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礼拝メッセージ

恐れるな、あなたの王が来られる
(関野祐二師)
ヨハネ12:12-19

イエスの王の立場を、ピラトは理解できませんでした。血を流す王?どうして?訳が分からなかったのです。軍馬にまたがる宮のきよめのリーダー、ユダ・マカバイオスのような王をみんな望んでいたのに、実際現れたイエスはロバに乗っていたからです。パリサイ人は言うに及ばず、それを見る弟子たちも、そこにいたラザロの復活の証人達も、その噂を聞いた人たちにも分かりませんでした。 しかし「人の子が栄光を受ける時が来た」(ヨハネ12:23)との、以前イエスの語られた言葉を思い出した時、分かったのです。それはローマへの勝利ではなかったことを。「ホサナ(万歳)、恐れるな」とは、死と罪に対する勝利、復活の勝利を歌っていたのです。 今年の受難週、この王を迎えるにあたってあなたは何を残しますか。へりくだりですか。忠誠ですか。それとも愛ですか。黙示録7章では、人々は完成された御国でイエスを迎えるとあります。そこでは何の隔たりもない、バリアフリーの礼拝が展開されています。先に礼拝する我々が、あとから来る人たちに祝福を残す、そのような受難週でありたいと思います。

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イエスの与える平安
ヨハネ14:21-31

あなたのカレンダーは日曜スタートですか、それとも月曜スタートですか。クリスチャンは日曜スタートのものを用いる人が多いですが、それには理由があります。僕たち、戦う者たちには常におびえがあります。新しい週、職場の仲間の所に戻って行く、家庭に戻って行く、学校で新しい生活を始めるのに、勇気が出ない、言われた通りに愛せない。この不安に打ち勝つ平安は世の与えるものでなく、この敗北の連鎖を断ち切るのが日曜の礼拝なのです。 「平安があなたがたにあるように」この、復活の日にイエスの語られた言葉には、死を突き抜けたところから来る平安があります。これは、死に打ち勝ったイエスだけが口にできる言葉です。この平和の宣言を聞かなければ、僕たちは本当の意味で生きて行くことができないのです。だから僕らは日曜を重んじるし、この日曜が必要なのです。 もう一度思い出しましょう。イエスは、世の支配者サタンも、一切危害を加えることができなかったお方だということを。そして僕らも、まるでそのイエスと同じくサタンの支配などありえない者であるかのようにイエスの陰に立つことができる、そしてイエスの業にいそしむことができる。そのことが許されているとはなんという恵みでしょう。

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もっと大きな業に向けての主の備え
ヨハネ14:15-21

イエスは、僕らはさらに大いなる業を為すと予告されました。それもご自分が世を離れることでそれが可能となると。その意味するところは、代わりに送られてくるもう一つの助け主である聖霊が、その時働き始めるということです。聖霊としてイエスが共におられるこの時代、僕たちは2000年前の弟子たちよりよっぽど確かにイエスに寄り添ってもらえるのです。 聖霊の原語はパラクレートス。これは「傍に呼び出される者」という受け身の名で、ここで呼び出されるのは、イエスであり聖霊です。なぜなら天の法廷で被告席に立つ僕らが能動的に助けを求めることはできないからです。しかし弁護人兼友人であるイエスの方からそばに来て下さり、僕らの無罪を堂々と立証してくれる・・・。何と心強いことでしょう。 さらにイエスという主人の名によって祈ることが僕らには許されています。主人の名義で仕事をするには、まず信頼されることが大事。その上で主人のみこころと性格を知り、その思いからはずれないよう最大限の注意を払うのです。元々主人の名を預けてもらえるのは、期待があるということ。ですから御心を徹底して求め、初めて僕らは主人の名代として世に遣わされていくことができるのです。

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あなたもまた、神を知る
ヨハネ14:1-14

英語でグッバイは、神があなたとともにいてくださるようにという意味です。それはあなたの中に神が住んでいるのだから、安心して行きなさいという祝福の言葉です。イエスは「心を騒がせるな」と言われました。僕らは心を騒がせることの多い世界に生きていますが、イエスがこの命令を出しておられるのだから、たとえ自分では不安を取り除けない状態にあっても、イエスはそれを取り除いてくださる。だからクリスチャンは大胆になれるのです。 イエスは良い牧者であり、私達はその羊です。また「わたしの羊はわたしの声を知っている」と言われました。だから僕たちは、「わたしが道だ」のイエスの声を聞き分けることができるのです。でも世にはもう一つの「我こそ道なり」の声があり、それは悪魔の発する声です。この声は大きいし、これに立ち向かうのに通り一遍の神学や小手先の業は通用しません。 僕らは毎週講壇から語られる主の御声を聞いており、そのことによって、僕らの霊の耳が鍛えられ、世にある2つの声の内のどちらが主の声で、またどちらがそのまねをしているだけの、実際は虚飾であり永遠の滅びに向かう声であるかを聞き分けることができる様になるのです。問題のない職場はありません。事の大小にかかわらず、イエスご自身の「わたしが道である」のことばをしっかりこころに留めたいと思います。

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あなたも神への道を知る
ヨハネ14:1-14

イエスは「父の家には住む所がたくさんある。しかしまだ用意ができていない。それが用意できたらあなたがたを呼びに来る」と言われました。あるのに用意がされていないとはどういうことなのでしょう。これは父の身元に至るには、イエスの十字架の死と復活という行き来が必要だということです。イエスという「道」が用意されていないと、僕たちだけではそこにたどり着けないのです。 「主よ、どこにおいでになるんですか?」とペテロは叫びました。が、それをもう問わなくていい時が来たのです。それはよみがえりのイエスが三たびペテロに「わたしを愛するか」と問い、「わたしの羊と飼いなさい」と言われた時でした。自分の十字架を示され、弟子としてそれを負うと決めた時、それまで経験したことのない安息と、今まさに神の役に立っているという確かな喜びを知るのです。 イエスは「わたしを信じるなら、さらに大きなわざを行う」とも言われました。それは自分たちの罪が、祈りを通して癒され赦され続ける時、その傷口を通してキリストの愛が流れ出て人を癒し続けるということ。あんな事さえなければと思うような傷が、僕らの人生の中で神の奇跡を起こしていくのです。そのために必要なのは祈りです。祈りがなければ何も起こらないし、祈りのあるところには僕らの想像を超えたミステリーが用意されているのです。

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みじめさから始まる信仰
(山形宣洋神学生)
ローマ7:24-8:4

「わたしは本当にみじめな人間です」から始まるパウロの葛藤。なんと我々に共通した思いでしょう。しかしこれに対し、「しかしイエスと歩む者が罪に定められることは決してありません」と、パウロは自分自身と我々に向かって大胆に宣言して、この葛藤のことば締めています。我々は、日々この声を聞く者でありたいと思います。

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天地を創造された神が私にどのように働かれたか ~神田英輔物語~
(神田英輔先生)
ヨハネ15:16

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キリストの遠さと近さ
ヨハネ13:33,36-38

ペテロが発した「主よ、どこへおいでになるのですか」の問いは、全人類が発し続けている問いです。「神よ、あなたは私の人生で、この世界で、歴史の中で、何をなそうとしておられるのですか」と。ペテロはイエスの語った「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができない」という言葉にショックを受けますが、それは、十字架は神のみが歩める道、人間の歩める道ではないという意味でした。そしてその言葉通り、ペテロは3度イエスを否みます。しかし復活のイエスに赦されたペテロは、再び「私に従いなさい」と語られ、小説「クオバディス」によると、その命令通り殉教の死を遂げます。これが、イエスが語られた「今はついて来れないが、後にはついて来る」の意味するところでした。 ペテロも僕たちも、「あなたは何のために死ぬのか」が問われています。僕たちは、この問いを深く掘り下げない限り、いたずらに生に固執し、うろたえ続けて死を迎えることになります。それに対しイエスの開いてくださった門が、「いのちを得たい者は、十字架を負って私について来なさい」というチャレンジでした。十字架を負うとは、死に至るまでイエスの後を追い続けること。イエスはその道を開いてくださり、それほどに僕らに近づいてくださった。遠いと思っていた神が、今はイエスによって近くに来られたのです。だから「どこに行くのですか」はもう問う必要がなくなりました。ここでイエスが問われるのは、「あなたはわたしを愛するか」という問いだけです。さてあなたはこの問いにどう答えるでしょうか。イエスを愛する死であり、また生でありたいと思います。

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イエスの戒めは新しい
ヨハネ13:31-35

世の中に不条理があると言っても、神の子であるイエスキリストが人間によって殺され、のろいの木にかけられるほどの不条理はないわけです。が、そのユダの裏切りと同じ舞台にあって、イエスは、「これぞ栄光」と言い、この不条理に勝つ愛、裏切りに勝つ愛を体現しつつ、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と命じます。そして、「あなたがたは、この新しい愛の中ですでに生きているし、これからもそうあり続けることができる」とイエスは言われるのです。 なぜその愛の戒めが新しいのか。それは、イエスのもたらされたものが世のものとは違うからでした。イエスは「あなたがたは私がいるところに来ることができない」(ヨハネ7:33)と言いましたが、それは、歴史の外から来られた方が、歴史の外に帰って行かれたということ。この時歴史は、永遠に向かって窓を開いたのです。その方のもたらした永遠のいのち(ゾーエー)これが1つ目の新しさです。そして2つ目は、聖霊降臨によって与えられたイエスの御霊が、僕らとともにいてくださることの新しさです。 この新しさの中にあって初めて、「イエスが愛されたように、私たちも愛する」すなわち、イエスの愛を実生活で実践することが可能になるのです。それは、夫が妻を愛する時、主がこの妻を愛してくださっていることを信じ、この主の妻への愛が、自分の妻への愛に映し出されるように愛すること。これは自分を愛して下さっている、その主の愛で妻を愛するというのと、大きく変わりません。とにかく根っこはイエスの愛。この「イエスが愛したように」から始まる時、この「愛の戒め」が全く新しい戒めとなるのです。

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闇に勝つために
ヨハネ13:21-30、ルカ10:30-37

リーダーは孤独だという言葉があります。リーダーになって「答えを出さないとだめ」となると、とたんに力が入ります。こだわりも出て来るし、ついそれを愛より優先してしまいます。僕らはどこか、トップよりナンバー2の方が楽だという思いがありますが、それは、ナンバー2は最終的な責任を負わなくていいからです。 でもクリスチャンは全員ナンバー2。最後の面倒を見てくれるイエスという後ろ盾があるからです。この安心に生きる時、たとえ肩書はナンバー1であっても、心はナンバー2のゆとりでやっていけます。そして、結果が出れば主に感謝し、出なくても、それも主の御手の中にあると思えるのです。 なぜならイエスキリストのパフォーマンスゆえに、神はあなたを愛し、あなたに最高得点をつけてくださっているから。だから、どこにあってもこの福音に生きる限り、あなたは自分の良いパフォーマンスで誰かに愛されようとか、いい点を付けてもらおうとする必要はないのです。 この確信に生きるために必要なことはただ一つ。それは、神とともに職場に行くことです。そこでも神を神とする。サタンはセカンドベストをあたかも神のように見せかけてきますから、そのすり替えに注意しつつ、ぜひとも新しい週、神の平安とそれゆえに表される最高のパフォーマンスをエンジョイしましょう。