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宣教の栄光
ヨハネ17:6-19

イエスの僕たちに対する期待は、宣教の特別な使命を担ってほしいというものです。宣教の使命とは何か。それは、「父の栄光を現す」「イエス・キリストの栄光を現す」「聖なる民となる」の3つの原則から成り立っています。では、「栄光を現す」とは具体的にどうすることを言っているのでしょうか。

栄光とは、物質、重量、存在を現す原語と実質的に同じことばです。歴史は水の流れで、小川に岩を置くと水はそれをよけて流れます。それは岩が水より栄光を持つからで、逆に葉っぱを置くと、すぐに流されて終わりです。流されずに永遠に残り続けるものが栄光あるものです。僕らは日々の生活の中で、永遠に残るもののために働いているでしょうか。父なる神に栄光を帰すとは、神はそのような方だと伝え、賛美することです。

聖霊の役割は、イエス・キリストを指し示すこと。実は、宣教の使命を担う僕たちは、この聖霊と同じ役割を期待されているのです。クリスチャンの皆さん、もっと口を開きましょう。そしてイエス・キリストのすばらしさを、僕らが受けた感動を、人々に流し出しましょう。「あの医者はすごいよ。なんかあったらあの医者に頼ったらいいよ」と本気で勧めましょう。

僕らが、個人ではなく集団として、横のきずなが強く、「何か違うものがある」と思われる集団となることをイエスは期待しておられます。これが宣教の基盤となる「聖さ」。ですから今後、男女の付き合い方、セクシュアリティ、家族の関係、仕事のとらえ方、お金の使い方、社会問題のとらえ方などの違いを示す、「聖なる民」としての宣教の基盤をTCCに形作りたいと思います。

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三位一体の神の栄光
ヨハネ17:1-6,20-26

三位一体の神の関係は、互いを褒め合う関係です。三つの位格は永遠の昔から、自分のためではなく他者のために生きて来ました。他者のために生きることこそ最高の幸せ。神はその最高の幸せをすでに持っておられたのです。僕らが造られたのは、神が持っておられるその幸せを分かち合うためで、決して僕らが神を崇めることで神が幸せを得るためではありませんでした。

神においても、他者を幸福にする時にはじめて幸せを得ることができる・・・。この事から、僕らがこの世で幸せを得るには、他者のために尽くす時に初めてそれが可能となると分かります。イエスは「自分を見つけるために自分を捨てよ」と言われましたが、実際自分を捧げるなら、その時僕らは初めてすべての存在のリズムに触れるのです。

僕らはこの宇宙ではよそ者で、何かから切り離されており、その何かを達成するために頑張ります。何かが欠けているが、それが何か今はわからない・・・。イエスの「彼らがわたしと共にいて、私の栄光を見るように」の祈りは、そんな僕らを物事の中心、愛の中心に招き入れる祈りです。物事の核心にようこそ。これがあなたの未来の姿であり、大祭司の祈りのエッセンスなのです。

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喜びと平安と勝利
ヨハネ16:23-33

イエスの墓が長い間存在しなかったのはご存知ですか?おそらくここだろうと言われ始めたのも死後百年してから。それほど、クリスチャンたちは墓に興味を持たなかったのです。なぜか。それは息子が生きていたからです。死んだ息子の遺品は宝ですが、生きている息子の古着は何の意味も持ちません。生きているイエスの墓は、クリスチャンにとって意味を持たないのです。

クリスチャンはイエスが神の子であることを知っており、その十字架の死と復活も知っています。が、それはサタンも同じです。唯一の違いは、サタンはそれに何の喜びも感じていないこと。クリスチャンとサタンの違いは喜びだけなのです。つまり、「私はクリスチャンです」と言うからには、僕らは、心の深いところに喜びを持っていて当然なのです。

ですから、このクリスチャンならではの喜びを感じつつ、イエスに従順に生きること、さらには、愛された者の様に生きることを目指しましょう。そして神があなたから何かを奪っているように思える時こそ、神の恵みは始まっています。すべてに満ち溢れた神は、あなたにゆすり入れようと、あなたが神に小さな信頼を示すのを、今か今かと待っておられるのです。

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すべてを圧倒する喜び
ヨハネ16:12-22

あなたは毎朝、いい寝覚めを迎えていますか?聖書は「夕暮れに涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」と約束していますが、そうとも限らないのが現実です。しかし喜びは神の属性、本質です。神と親しく過ごすなら、神のこのご性質は必ずあなたに伝搬するのです。

喜びと悲しみは重なります。母は生まれ出て来た我が子を見ると、その痛みを忘れます。痛みは消えて無くならないけど、喜びがそれを圧倒するのです。健康か、どんな表情か、誰に似ているかをつぶさに見、とにかく母の心はその子のとりこになります。

もしあなたに喜びが無いとしたら、それは良心に沿った生活ができていないためかもしれません。聖書は、信仰に基づくものでないなら、つまり良心の呵責を一切感じずにできることでないなら、それはあなたにとって罪だと言っています。良心に立ち続けることは、消極的ながら、喜びにとって大切な訓練です。

もう一つの、喜びのための積極的な訓練は、日々のデボーションで示されたことを黙想すること、喜び楽しむことです。個別のポイントでもいいし、キリストの真理、福音全体をレビューすることでもいいでしょう。その時、「その喜びをあなたから奪い去る者はいない」の約束があなたに実現するのです。

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どんな宗教でも救われますか?
ヨハネ14:1-6、使徒4:12

宗教心の篤い人は神に近づき天国に使づこうと、上へ上へと上って行きます。が、イエス・キリストは下って来られ、僕らに救いの道を示してくださいました。それが十字架です。

「死は一巻の終わり」というのが普通の考えです。でも、愛する人を失ったことで、その人がどんな思いで生き何を託して死んでいったのかを知り、そこに新しい「生」を発見して本当の自分の人生がスタートするということがあります。イエス・キリストの死が弟子たちにもたらした変化は、正にそれでした。

自分が愛されているという実感のない人、愛された経験のない人、自分を好きになれない人は人を愛することができません。「無い袖は振れん」という言葉通り、僕らは愛され、愛を頂いて初めて、人を愛することができる様になるのです。

人生は山あり、谷あり、谷底あり。でも僕らの人生には、歴史の支配者である神の圧倒的な勝利が鳴り響いている。それは僕らが、全能の神、イエス・キリストに愛されているからです。その愛の象徴が十字架なのです。

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誤りを正していただく喜び
ヨハネ16:1-15

イエスから十字架の死の予告を聞いて、弟子たちは落ち込みました。が、そんな弟子たちに、わたしが居なくなることはあなた方にとっては益だと言われる。それは、御霊が時と空間を超えて働く益、あなたがたの誤りを正す益、そしてあなたの人生をgive upしない人生にしてくれる益だとイエスは言われるのです。

もし今もイエスが生きてエルサレムに居られたら、僕らはイエスに会えなかったでしょう。エルサレムは常に大混雑し、たまに海外旅行されても、そう簡単には近寄れなかったでしょう。そうなる前にイエスは姿を消し、代わりに助け主なる聖霊を送られました。そしてその聖霊は「私はすでに世に勝った」というイエスの言葉を思い起こさせてくれるのです。

罪とは何か。それはイエスを信じないことです。つまりこの世は、神がご自分のひとり子を給うほどに愛しておられるのに、それを信じないこと。でももし神を信じないなら、あなたはもっと恐ろしいものに支配されえるよとイエスは言われます。それはこの世が神に敵対する力に覆われているからです。

イエスは父のものを全部持っておられます。そしてその全てを伝えるのが御霊です。これぞ三位一体の神のお働きであって、神の子イエスと真理の御霊がここで一つになってあなたに働くのです。だから僕らはgive upとは無縁だし「こんなはずではなかった」とほぞ噛むような人生の終わり方をすることは決してないのです。

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真理に生きる
ヨハネ15:18-27

僕らが信仰ゆえに裁判の被告の席に立たされるという事は、今の日本にはそうないことですが、真理以外のもののために僕らのことをジャッジしようとする力は存在します。でもそんな場面で、呼べばすぐに来てくださるのが、真理の御霊という弁護人。そしてこの雄弁な弁護人が言葉に窮することはないのです。

証しは小さな殉教です。主イエスはそれをご存じで、僕らが大切な人に福音を語ることや教会にお誘いすることを心から喜んで下さっています。それを知った時、僕らはたとえ、その人が乗って来てくださろうがそうでなかろうが、神からの喜びを感じる。それが真理に生きる味わいなのではないでしょうか。

真理はあなた方を自由にし(ヨハネ8:32)、あなた方に生きる意味を与えます。神のいのち、力、性質があなたの中に入り、そのように生かされる、それがクリスチャンの定義です。この「本領」つまり「イエスの栄光」を存分に表す機会を、神はあなたの人生に備えておられ、このイエスとの切っても切れない関係に生きるのがクリスチャン。そしてその時あなたは、罪を犯さない力を御霊から頂くことができるのです。

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憎まないという選択
ヨハネ15:18-25

ダビデは「ゆえもなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多い」と詩篇に歌っています。神に従う者は理由もなく憎まれる。それは、「人間には生まれながらにして神と人を憎む癖がついている」ことが理由だと、ハイデルベルグ信仰問答集は説明しています。そして僕らは憎まれる時、その相手に対する憎しみが沸き起こるし、同時に神に対しても憎しみを持ちます。どうしてこんな目に遭わせるのですかという思いです。

我々が憎しみに対して憎しみで応じるなら、その時、家庭に、教会に、「世」が入り込んでくるのです。憎しみで応じる限り、そこには何の解決も生まれないけど、愛とあわれみで応じるなら、たとえDVを働く親とでも心が通じ合うのです。でもその愛とあわれみは、僕らからは出てきません。十字架にかかって下さった神の子イエスに倣うとき、初めて僕らは、愛とあわれみを持つことができるのです。

そして主は、どれほど僕らが悲しい思いの中に在っても、あなたは一人じゃないと言ってくださるのです。叩かれた時は、わたしが叩かれたことを思い出せと。あなたが憎まれた時はわたしもその憎しみに身をさらしたし、辱めを受けた時はわたしがその頂点である十字架に死んだことを思い出してほしいと主は言われます。わたしの完璧な愛を思い出してと。「しもべは主人にまさらず」とは、すでに勝利してくださった愛の中に僕らは立たせて頂いているという事です。

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行って実を結べ
ヨハネ15:7-17

「王の友」とは、王と、家族や家臣以上の関係を持つ特権階級の呼び名で、彼らはどかどかといつ王の寝室に入って来てもよい人たちでした。当時のこの「友」の意味するところを知った時、「私はあなたを友と呼ぶ」と言われたイエスの言葉の重みが初めて理解でき、「だからわたしはあなたのために死ぬのだ」と言われたイエスの愛と覚悟が伝わって来ます。この信じられないような宝物を伝えるのが伝道です。 でも伝道は難しく、かつ失敗したら大切な友人を失ってしまうかもしれないリスクをはらみます。じゃあどうすればいいのか。その答えとして、イエスは、「僕らが愛し合うなら、それを見て僕らがイエスの弟子であることを世が認める」と言われました。世の愛が冷えている今だからこそ、僕らが互いを愛する熱気を持つなら、そこには上昇気流が生じ、祝福の対流が起こります。そしてそれこそが最大の伝道ツールなのです。 あなたの仕事に喜びはあるでしょうか。それは独りよがりの自己実現的な喜び、あるいは神と人に仕えるところから来る喜びのいずれでしょう。イエスキリストは、三位一体の中で、自由と、愛と、満たしを互いに与え合う関係を喜びつつ、永遠を生きて来られました。だからこの世においても、それと同じ関係を僕らとの間に造られたし、また僕らにも同じことを望まれるのです。そして僕らの真の永続的な喜びもそこにあるのです。

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まことのぶどうの木と枝
ヨハネ15:1-6

神は僕らに与えたくて与えたくて仕方がなくておられます。いや実はすでに与えられていて、だから、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:8)と僕らに語るのです。でも、僕らはなぜか求めない。つまり、目の前に、神の用意された魚いっぱいのいけすがあるにも関わらず、そこには糸を垂らさないで、わざわざどこかの水たまりや、プールや風呂桶まで出かけて行って糸を垂らすのです。だから釣れないんです。 「イエスを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われると、僕らはつい反発します。ところが、「喜んでいる者たちとともに喜び、悲しんでいる者たちとともに悲しむ」という基本的な愛すら示しえないのが僕らなのです。なぜならチームの勝利より、自分の評価の方が僕らにとってはよっぽど大事であって、チームメートが活躍した時にその本人と同じだけ喜ぶという愛を、僕らは持ち合わせていないのです。 聖書には、「神は僕たちがもっと多く実を結ぶために刈込をなさる」ともあります(ヨハネ15:2)。神の「刈り込み」は痛く、時には血が出ます。が、パウロが3度主に願いながらも、「サタンの使い」が彼を去らなかったのは正に「刈り込み」であり、それを通して本来の頑張り屋ゆえの自力本願、ペラギウス主義から彼は解放されました。神の恵みに生きる本物の使徒パウロはここから始まったのです。僕らも、神の「刈り込み」にある御心に気づいて、それを重んじたいものです。