけなんで晴れ着が多いのか」と言い争ったらどうなったでしょう。また、ヤコブが、兄たちの話を聞いて、「それにしてもお前たち、よくもわしを長年だまし続けたな」と文句を言ったらどうなったでしょう。これらの言い争いは、祝福の流れをせき止めるのです。 ヤコブの発した「十分だ」(45:28)は、心に争いが無く、人との間にも争いが無いところに初めて流れる祝福と、それへの応答の言葉でした。逆に悔い改めも謙遜もなく、内と外に言い争いがあるなら、そのバグにより祝福システムは機能停止します。ヤコブはこれまでのヨセフへの偏愛がどれほど兄弟間に確執を生んだかを知って謝罪し、しかしそれをも用いて民族救済をなさる神の摂理に驚き、御名を崇めたに違いありません。アブラハム、イサク、ヤコブの祝福に与るとはどういうことかが、ここに描かれています。

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真のとりなし手として
創世記44:18-34

ユダは、イスラエル民族を救うために、ベニヤミンの全責任を自分が取ると、父ヤコブに宣言します。そしてベニヤミンが「銀の杯事件」で牢屋に入れられかけた時、彼は自分がその身代わりになることをヨセフに申し出ます。この自分を差し出す姿は、全人類の身代わりとなった主イエスの型でした。それゆえに、神はユダとその子孫を大いに祝福し、ダビデの家系、主イエスの家系とされたのです。 神はもともと人間という機械を、神ご自身を燃料として走るように設計されました。我々は、つい世の達成感、自己実現、人の評価、勝ち負け、出世、お金を燃料に走り出してしまいます。が、それで一回方向付けをすると、あとで軌道修正が効かないのです。でも「神燃料」なら、聖霊の照明が進むべき方向を教えてくれます。メーカー供給の純正燃料で、日々たくましく、正しい方向に、自分の人生をハンドリングして行きたいものです。 「わたしはヨセフです」のカミングアウトは兄たちにはショックでした。が、復活のイエスと出会った初代教会と等しく、彼らはそこで完全な赦しを宣告され、恐れからも解放されます。まったく別の存在に生まれ変わる、これが回心の力です。さらに、神は、我々の夢を守り、我々の自由意思を通して、いや我々の奔放な自由にもかかわらず働かれることがここから分かります。それに必要なのは、この神の摂理に対する我々の信頼・信仰です。(ローマ11:36)

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神の栄光のストーリー
創世記42:1-38,43:1-15

ヤコブは、ベニヤミンだけは失いたくなかったから、息子たちにエジプトに食料を買いに行くよう命じながらも、愛妻ラケルの子ベニヤミンだけは連れて行くなと言います。が、一家の救いのためにこのベニヤミンを手放すことを決断した時、歴史が動いたのです。そしてその結果、彼はベニヤミンのみならず、もう死んだと思っていたヨセフまで取り返します。あなたが最も愛するものを神にお捧げするなら、神はそれに倍するものを持ってあなたを祝福してくださいます。 ジョン・ニュートンは、1747年の大回心のあとも奴隷船の船長を2年続け、退職後も同船舶会社の株の配当で10年間生活をします。それはなぜか。彼は長年、自分は奴隷を搾取する側だと思ってきましたが、実は自分が「奴隷」だったことに気づくのに12年かかったのです。船長職も株も手放すのは痛手、マイナスです。が、それを手放すことで本当の実りを手にするのです。あなたが大切にしているものは何でしょう。奴隷船、ベニヤミン号は何でしょう。 主イエスの取られたロスと、主イエスの受けられた苦痛(ピリピ2:6-8)を理解して、僕らは初めて自分のロスも苦痛も実は大したことはなかったと知ります。そして何かを成し遂げた後もその栄光を横取りすることはありません。すごいのは自分じゃなく神様だと知っているからです。それゆえにあなたの栄光はますます増し加わる、これが神の予定されているあなたの人生です。奴隷船を降りて早くこの神の大船に乗り換えたいものです。