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わが目的地へ
ヨハネ6:16-21

皆さんは、ご自分の人生でとんでもない嵐に遭遇し、「神様なんでですか?」と問うたことは無いですか?僕はあります。もう40年も前のことですが、神のガンガンに突っかかりました。そして、弟子たちがガリラヤ湖で遭遇した嵐も、まさにそんな状況でした。「神がいるなら、どうしてこんなことが起こるの?」と。でもそれは、彼らが真に頼るべきお方は誰なのかを知るために必要な経験であり、訓練でした。自然も、嵐も、すべて神の被造物。始まりがあって終わりがある。しかし、それを造られた神は永遠なるお方。なおかつご自分の作ったすべての被造物を、今も完全にコントロールしておられるお方なのです。そのことをとことん理解したうえで、彼らは目的地カペナウムに到着し、そこで神の口の語る神のことばに、、ご自身がいのちのパンであるという説教に、真剣に耳を傾けることができたのです。今主は、あなたをfinal destinationに運ぶ前に、それにふさわしく整えようとしておられるのではないでしょうか。

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いのちのパンである方
ヨハネ6:1-15

5000人のお腹がいっぱいになるだけの大量のパンを、イエスが生み出されたお話がここでは述べられています。有名な奇跡です。この御業を通してイエスが僕らに伝えたかったことは、次の3点。(1)決してイエス単独のわざではなかったこと。5つのパンと2匹の魚を持ってきた少年、それをイエスに紹介した弟子のアンデレ、そして増えたパンを群衆に配ってまわった12弟子。彼らの協力なしには起こり得なかったのです。奇跡は人の手を通してなされるのです。(2)「一つも無駄になさらない」方がイエスだということ。これが「一人も滅びないで」(ヨハネ3:16)にも通じるイエスの基本姿勢であり、その熱心によってイエスは十字架に掛かってくださったのです。(3)大麦は本来家畜のえさ。この大麦のパンという、貧しさの象徴のようなものが、イエスの手を通る時、とんでもない奇跡のために用いられるということ。ですから私たちの賜物を、気後れすることなくどんどん提供し、神の御業のために大いに使って頂こうではありませんか。

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ここにいのちがある
ヨハネ5:31-47、使徒19:1-7

コロナや自然災害は、私たちのすべての計画に見直しを迫ります。そうでなくても、思うように進まないのが人生です。そんな時私たちは、自分の能力の足りなさや、めぐりあわせの悪さや、降ってわいた災難にがっくり来て、ときには自暴自棄になりかけることさえあります。でも、もともと私たちキリストとともに歩む者の人生に、完璧も、完成も、失敗も存在しないのです。すべては中途半端で終わる、これが人生。でもそれを私たちの想像を超えた形で仕上げてくださる方がいます。それがイエスキリストです。イエスにつながり、そこからいのちを頂き、この方のベクトルに沿って歩む限り、この方が、私たちの小さな小さな努力を、おどろくべき完成品に作り変えてくださるのです。でもそのために必要なことが2つ。それは「あなたは愛されている」この力強い神のことばを、あなたの存在に隅々にまで響き渡らせること。そして、 ぶどうの枝がぶどうの木につながるように、 なにがなんでもイエスにつながり続けること。さすれば必ずや、そこから得られたたわわな実が、そしてそれから作られた極上のぶどう酒が、あなたの人生の宴席を豊かに潤すことでしょう。

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驚きつつ、いのちに生きる
ヨハネ5:19-30

「まことに、まことに、あなたがたに言います」という枕詞に続いて、イエスは常に大切なことを語られます。1つ目は「驚け」、2つ目は「生きよ」と。ところで、あなたの信仰に驚きはありますか?もしないとしたらイエスの本質に触れていないということかもしれません。だって、イエスはその日(おわりの日)私たちの前で感嘆の的になられる(Ⅱテサロニケ1:10)とあるからです。このイエスを見つけるまで、僕たちは求め続けないとダメだということです。「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見出します」(マタイ7:7) 私たちは、日本の政治をあきらめてしまっているところはないでしょうか。確かにがっくりさせられることの連続です。が、福音的クリスチャンの石破さんが次期総裁選でのポスト安倍の有力候補の一人と言われている昨今、このことのために祈るのはごく自然なことだと思います。イエスキリストは私たちの理解力、想像力をはるかに超えたお方。かつ神は人を通して奇跡を為されます。そして驚き続けることを期待しておられます。ならば近い将来、主のなされるサプライスを期待し祈り続け、そして最後に「やっぱり主だ!」と、感嘆し、驚きあきれる者となろうじゃありませんか。イエスは、干からびた骨(エゼキエル37:11)のような日本にいのちを与え、生きるものとしてくださるお方です。

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今も働かれるイエスキリスト
ヨハネ5:1-18

「withコロナ」時代の突然の到来に、戸惑いを覚えている方が実に多くおられます。感染を免れ、健康も経済も守られ、うれしい事づくめのはずなのになぜか喜べない・・・。ベテスダの池で癒しを経験したその男性も、同じ思いだったに違いありません。すばらしい事の始まりも時として戸惑いの方が多いもの。でも彼がすごかったのは、神に感謝するために宮に戻って来たことでした。そこでイエスと会い、自分の癒しがイエスによるものであったことを知り、その日彼は、イエスの証し人としての新しい人生をスタートします。 僕たちは多くの「めぐみ」を頂きながら、それを貰いっぱなしにしていないでしょうか。彼はまず感謝するために宮に帰りました。イエスは本来僕らの応答を期待して、めぐみをお与えになるお方です。ですからまず頂いた「めぐみ」を感謝し、みことばに帰りましょう。そこから「めぐみ」の意味を知ることができ、そこから新たな使命が与えられるからです。このコロナ時代にしかできない、あなただけに準備された使命があります。 それを教えて頂き、 今も働かれるイエスキリストと共に、目の前のnew worldに向かって歩き始めませんか。

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生きるということ
ヨハネ4:43-54

拉致被害者、横田めぐみさんのお父さん滋(しげる)さんが亡くなられました。滋さんがどうしてここまで頑張れたのか?おそらくはイエスの励ましを直接受けて来られたのではないかと思います。それは滋さんがイエス同様、捕らわれ人を解放するために、世の逆風にさらされながらも巨悪に挑み続けた人だからです。「めぐみに会えなかったのが無念だ」と最後まで言っておられましたが、今めぐみさんの2人の弟さんたちが、この巨悪と戦い続けることを約束しておられます。 王室の役人は、息子の癒しをイエスに願い、イエスはそれに対して「あなたの息子は生きる」と語られます(ヨハネ4:50-53) 。そのことばを信じて帰途に就いた役人は、家にたどり着くまでにその息子が癒されたことを知り、このしるしを通して役人はイエスを信じ、家族も信じます。イエスの「生きよ」という命令に従うとき、そこには祝福が必ず追いかけて来ます。 横田家はクリスチャンファミリーです。めぐみさんがいつか救出され、滋さんと同じ信仰を持つなら、滋さんは天国でめぐみさんと会うことができるわけです。なんという希望でしょう。そして滋さんのこの悲願を達成するために家族が一つになって生きること、これが神の計画でなくてなんでしょう。イエスがどのような方かを知ること、これが信仰の第一歩です。 イエスはいのちの主です。「イエスに在って生きよ」という神の命令に従って生きる時、イエスは全責任を負って下さいます。

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世界を愛せる人になりたい
ヨハネ4:39-42

プロレスの木村花が、ネットによる誹謗中傷を受けたことで、不幸な死を遂げたと報じられています。 アメリカでは白人警官が黒人を窒息死させたという事件が起きました。どうしてあそこまでできるのかと不思議になります。が、悪いやつをとっちめてやるという「間違った正義感」ほど、人間をおかしくするものはありません。すべての戦争は、正義対正義の戦いだからです。しかし憎しみに対して憎しみで応戦するかぎり、僕らは滅びの道を歩み続けることになります。その意味で今の世は、すでに限界まで来ているのではないでしょうか。神は、実に、ひとり子を賜るほどに「世」を愛されました。神の子キリストは「世の救い主」として来られ、人類が世界規模で愛し合い赦し合うひな型となられました。赦しがたい!と思う相手に対し「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないのです」というとりなしの祈りを捧げること。これが今、神の我々に期待する「神との共同作業」の中身なのです。

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種蒔きの喜びと刈り入れの喜び
ヨハネ4:27-38

私たちの人生の目的とは何でしょう。多くの人が「仕事」を人生の目的に挙げるのではないでしょうか。となるとどうしても勝ちたい、評価されたい、儲けたいという思いが強くなり、せっかくの仕事を楽しんだり喜んだりすることができなくなってしまいます。イエスキリストは、「父なる神のみこころを成し遂げることが、私の食事だ」と言われました。私たちの人生の本当の目的は,「神との関係を築くこと」にあります。そこに人生の基礎を置いた時、私たちは初めて自分の仕事を喜び、楽しみ、それを通して神のみこころを為し、また日々神からエネルギーを頂いて大きな力を発揮することができます。そのことを伝え、実践するために、私たち働くクリスチャンは世に遣わされているわけです。そしてこの福音宣教の働きは、蒔く者も、刈る者も、ともに喜びあえる働きなのです。

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一人を捜される主イエスキリスト
ヨハネ4:16-26、創世記28:10-22

僕たちは平安の人生を求めます。が、意に反して苛酷な環境におかれることもしばしば。そんな時「神様、どうしてですか?」と噛みつくような祈りをしてしまうこともあるんじゃないでしょうか?でも、あれがあって今がある、我が人生に必要だったと、その「荒野」を振り返って思えるとしたら感謝です。主イエスは サマリアの女性に会うために炎天下の荒野に出て行かれましたが、それと同じく、今あなたを捜しに出て来ておられます。大切なのはそのイエスと出会い、本気で向き合うこと。そしてもっと噛みついてもいいんじゃないでしょうか。主はあなたの主への信頼を喜んでくださり、必ずあなたの求めに応えてくださいます。

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いのちの水と出会う時
ヨハネ4:1-26、ホセア2:14-17

この世には、潤いに満ちた豊かな人間関係と、不毛の人間関係があります。皆が前者を求めますが、実際はなかなかうまくいかず、後者が世に溢れています。それは私たちが大切なものを見失っているから。それが「弱さ」なのだと聖書は教えています。僕たちは強さを好み、弱さを嫌います。生きていくためには強さが必要だからです。しかし全能の神イエスキリストは、弱い人間としてサマリアの女性の前に現れ、水を求められました。ここに彼女と神の出会いがあったのです。私たちはがんばっても弱くはなりきれません。でも全能の神が、わたしたちのために弱くなり私たちをたずね出してくださった、ここに答えがあります。