カテゴリー
礼拝メッセージ

生ける水の源
ヨハネ7:37-39

イエスは仮庵の祭りで、「私に来なさい。私から飲みなさい。そうしたら、あなた自身が生ける川となって祝福を流し出すようになるから」と言われました。「イエスに行く」とはどういうことなんでしょう。教会に行くことでしょうか。違います。「イエスから飲む」とはどういうことでしょう。これも、聖餐式でぶどうジュースを飲むことではありません。 それは自分の頑張りや良い所に期待する思いを一切捨てて、一罪びととして御前に進み出て、自分の持っている重荷を、中でも罪の重荷を、イエスにあけ渡すことです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」の招きに応じることです。そして、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのです」の、イエスの宣言を聞くことです。このイエスの宣言は、おのれの罪に泣いた者だけが喜べる宣言なのです。 パウロは「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはおれないのです」と言いました。彼は頑張って、その働きをしたのではなく、ただうれしくて抑えることができなかったのです。そして喜んだ者だけが、パウロの様に癒され、満たされ、そうせずにはおれないほどに、良い働きをする力にみなぎるんですね。あなたはイエスに来ましたか。イエスを飲みましたか。イエスの水があなたから流れ出ていますか。

カテゴリー
礼拝メッセージ

もうすこしの間
ヨハネ7:25-36

僕たちは生活の中で、思い描いて来たことが進ます、どうしてこんなに赤信号が続くのかなと、ふと立ち止まって考え込むことがあります。しかし、クリスチャンが神のみこころにかなう生き方を思うなら、なおかつ自分の人生を通して神の栄光を現したいと願うなら、あなたの人生はすでに神の盤石の守りの中にあります。だから、赤信号には赤信号の意味があるのです。「神様それは何ですか?」と、そんなときは問うてみることをお奨めします。動機や思い違いが正されれるまで、それは続くかもしれません。が、とにかくそれは神に立ち返るチャンスです。「赤信号 祈りに導く 神の声」それまで見過ごしてきた神の恵みを振り返り、また、何も慌てることはないんだよ、そのままのあなたが愛されているんだよという、神の語り掛けをそこで聞くことでしょう。 さらにイエスは、「もう少しの間が残されている」と言われました。そして「まず神の国と神の義を求めなさい」とも。それは、花婿なるキリストが到着するまでは「もうすこしの間」しか残されておらず、この間に、全力でメシアを探し出せ、見つけ出せということです。それを今日するか、それとも明日するか。まずやるか、それとも後にまわすか。そこに大きな分かれ目があります。「明日」あるいは「後で」と言うのは、言い換えれば、福音の招きを抽象化して、あえて聞かないようにしている状態とも言えます。イエスは「今日」を求めておられます。「まず第一に」とは、今あなたに起っている事件の中に、福音を取り入れることです。赤信号の意味を真剣に問うことです。どうか僕たちが、「もうすこしの間」に、救い主を見つけ出すことができますように。

カテゴリー
礼拝メッセージ

正しく判断するために
ヨハネ7:14-24

私たちは、たとえルールにのっとったことで、人々が口をそろえて「良い」と言ってくれることであっても、間違ったことを習慣的にやってしまっていることがあります。それを振り返るポイントは、それが愛から出たことであるかどうか。もし愛でなく、欲や、プライドや、個人的なこだわりから出たものであるなら、一旦立ち止まって考えなおす必要があります。逆に愛から出たものなら、それがルールや決まり事との兼ね合いで難しいことがあっても、(特にこのコロナ禍の、既存の発想では対応しきれないことが山積している環境下)改めて何が正しいのか、どう進めたらいいのかを、もう一度祈り求めたいと思います。 さらに私たちは、日常生活において、人とぶつかることが多々あります。でもその時、自分は正しい、相手は間違っていると、すぐに断じてしまわず、期待して待つことが大切です。誰に期待するのか?それは相手にではなく、神にです。もちろん最終、相手の悔い改めを期待するのですが、その前に、そう導いてくださる神に期待するのです。これがクリスチャンならではの、ゆとりのjudgement。なぜなら、すべての主権者である神が、あらゆる対人関係をも支配して居おられるからです。そして「もう一年待ってください」と主人に懇願する園丁イエスの存在ゆえに、私たちは、早急なさばきが下されることなく今こうして在るを得ているのです。それを思うとき、私たちは人に対するさばきに、もっと寛容になれるのではないでしょうか。

カテゴリー
礼拝メッセージ

わたしの時はまだ来ていない
ヨハネ7:1-13

イエスキリストはご自分の「時」をしっかり持っておられました。それは「なすべきこと」がわかっていたこととも言えます。十字架にかかり、死んで三日目に復活し、天に昇ること、これがイエスの人生目的であり、33年のご生涯はここ一点に集中されていました。ユダヤ人は、すべてに「時」があると考えます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・」(伝道3:1-8)と。神がそれらすべてを決めておられ、その「時」にふさわしいことをしないなら、生き生きとは生きられないと考えるのです。さて私たちは、自分の「時」を得て人生を生きているでしょうか。「私の時はまだ来ていない」「私の時は今だ」というメリハリをもって生きたいものです。それは主からのビジョンを頂くときに可能となります。 ところで、イエスの弟たちは、イエスのことを信じていませんでした。マリアをはじめ兄弟たちが、狂ったのではないかと心配してイエスを呼びに来たこともありました。このことは、家族伝道の難しさを伝えています。かつ、それがうまくいかないときの私たちの慰めでもあります。イエスは性質にも、言葉にも、行いにも欠けたところは一切ありませんでしたが、そのイエスにしてこのありさまだったからです。しかしイエスの十字架と復活と昇天後、ヤコブをはじめとするイエスの家族は、初代教会の柱としての、重要な働き手となりました。「時」は不可能を可能にします。それは主のみ業であり、栄光は主のもの。私たちはその「時」を待ち望みつつ、家族伝道にもいそしみたいと思います。そして自らの「時」を知り、主の栄光のために働きたいと思います。

カテゴリー
礼拝メッセージ

選ばれた12分の11になるために
ヨハネ6:67-71

ユダが12弟子のひとりとして選ばれていながら、ほかの11人と違う道をたどった理由は何だったのか?この12人に対する選びにはどういう意味があり、僕らが11人になるには、どうすればいいのか。それを解く鍵は3つです。1つは「イエスに頼ること」です。クリスチャンとは人生の主導権をイエス・キリストに明け渡し、自分の車の運転席に、自分ではなく、イエスに座っていただくことを決めた人たちです。またパウロは、「イエスキリストのしもべ、パウロ」と、常に自分のことをそのように自己紹介をしましたが、しもべとは奴隷のことです。奴隷とは主人次第でどうにでもなる存在。でも彼は、イエスが彼の仕えてきた最高の主人であり、彼をベストの状態で生かすことのできる方だと知っていたのです。あなたの運転席には今、誰が座っていますか?またあなたは、どのように自己紹介されるでしょうか? 2つ目は、「イエスの贖罪を知ること」です。イエスは、その十字架の贖いを、自分の罪のためになされたものであることを信じる人を、一人残らず、それも信じた瞬間に救い永遠の命を与えるために、この世に来られました。イエスの十字架の死は歴史の事実です。これが自分の罪のためだったと本当に知るなら、僕たちはそれに対し応答をしないわけにはいかないのではないでしょうか。贖罪の業の意味を知ることは、あなたを救いなら漏れさせないための大切な要素です。 そして3つ目が「一人にならないこと」です。「下がれサタン」とペテロはイエスに厳しく叱責されましたが、それは愛の叱責でした。そしてそのあとユダと同じく十字架直前に大失敗をしましたが、それでも主に立ち返るチャンスを最後まで失いませんでした。が、それは共同体から最後まで離れなかったからです。あなたは今、助け合い、励まし合う、愛の共同体につながっているでしょうか。 この文章を読むあなたは、主の選びの中にいます。私たちが今なすべきことは、この選びの意味を知り、それに能動的に応えることです。あなたの運転席をイエスに完全に明け渡しましょう。

カテゴリー
礼拝メッセージ

人を生かすものは霊
ヨハネ6:60-66

僕らは、神様に何かを求める時、正しい求め方をしているでしょうか。一番悪いのが求めない事。でも、もう一つの間違いは、求めて、そのあと明け渡さないことです。イエスは十字架を前に「この杯を取り除いてください」と祈られましたが、同時に「神のみこころが為されえるように」とも祈りました。Pray and surrender. とにかく結果を委ねることです。僕らは求めてダメだった時のことを心配して、祈りをすぐに取り下げてしまうからです。失敗、恥、失望を恐れるんですね。でもそれでは、「イエスの言っていることが分からない」と言って、イエスの元を去ってしまった多くの弟子たちと、僕たちは何ら変わらないことになります。 そして僕たちは、イエスを理解するのに、肉を持って理解しようとしているでしょうか、それとも霊を持って理解しているでしょうか。「肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊」(ヨハネ3:6)とあります。また「文字は人を殺し、御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)ともあります。肉、文字と言う言葉があらわしているのが、理性、知識、学問、研究で、これらはあくまで頭で考えるもの、形有るものです。でも御霊の助けなしでは、イエスを理解することはできないし、人を生かすのはあくまで聖霊、holy spiritです。神は、私たちに語りたくて語りたくて仕方がないのだと教えてくれた友人がいます。それはすべて聖霊の働きです。あなたの人生を豊かにする聖霊の働きを、その語り掛けを、今こそ求めようではありませんか。

カテゴリー
礼拝メッセージ

イエスの血とみ体にあずかる
ヨハネ6:52-59

あなたは、ご自分の仕事場で、つい真剣になりすぎて人とあらぬ摩擦を起こし、それ故に互いが傷ついてしまったということはないですか?この期待に応えたい!あの人を満足させたい!これまで築いた評価を落としたくない!といつもどこか必死になっていませんか。誰にでもそんな部分はあると思いますし、僕自身が、当時はそんな思いの連続でした。その結果、疲れ果てて、余計にヘマをするという負のスパイラルに陥るのです。イエスはそんな僕らに1つの提案をします。仕事場に入った時、「わたしはイエスへの責任を果たすためにここにいるんだ」と思いなさいと。自分の願いを達成することに固執するのではなく、イエスの願う方法に人生のかじを切ってみるのです。そうなると、これまで味わったことのない心のゆとり、余白、フリースペースが生まれるのです。 イエスはきよい天の御国を離れ、わざわざこの薄汚れた世界のただ中に住むためにお出で下さいました。だからイエスは、あなたが、時にどろどろになりへとへとになる仕事の世界に、深い関心を持っておられます。そして、「わたしにつながりなさい。わたしもあなたにつながります」と言われます。日常生活の中でイエスにつながりましょう。聖餐式は、そのための貴重な手段です。それは主の恵みを五感で味わうすばらしいチャンスであり、あなたの内に生きる主イエスが、人を見ることをやめる力を、あなたに与えてくれることでしょう。

カテゴリー
礼拝メッセージ

私たちを引き寄せる神
ヨハネ6:41-51

つぶやきってどんな時に出て来るか知っていますか?不平不満があって、それが内にこもっている時です。どうしてそれが祈りに発展しないのか?それは全てをつかさどる神を信じていないからです。そんなつぶやき癖のある私たちにイエスは3つのことを教えてくださいました。 1つは、信仰は100%神の恵みだということ。牧師と言えども、神を差し置いて介入できることではないし、ましてや知識の勝負でもありません。その神の一方的な恵みにまず感謝したいと思います。 2つめに、救いは今現在起こっていること。信じたとたん、世のいのちと、永遠のいのちの両方が私たちには与えられます。そしてこのダブルの恵みが、わたしたちクリスチャンの力の源なのです。 3つめに、イエスは小さくなられた神です。私たちが頂いている大きなめぐみを、世にお返ししていきましょう。もっとも小さな者にしたのはわたしにしたのであると、イエスは言われました。与えられた恵みを流し出すところに、本当の喜びがあるのです。このことを日本の若者に是非とも伝えていきたいと思います。

カテゴリー
礼拝メッセージ

いのちのパンで僕らは一人も滅びない
ヨハネ6:34-40

教会って、みんなニコニコしていませんか。その理由の一つが、罪の重荷を、自分で担ぐのをやめて、床に降ろした人たちの集まりだからということは、ご存知でしょうか。すごく単純な理屈です。自分の罪は、自分で担ぎ続けないとだめだと、これは俺の責任で、どこまでも抱っこしていくぞ!と、皆どこかで思ってしまっているのです。でもイエスは、それを引き受けるためにこの世に来られ、十字架に掛かってくださいました。それは、この世のすべての人たちが、一人残らず救われて、永遠のいのちを得るためだと聖書は言っています。条件なし、区別なし、これが新約の世界です。 この一方的な恵みをただ受けるだけでなく、イエスに自分から近づきイエスの差し出すいのちのパンを頂く時、あなたの人生の旅がななつ星の電車旅行に変わります。このパンを日々食することが信仰生活、それ以外にありません。

カテゴリー
礼拝メッセージ

朽ちない食物のために働く
ヨハネ6:22-35

僕らは人生を通して、何かを獲得しようと頑張ります。でもそれらは、獲得して満足して終わりではなく、達成した瞬間から新たな欲求が起こり、さらにその上を目指すというエンドレスな戦いの始まりであり、その欲求が本当の意味で満たされることはありません。が、聖書は「本当の満足」に至る食物があると言います。それは腹の中にとどまって、僕たちを満足させ続けてくれる食べ物だと。人生はよくマラソンのようだと言われます。どうせ走るなら、そのような永遠に朽ちない食物のために走りたいですが、実はそのスタートが永遠のいのちなるイエスキリストを頂くことにあるのです。イエスこそが「まことのパン」だからです。 人づきあいの要諦はその人を信頼することだとよく言われます。イエスへの信頼、それを信仰と呼びますが、それを手にしたとき、あなたの人生にも、その信頼・信仰に応えてイエスの祝福が、満ち満ちることでしょう。