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いのちと愛の手本
ヨハネ13:12-20、ゼカリヤ14:4-9

人に裏切られることは人生最大の苦しみ、悲しみです。旧約聖書のヨセフは、兄たちに裏切られ、献酌官長にも忘れ去られてしまいました。が、そんなヨセフを支えたのが、「主がヨセフとともにおられた(ので)」という事実でした。要は、人に期待するな。人を恐れるな。主のみを恐れ、主のみに期待せよと。壮絶な裏切りが待つことを知りつつ、3年の月日を共にすごし、足まで洗い、十字架の前日まで12人を「わたしの者」と呼び続けたイエス。この方こそわが救い主として最適なお方です。そしてこのイエスの愛と忍耐は、世の人間関係に傷つく僕らにとっての最大の癒しなのです。 洗足には、2つの意味がありました。ひとつは家族間の愛、そしてもうひとつは奴隷としての謙遜の極みに神の子が立たれたということ。12人の足を洗い終えたイエスは、「わたしのしたことは今に分かる」と言われました。その時は何も理解できなかった心の固い弟子達でしたが、師として、弟子たちに向けて全存在をかけて残された究極のメッセージが、この愛と謙遜でした。そして僕たちはイエスに洗ってもらったからこそ、今こうして教会の群れに属しているのです。 足を洗っていただいた僕らは、今度は家族のところに遣わされます。モーセがエジプトに遣わされたように。そしてこれまでいろんなことがあった、その年寄りの面倒を見る。年寄りの傍らに座る時、僕らはそこでイエスの弟子です。イエスが今、この父に、この年老いた母に、何を為さるのか、それを僕らが示すのです。年寄りの手をさすり、やさしく語り掛け、傾聴する、そんな小さなしぐさにイエスのしぐさが現れるのです。イエスが全存在をかけて示されたことを僕らがこの世に現わしていく、そこに弟子としての生きざまがあります。

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イエス、弟子たちの足を洗う
ヨハネ13:1-17

互いに愛し合うというのは、一方的に愛することより難しいことです。しかし愛とへりくだりの快い感銘を僕らが受け続ける時、今度は僕らの方からほかの人たちに対する「善」が湧き出る・・・これこそがキリスト者の偉大さ、教会の偉大さなのです。相手だけ見ているとそんなことはできないと思うかもしれません。でも相手を見るのではなく、その先におられるイエスを見るのです。「私の洗いなしには、私とあなたは何の関係もない」とイエスが言われた理由はここにあります。 大切なのは、イエスが何を為さったか。それは主の洗いがあったということ。それゆえに僕らは主の前に立ちおおせるのです。まず僕らが洗っていただいた。だから僕らも人の足を洗うんです。神の子イエスがここまで降りてきてくださった。だから僕らは降りていくんです。「互いに愛せよ」の意味するところは、なんと高く、深く、広く、長いことでしょう。 この弟子たちの中に、ペテロがおり、ユダがいる。そしてこの弟子たちをイエスは愛して愛して愛し抜かれたとある、この言葉に偽りはありません。つまりユダもイエスの愛から堕ちていないということ。どんな罪深い者であっても、今なお背いているものであっても、「自分の者」と呼んで下さるイエスの愛に変わりはなかった。その意味で、僕ら自身もイエスに愛し抜かれています。We are still in time. 悔い改めるに遅すぎることはありません。イエスから頂いた愛と信仰をもとに、互いに愛し合う者へと遣わされて行きましょう。

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闇でなく光に生きるために
ヨハネ12:44-50

「わたしは光の子だ」と言い切れる者は居ませんが、一方で「あなたは闇の子ですか?」と聞かれて、そうですと認める人も居ないでしょう。つまり、全ての人は光と闇の間を歩いており、どっちつかずの生き方をしているということです。でもイエスは、闇の中にとどまるな。そのための光としてわたしは世に来たのだと言われます(12:46)。 なぜ闇にとどまってはいけないのか。それはイエスを拒む人は自分をさばくものをひきずって歩いており、最後にそれがその人をさばくことになるからと(12:48)。だからそれを断ち切れとイエスは言われるのです。そのために必要なことは、ただイエスを見ること。見て信じること。そのことによって、僕らは闇を断ち切ることができるのです。 イエスの時代、イエスを見ながらその本質を見ずに終わった人がどれだけいたでしょう。でもイエスは誰もさばきません。救うために来られた方だからです。この主を信じること、それが「イエスを見る」ということです。と同時に、それはイエスを遣わされた方を見ることでもあります(12:44-45)。このまばゆい光をあなたは見ているでしょうか。

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光の中を歩もう
ヨハネ12:27-43

僕らは何を愛して生きているのでしょう。結局は「人からの誉れ」かもしれません。それは魅力的です。人に褒められて気分の悪い人はいないからです。だから、人の評価を気にしない、人を恐れない生き方というのは、言うは易く、そう簡単にできるものではありません。本当に人の評価を気にしない唯一の手段は、神を愛し、「神からの誉れ」を愛することです。 僕らクリスチャン・ビジネスパーソンにとって、仕事を通して神の栄光を証しすることは大切です。特にうまくいかない時こそ、その人の本質は出て来るものです。こんな最悪の状況にあってもあの人は崩れない。部下に当たるわけでもなく、いつも通り粛々と、淡々と、為すべきことをやっている。これはあの人のかつて言っていた信仰の故ではないかと周りが思う、それがキリストの香りなんじゃないでしょうか。 教会ではクリスチャンらしく、そして社会では社会の価値基準にどっぷり。そんなダブルスタンダートの教会生活は疲れます。どちらも持ち出しだからです。頑張って教会に来てもそこからエネルギーをもらえないのです。が、昨今の若者は、自分の人生で何が大切かを見極め、それを共有できる人間関係を持つことを最高の生き方と考える、そんな時代になったと言われます。日本独特の「本音と建て前」はもうはやらないんです。 僕らはイエスの復活を知る者です。「いつも喜んでいなさい」は、それ故にできることです。「わたしはすでに勝利した」と主は言われましたが、僕らはその勝利を知る者たちです。僕たちクリスチャンは、本音と建て前の2本立てでなく、神からの栄誉の一本勝負の人生をこの2000年貫いて来た特殊な種族です。主はよみがえられた、主は勝ったと、このことを証しするために僕らは社会に遣わされているのです。

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主の光に引き上げられて
ヨハネ12:27-36

私たちは人生において、自分自身に幻滅することがどれほど多いかと思います。それは、世的な基準で評価した結果が悪かったり、他の人と比べて見劣りしたり、理想としていた基準に達せずそのギャップに苦しんでという場合がほとんどです。でも、神の目から見てどうなのでしょう。神は預けたタラントを以て実を結ぶことだけを私たちに求めておられます。 イエスは、ご自身が十字架から上げられる時、私たちを引き上げると約束しておられます。鉄くずのような私たちをもあきらめない、イエスの愛のmarvelous magnetに感謝したいと思います。私たちがこの恵みに与る方法は、唯一の救い主であるイエスを信じ、悔い改めの実を結び、光の子として歩むこと。その時私たちも「今日あなたはわたしとともにパラダイスにいる」と言っていただけるのです。 レンブラントの「三本の十字架」という版画があります。本来十字架の周りは真っ暗のはずですが、彼の絵には光があふれているのです。それは天からの光で、十字架のイエスご自身と、イエスを主と告白した泥棒と、百人隊長に注がれています。そしてこの光は闇ゆえに光り輝くのです。私たちの人生も闇が深いかもしれません。が、深ければ深いほど、イエスの復活の光はとんでもなくまばゆく、私たちの人生を照らしてくれるのです。

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一粒の麦の恵み
ヨハネ12:20-26

昨年の東京オリンピックでは多くのゴールドメダリストの勇姿が報じられ、まさに栄光のラッシュでした。本領を発揮し人生の頂点に立った人たちの笑顔は、今も目に焼き付いています。イエスもここで「人の子が栄光を受ける時が来た」を言われましたが、それは一粒の麦として死ぬことを指していました。これがイエスの本領発揮の時であり、ゴルゴダの丘がその「ひのき舞台」だったのです。 洗礼を受けても信仰から離れてしまう人がいますが、それは、その人の中で、このイエスの死が意味ないものとなった時に起こる現象です。それは、イエスという一粒の麦を踏みにじる時であり、それによって生まれた自分という一粒をも踏みにじる時です。イエスのいのち以上に自分の命を愛する時であり、そこからその人の人生の孤独が始まるのです。 僕たちが人を愛する、その愛は教会にあります。キリストがからだなる教会を愛されたからです。そしてそのキリストに仕える気持ちが、夫を愛し、妻を愛し、人に仕える気持ちを生み出してくれるのです。その時あなたは一人じゃない。なぜならキリストがあなたとともにいてくださるからです。 キリストは2000年後の僕らの生活の中で結ばれていく一粒一粒を見ながら、「一粒の麦は落ちて死なずば一粒のまま。しかし死ぬなら多くの実を結ぶ」と語られました。「これぞわが栄光!」と。このキリストの栄光を、僕らも自分の生活の中で味わわせて頂きましょう。そしてこの栄光をキリストと共有する限り、僕らが信仰から離れることは決してないのです。

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しゅろの聖日・まことの主イエス
ヨハネ12:12-19

しゅろの主日は、イエスキリストがエルサレムにロバに乗って入城された日曜日のことです。群衆は「ホサナ!今お救い下さい」と歓呼の声をあげました。が、その5日後には、この同じイエスを十字架にかけて殺すのです。これらすべてをご存じの上で、あえて群衆の歓呼に応えられたイエスは、この時どのようなお気持ちだったのでしょう。 ただ一つはっきりしているのは、イエスは、群衆ではなく父なる神を見ていたということ。それゆえに、心を一切さわがせることなく、このエルサレム入城と、それに続く十字架と復活にイエスは堂々と向かわれたのでした。僕らも日ごろ誰を見ているのかが問われます。人の評価に右往左往することなく、神のみこころに標準を充てた生活を送りたいものです。 イエスの、王としてのエルサレム入城は、長く旧約に語られてきた預言の成就でした。このように聖書の預言はことごとく成就します。イエスがもう一度来られる「再臨」もしかり。僕らは日ごろから、このイエスの再臨に標準を充てた生活をしているでしょうか。バタバタする必要はありませんが、首都直下型地震に備えて水の買い置きをするがごとく、再臨に備えた日常を送りたいものです。 エルサレム入城の日曜には大歓声でイエスを迎え、金曜には十字架に捨て、再び日曜の復活を通して悔い改めに導かれる。口先でイエスを大歓声で迎えた群衆は、私たちです。しかしこの群衆の歓呼をあえてお受けになる、ここにイエスの、我々への、いつかは帰って来るという信頼があるのです。やがて天の御国で、「イエスこそわが王」と、心から声をあげる者へと、我々は招かれているのです。

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ナルドの香油の放つ香り
ヨハネ12:1-11

あなたには未来に対する計画がありますか?友達はいますか?デボーションが義務になっていませんか?この3つにネガティブだと、ユダの罪に走る可能性があるし、最後は燃え尽きる可能性すらあると、「牧師のレジリエンス」という本を書いたジョン・ヒューレットは言います。ショックな言葉ですが、これは今の僕たちの働きが、Beingを忘れてDoingに走っていないかを問う質問でもあります。 マリアが香油を注いだあの現場に居たとしたら、あなたはどちら側でしょうか。イエスに最上のものを差し上げるとなったら一滴残らず全部振りまいてしまうマリアか、それとも「それは高く売れたのに」と批判するユダか。マリアはイエスの最高の賛辞を得、ユダはイエスから悪魔呼ばわりされます。が、これはユダだけではなく、ペテロも「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱責されました。 結局僕らは、何をするとしても、イエスの十字架に対する感謝の応答からするのでなければ意味がないということです。それもなく、とにかく見えるところで勝負するというのが、ユダの罪の始まりなのです。マリアは、イエスの十字架の死を、何より価値ある宝物ととらえました。僕たちも、自らを推薦する者ではなく、イエスの十字架を推薦する者でありたいですし、愛されているという喜びと感謝を出発点に、自らの賜物をささげる者でありたいと思います。

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人生の分水嶺
ヨハネ11:45-57

僕たちは、奇跡を見たら信じるのではないかとつい思います。でも聖書は、奇跡を見ても信じなかった人がたくさんいたことを伝えています。僕たちの信仰は、奇跡を見るか、人生がうまくいっているかには関係なく、みことばに応答することによってのみ生まれるものなのです。 そしてみことばによって与えられた信仰は、人生の中で「生きて働く主」を体験するとき、飛躍的に成長します。ああイエスは見ておられる。それも自分の非を責めるためではなく、自分が大きくそれないように守って下さっていると感じる時にです。そしてそれを伝えるには、牧師自身が生きて働く主を信じ、経験しているかが問われます。 まず牧師がそれに「アーメン、信じます」と応える。そして、その説教を聞き、死ななければならない存在である僕らと、神の子イエスが死んだという事実が切り結ぶとき、つまりキリストの死としっかり向き合うときに、僕らは初めて、「死からいのちへ」という峠に立つのです。

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ラザロよ、出て来なさい
ヨハネ11:38-46

日本人も、ギリシア人も、世界のもとの状態は死んだもので、そこには命はなく、無だったと考えます。命はその上に一瞬咲いたあだ花みたいなもの、だから最後は死に帰ると考えるのです。でも聖書はまったく逆のことを言います。初めにあるのはいのちであって、光だと。だから僕らは、本来的な立場に戻るなら、いのちと光に戻るのです。 イエスは「栄光の栄光」「光の光」です。それほどに光なるお方が、今墓に訪れる。それが「ラザロよ、出て来い」の叫びでした。あなたは今、墓場としか思えないようなところに居ませんか。ラザロよ出て来い。そこはあなたのいる場所じゃない。世界は元々いのちと光に満ちている。初めにあったのがいのちなら、終りに登場する栄光もやはりいのちなのだと主は言われます。 病を持つ方のために祈る機会があるなら、癒しと同時に、その方が永遠のいのちを頂くために全身全霊で祈りましょう。今いのちの主が、あなたに触れようとしていますよと。僕たちは、ラザロを墓から呼び出し、死んで死に打ち勝たれた勝利者なるイエスを知っているからです。そしてこの2000年前の事実を今の自分のところに引っ張ってくるのが信仰なのです。