悪魔は人殺しで嘘つきです。悪魔は蛇を使ってアダムとエバをだましましたが、このアダムの神への裏切りにより全人類が死んだ、このことが悪魔が本当の人殺しであることの証拠です。また、悪魔に壊された「悪魔の子」は、その存在そのものがすでに神に対する偽りなのです。 一方「神の子」、クリスチャンの特徴は、神のことばに聞き従うことと、愛をもっていること。愛する者は、言葉を聞く前から、相手の考えていることがわかるのです。愛情が分からせる力です。神の子には愛があるから、神のことばを聞き、理解し、従うのです。 信仰はシンプルです。今の時間をイエスの愛に安らぐなら、次にお会いするとき、つまり人生の終わりには、イエスはその人に100点満点を下さいます。これがまずクリスチャンのbeing。また、そのイエスとの再会まで、「どうせ同じ時間を過ごすなら、イエス喜ぶ使い方をしよう」と愛の赴くままにイエスの喜ぶことをするなら、それがクリスチャンのdoing。愛のある関係は、何をやれば喜ばれるかがわかるからそれができるのです。
タグ: ヨハネの福音書
神の子か、悪魔の子か
神は、全宇宙の所有者、兼支配者です。信じる私たちは、この神の子とされ、イエスと並ぶ共同相続人とされています。でもその前提が「苦難も共にする」ということ。十字架が無ければ冠もない。神の子とはそういうものなのです。あなたは、このイエスの言う「軽いくびき」を、ご自分の十字架を、そこから来る召しをもう発見されたでしょうか。 イエスに対する裏切りに落ち込み、「次は俺たちが殺される番かもしれない」と、部屋に鍵をかけておびえる弟子たちに、復活のイエスはまず「平安があるように」と言い、伝道に遣わされます。なぜ、ここで伝道なのか。それは新しいミッションを与えられることが、彼らにとっての最高のなぐさめであり、励ましであり、元気の素だったからです。 愛され、赦されている事実を彼らは確認し、「だれにも指一本触れさせない」とイエスが言われたその平安を手にして、彼らははじける思いでこの新しい任務に出て行きました。我々も、今聖霊を受け、世界大の神の御手にすっぽりはまって、神の召しへと、ターボエンジン搭載で、遣わされて行こうではありませんか。神から預かったものを、神のために使わせて頂こうじゃありませんか。
『聖霊がなければ「イエスは主」とは告白できない』(Ⅰコリント12:3)とありますが、この「告白」は、口と心が一致した発言を意味します。かつ当時はキリスト教迫害の嵐が吹き荒れ、ローマ人は「カイザルは主」を合言葉とし、それによって命を守る時代でした。私たちは迫害のない時代に生きています。が、お金や仕事が主となってはいないでしょうか。裏表のない「イエスは主」という言葉を告白し、そのことを、生き方を通して示していきたいと思います。 青虫が蝶になるためには、さなぎを通らなければなりません。さなぎは英語でchrysalis、この語源はChrist、キリストです。罪でがんじがらめになっていた自分を知り、でもそこでしかお会いできない方とお会いし、悔い改め、2次元の青虫状態から、大空を飛び回る蝶に作り変えて頂ける者は幸いです。そのスタートは、神を知り、自分を知ること。そしてこれを為してくださるのが真理の御霊なのです。 紙のグライダーを遠くまで飛ばそうと思ったら、先っちょに鉛製のおもりを付けます。あなたにも、人生を邪魔しているとしか思えない重荷があるかもしれません。その意味を、内なる聖霊に問うてみてください。そして信頼して委ねましょう。その重荷が、時を経て、グライダーのおもりとなって、あなたを遠くまで飛ばしてくれます。聖霊は、言葉にならないうめきをもって、今日もそのあなたの重荷についてとりなしてくれているからです(ローマ8:26)。
僕らの人生は、なんと望みのない、打ちひしがれることの多い人生かと思います。僕らは弱い存在です。なぜならもとは地の塵だったと聖書に書かれているからです。でも問題は、僕らがその「過去」に生きるのか、それともすでに復活したイエスが僕らの横に立たれ、語り掛けておられるこの「現在」と、さらには十字架によって完成された栄光の「未来」に生きるのかどうかということです。 エマオの途上でイエスと出会った時、弟子たちはうなだれていました。それは彼らが「よい預言者だった」「十字架に掛かった」「墓からもいなくなった」と、徹頭徹尾、た、た、た、の「過去」に生きていたからです。しかしイエスが共に歩き、聖書を解き明かすや、彼らの心は内に燃えたのです。そしてエルサレムに走りました。僕らも聖霊に燃やされて、Good Newsのために走る者になりたいと思います。 あなたは果物の王様ドリアンです。「パパイヤのほうが好き」と言う人もいるでしょう。でも、あなたはあなた。パパイヤにはなれません。こうなったら、人の評価なんて二の次です。み言葉と聖霊に励まされて、ドリアンの実を、思いっきり結んでやろうじゃありませんか。神の望みは、あなたがもっとあなたらしく生きること。神は「よくやった」と、あなたに伝えたくて仕方がないのです。
自分の会社には夢がない、将来がない、ここに居るのはみこころじゃないと思って、悩むクリスチャンビジネスパーソンは多いと思います。でも、知っておきたいのは、あなたをそこに遣わされたのは神だということです。神はあらゆる仕事を祝され、喜ばれ、その更なる祝福のためにあなたをそこに送られました。 すべての仕事には堕落と回復の2つの要素があります。イエスキリストは、全被造物の回復のためにこの世においでくださいました。そしてあなたを通して、そこからこの世界を創りかえようとしておられます。今あなたの職場で、あなたに期待されている回復の業は何でしょう。 神のドラマに期待して、ストーリーテラーである神に信頼して、回復の使者として、今日イエス歩みの超ミニチュア版を歩ませて頂こうではありませんか。サイズはミニでもベクトルは同じです。その時あなたは気づくでしょう、あなたが完全な自由を手にしていることを。 世には二種類の自由がありますが、それは離れる自由でなく、近づく自由。ただ罪を犯さない自由ではなく、「アバ父よ」と、大胆に神に近づく自由。このことのために自分は今動こうとしていると言える、積極的、具体的な自由。主に在る異次元の自由がここにあるのです。
- タグ ヨハネの福音書
イエスはご自分を「この世のものではない」と言われました。が、これは、我々クリスチャンのことでもあります。それは、クリスチャンは未来という隣の庭に植わりながら、枝は垣根を越えて現在という空間に伸びて来て、そこで愛と信仰を結ぶ人たちだということです。さらにコロサイ1:5「あなたがたのために天に蓄えられている望み」と複数形で言われるように、それは共同体で分かち合う恵みです。希望は僕たちを結び合わせ、互いの愛を増し加えます。世から呼び出された者たち「エクレシア」をひとつにするのが、この希望なのです。 僕らは人生で不幸な出来事が起こった時、「神様がおられるのにどうして?」と思います。が、その疑問には答えられません。イエスは盲目の男性の理由について弟子に聞かれましたが、それには答えず、「神の栄光が現れるため」とだけ答えました。義人ヨブも58回「なぜですか」と問いかけたけれど答えは与えられず仕舞い。聖書はこのように、過去でなく未来に目を向けることを促します。不幸は人と人をつなぎ、人と神をつなぐのです。ヨブが癒されたのは、理由を知ったからでなく、神を見たことによってでした。 ともにおられる神、インマヌエルの神こそが僕らの生きる道なのです。僕らは何かあると、「神様働いて!」と叫びます。が、神は直接働くことより、神によって変えられた人を使って歴史を変えることを喜ばれるようです。神はあなたとともに働きたいのです。雨は続きます。でも蛇の目傘でお迎えに来てくれたお母さんを幼子が喜ぶように、神の臨在を喜んで、雨の中を進んでいこうではありませんか。あなたは今日、どこに遣わされますか?神はそこで、あなたを通して世界を変えようとしておられます。
- タグ ヨハネの福音書
十字架のイエスとその両脇の二人の泥棒。実はこれが「最初の教会」という説があります。死に直面してイエスと結び付けられている罪びとの集団が「教会」だからです。泥棒の一人はイエスとの会話の中で自分の罪を悟り、またまことの神を知り、その神により頼みます。と、その瞬間、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスに居ます」と驚くべき確かさで、イエスはその罪びとの今後の歩みを約束される。これが私たちがイエスと為すべき会話なのです。 2つ目の教会は、弟子とマリアへの、十字架からの語り掛け「女の方、御覧なさい。あなたの息子です」から始まります。その「イエスの愛する弟子」はヨハネだろうとされていますが、実際にマリアのお世話をする弟子は、イエスに愛された経験を持つことだけで十分だったのです。イエスは12弟子の足を洗い、この足を洗い合うことを知る弟子たちに、ご自分の母マリアを託した、それが「教会」の始まりでした。 「わが神わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスは、サタンに包囲された状態でした。でもその後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈られた、これは、サタンの包囲網を突破されたということです。この祈りは元来ユダヤ人の子どもが眠りにつくときの祈りの言葉です。神に委ねるイエスの生き方と神に委ねるイエスの死に方は、共に私たちの理想、そしてそれこそが迫りくる死の包囲網を突破する力なのです。
「私は世の光です」と言われるキリストは、私たち罪びとを照らし、いのちを与える光源として来らました。そしてこの光源は、さらに無数の小さな光源を生み出しているのです。教会で、あの人が来ていると思うだけで、心の中にぽっと光がともるような人が居るんじゃないでしょうか。あるいは自分が暗い思いになった時、あの人のことを思うと、パッと明るい気持ちになれる・・・。実は彼らは次なる光源をどんどん生み出しているのです。「わたしに従うなら、決して闇の中を歩まない」とのイエスの宣言は、クリスチャンであるあなたは光の子であって、次なる光源を再生産中だというメッセージです。 またイエスは、天の父なる神こそがご自分の証人であるという確信に満ちて、この世での人としての人生を生き抜かれました。一方で私たち日本人は人の評価を大切にします。人の賞賛、誉め言葉は、成功の証しであって、私たちのプライドはかなりの部分がそれで満足されます。しかしボンヘッファーは、「十字架の姿は、成功というものを基準とする考え方を無価値にする」と言いました。神のみが自分の証人であって、それ以外は求めないところに、本当の自由があり、真の「神にある成功」を生み出す地盤があるのです。この主のパラダイムシフトは、私たちへのチャレンジです。 ところで礼拝の最後には「祝祷」というのがあり、その中で、「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」という言葉が語られることがあります。これは神が私たちを照らし出し、送り出すという、まさに輝きを持った祝福の祈りです。「私は世の光です」と言われる方の招きと、その真実の光の中に立つとき初めて、私たちは、何かを自分たちで頑張ってするというのではなく、自然体で光り輝く者となり、決して闇の中を歩まない「主の灯(ともしび)」としての人生を、体現し始めるのではないでしょうか。
- タグ ヨハネの福音書
姦淫の場で捕まえられた女がイエスの前に引き出された時、パリサイ人、律法学者たちは、「あなたが処罰の方法を決めなさい」と迫りましたが、イエスは彼らに背を向け、地面に何やら書いておられたと聖書に記されています。要は彼らを無視したということ。この後にも、イエスが何かを問われて「返事をされない」という場面は出てきますが、全て捕えられさばかれる場面です。 僕らは、祈っても神に答えられないと文句を言ったり、愛が足りないと神をさばいたりすることがあります。しかしさばく者に対して神は背を向けられるということ。また、人をさばくというのは自分へのさばきを招く行為だということを覚えておきたいと思います。 「さばく権利を持つのは罪のない者だけだ」と言うイエスのことばで、周囲にいた群衆は全員帰宅します。そして最後に「わたしもあなたをさばかない」と言って、イエスは女を解放しますが、その後、十字架にかかって、こともあろうか彼女の身代わりでもあるかの如く殺されます。それを知った女は、イエスの赦しと解放の意味を初めて理解し、その後教会に加わってこの物語を伝える者になったのではないでしょうか。 ここに私たちの物語があります。あの方が自分の罪の身代わりになって死んでくださった。私たちはここに何度も何度も戻って来る必要があります。そして、「もう罪を犯さないように」と言われた言葉に突き動かされて生きるのです。神や人をさばかず、神の喜びをわが喜びとする人生、そこにこそ解放された者としての本当の生き方があるんじゃないでしょうか。
- タグ ヨハネの福音書
ニコデモは、パリサイ人かつ評議員でしたから、グループ的にはイエスの敵、祭司長たちの仲間でした。が、そのニコデモが、「本人から直接話を聞かずに逮捕するのは、律法違反だ」と、律法を盾に彼らに反論したのです。ニコデモは以前イエスに会い、直接交わったことがあり、それ以来、彼の中に大きな変化が起こっていたのです。彼がモノ申したことで流れは変わり、祭司長たちの謀議は成立せず、解散となりました。当時のニコデモは成長期のクリスチャン、そしてその後彼は、イエスの埋葬を手伝うまでの信仰者に成長します。敵陣の中にも信仰の友あり。私たちは、遣わされた場所で伝道するとき、四面楚歌のような状況をしばしば経験をします。が、「この町に私の民はたくさんいるから」と主は言われます。そんな友は見つかりましたか?祈り合い支え合うことで、私たちは大きな力を得るのです。 使徒2章では、キリストの公開処刑のたった50日後に、3000人のキリスト者がひとところに集まり、仲間と交わり、祈り合っていたとあります。外は迫害の嵐です。でも、その時すでに、励まし合い強め合う共同体が存在したということです。そして、それこそが、その後の世界宣教の力となりました。ボンヘッファーは、「集まることと、一人で神と向き合うことの両方が、キリスト者の成長には不可欠だ」と言いました。TCCは都心に遣わされる皆さんを励ますコミュニティーでありたいと願っています。あなた自身から、また職場から、イエスのいのちの水の川が日本の津々浦々に流れていく。たとえ逆風が吹く中でも、そんな主のbig pictureに、共に歩ませて頂こうではありませんか。
- タグ ヨハネの福音書