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放蕩息子の兄は、弟と同じく迷っていました。「父は出て来て兄をなだめた」とあるからです。兄は、からだは父のそばにありましたが心は離れていました。つまり兄は、神と共にいながら神を少しも知らないという恐ろしい状況にありました。だから道に迷っていたのです。
兄はその正しさゆえに、弟よりひどい迷い方をしていました。善意が悪意よりあなたを神から更に引き離す理由は2つあります。それは、1)善良さが、「自分こそが救い主になる」という神との戦い、罪のポイントを隠し、最終的に人生が崩壊した時、その問題点が弟より捜しにくいから。さらには、2)その正しさが自分の我を通す当然の理由になってしまうためです。
兄タイプの特徴は、1)自分の人生の状況に腹を立てていること。2)律法を愛していないこと。3)喜びも自信もないこと・・・の3点。しかし、もしあなたが恵みによって救われた罪びとなら、その福音を理解するなら、あなたは自分でも信じられないほどの確信を持つことが出来ます。
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神を体験するには悔い改めが必要であり、それは我に返ることでもある。その時、世界を見る目が変わるのだ。弟は我に返って、父から離れようとしていた自分に気づいた。これが罪の本質であり、罪とはルールを破ることではないのだ。
兄は弟と違って、家に残ることで金への支配権を得ようとした。罪の本質は自己中心で、父は不要だという思い。兄は、ルールを守りつつも、神は死んだかのような生き方をし、家に居ながら家にいなかった。家とは、自分が受け入れられている場所のことだ。弟は、自分の支配権を求めて家を出た。が、家でもない所を家にしようとし、自分の支配権を見失った。つまり世間にそれを明け渡した結果、世が自分を定義し、不安、恨み、憎しみが自分の人生をコントロールするようになったのだ。
父は帰って来たどろどろの息子にキスをした。そこにはその汚さを圧倒する愛があったのだ。彼は兄のようになれば何かもらえると思い「雇人にしてくれ」と言ったが、それは間違っていた。父と本当の兄・イエスの待つ家にはダンスがある。それがまだないとしたら、あなたは父の愛を理解しておらず、放蕩中なのだ。見つけた羊の足を縛るのは羊飼いの愛。だから「どうしてこんな目に合うのか」と言わず、今すぐ家に帰りなさい。
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ティムケラーは、あなたの善良さがあなたと神との障壁となっていると言います。それは、自分はまじめだし、これからも神なしで大丈夫という思いを起こさせるからで、これが兄息子の状態でした。それは、ただ自由を求めて父を離れた、一見ハチャメチャな弟より深刻でした。イエスの示す新しい罪の定義は、ルール違反をすることではなく、神から離れること。兄の離反の罪は、弟の場合より悔い改めの道が長く、これがルカ15章の示すパリサイ人の状態だったのです。
兄も弟も、「お父ちゃんならこの問題を必ず解決してくれる」という信頼を持っていませんでした。これが罪の状態です。逆に信仰とは、「この問題は複雑だけど、お父ちゃんは何とかしてくれる」という単純素朴な安心に生きること。これが「心の中にシオンへの大路のある人」(詩84:5)の生き方なのです。
イエスは羊を捜しに行く羊飼い、一番ダメな子羊を誰よりも愛してくださる方です。かつ、それだけでなく、我々のために命を捨てた子羊でもある。それは我々に価値があるからです。この神の愛と、自己価値を知った時、我々も、炭火できよめられたイザヤのように、「私を遣わしてください」と神に言えるようになります。「主に愛された価値ある者」という自己像を見たクリスチャンは、義認に終わらず、聖化と派遣のブレークスルーを経験するのです。
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・「自分はできる」と自分に言い聞かせるなどのポジティブ志向はよく論じられるが、自己暗示はむなしい。罪びとが罪びとである自分に何を語っても、それはただむなしい。
・日本の政治家は小学生でもわかる嘘をついてえらそうにしている。彼らの悔い改めを祈ろう。さばき主はおられるのだから。では人間はどこを向いて人生を生きるべきなのか。
・人は祈る。家内安全や、試験の合格や、健康を。アカデミー賞、レコード大賞の発表の瞬間も、皆祈っている。が、彼らはいったい誰に向かって祈るのか。どうせなら祈るべき相手を知って祈りたい。天地万物の創造主、公義と正義の神を知り、祈れるクリスチャンは幸いだ。
・聖書は全知全能、万物の支配者たる神からの語り掛けであり、その神が「信じれば罪がゆるされる」と約束しているのがその特徴だ。一番うれしいのは、罪がゆるされること。世界の宗教の中で、罪のゆるしを解くのはキリスト教だけだ。
・みことばを心に蓄えよう。困難に遭ったら、ローマ8:28から、たとえマイナスに見えることもすべてを益とする神を知ろう。試練の中に在るなら、第一コリント10:13から、あらゆる試練をovercomeさせて下さる神に信頼しよう。
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自分から変身して熱帯魚になり話しかけない限り、魚たちは飼い主のことはわからない。いくら魚たちのために環境を整え、エサをあげ、心を込めて世話をしても、魚たちの自分への思いは「恐怖」であって、人間の神への思いもこれと同じ。だからそれを変えたい、愛していることを伝えたい・・・神が受肉されたモチベーションはこれだったとフィリップ・ヤンシーは語ります。
ザカリヤとマリアの対比。同じく天使に話しかけられ、また同じく疑いをもって質問をぶつけながら、片や閉ざされた心、片や開かれた心で接した両人でした。その結果、片やしゃべれなくされ、片や祝福を受け救い主の母となります。自分は人生の運転席から降りないと決めて投げて来る質問と、謙遜に、もし真理があるならそれに従うという思いで投げる疑問は違いました。さてあなたはどちらでしょう。
「み言葉通りこの身になりますように。不名誉極まりない人生も御心なら受け入れます。」15歳にも満たなかったであろうと言われる幼気なマリアに人類最大の貢献ができたのは、彼女がこう言ったからでした。ですからこのマリアのように「自分には正解は見つけられませんが、あなたがそういうお方なら、救い主なら、今知っていることを横に置き、キリスト第一で生きていきます。」と自分自身の人生から慎重に手を引くこと、それがあなたがダイナミックな人生を生きるカギなのです。
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「少年イエスのエルサレム残留事件」では、心配して捜しに来たマリアとヨセフに対し、「どうして私を探したのですか。私が父のところに居るのが当然であることをご存じなかったのですか」と逆に彼らを叱責しました。この時イエスは、成人を前にして、自分が誰なのかを本当の父から教えられたのではないかと想像します。と同時にこの箇所から、たとえ自分を信じ愛する人々に対しても、イエスは混乱をもたらすことがあるとわかります。
イエスは、このエルサレム訪問後、家に帰り、公生涯に入られるまでの18年間、マリアに仕えられます。両親にとってこの時のイエスの行為の真意は、結局わからずじまい。ですがマリアはこれらのことをすべて心にとどめておいたとルカは記しています。僕らはこの、僕らをしばしば混乱させ、惑わせ、不安に陥れるイエスに信頼すべきなのです。それはイエスが、混乱の中にあるあなたを愛し、あなたに全力で仕えて下さる方だからです。
エマオ途上の二人の弟子たちは、イエスのなさったことが理解できず、やはり混乱の中にいましたが、その時イエスは彼らに「これは必然なのです」と語りました。救いのための必然が、僕らには理解できず、時に混乱します。でも、クリスマスに始まるイエスのご生涯は「仕えられるためではなく仕えるために来られた」ご生涯でした。そのことに信頼し、マリアがそうしたように、僕たちの人生において、イエスについて知っている情報の断片を、信仰を、イエスご自身を、心のうちに大切に育てていきたいものです。
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あの時代の夕食は、家族生活の中心でした。電灯はなく、たいまつとランプだけ。街灯もないから、夕食後歩いて帰る人はおらず、そこに誰かを招き入れるというのは、その人を家族生活の中心に巻き込むこと。それこそがイエスの願っておられることでした。主は「わたしをあなたの人生の経糸・緯糸として織り込み、わたしの恵みがあなたの人生の隅々にまでいきわたるように」と望んでおられます。
変化は救いの条件ではなく、救いがその人を変えるのです。そしてザアカイは、イエスの愛が稲妻のように彼を貫いたとき、自分から「だましたものは400%返す」と宣言しました。これはどこかにそう書かれているわけではなく、自分から言い出したのです。彼の中の子供が、「お父ちゃん!」と叫びながら起き上がり、福音がザアカイを冒険の旅へと送り出したのです。子供として抱っこされ続けるのが、信仰生活なのです。
ザアカイは子供のように木に登り、子供のようにイエスを迎え、子供がお父さんに「パパ、見て!」と叫ぶように「主よ、ご覧下さい」と叫び、まるで子供のようにそろばん勘定を外しました。このすなおさ、軽やかさ。これこそが、イエスが何度も言われた「子供のようにならなければ、だれも天の御国に入ることはできない」の中身なのです。信仰とは心の中の子供を取り戻すこと。僕らはこの「子供の心」をどれだけkeepできているでしょうか。
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イエスは、たとえ悪霊が自分の言うことを聞いたとしても、そんなことで喜ぶなと言われた。何かで成功したり、うまくいったりすると、僕らは単純に喜ぶが、若さゆえにうまくいっても、歳をとってから同じことができなくなりそのことで生きる気力を失うとしたらそれも意味がない。
努力することは素晴らしいが、成功したと思っていたが実はそうではなかったというのは悲しい。だから目先の結果に捕われず、主人の喜びを喜びとする人生を求めたい。その喜びは永続するし、人と比べて優位に立ったことで有頂天になるという我々の犯しがちな失敗も避けることができるからである。
イエスは、何より自分の名が天に記されていることを喜べと言われた。それは自分が天の国籍を持ち、自分の居場所が天に用意されている人生、神の栄光を求め、神の喜びを自分の喜びとする、目的地のはっきりした人生のことである。
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あなたは放蕩息子の兄タイプですか?それとも弟タイプですか?人は自分の幸せや満足を確保するために、2つの方法を取ると言われます。一つは誰にも文句をつけられないように道徳面をバッチリ守って社会に適応するやり方、もう一つは自分探しに徹する方法です。前者が兄、後者が弟と言えますが、これらは両方とも、出方は違っても、父を愛し父に喜ばれるために父に仕えるという生き方ではありません。 聖書は、そのどちらでもない第三の生き方を描きます。それは父の笑顔を喜びとし、その父から遣わされる生き方です。イエスはもともと無限であられたのに、その無限を脱ぎ捨て、わざわざ貧しい有限の衣に着替えて、いのちをかけて苦い杯を飲み干し、本来僕らが支払うべきすべての支払いを為してくださって、僕らが帰って安心して住むことができる様、その場所を用意してくださいました。 僕らは、以前は自分のために貯めても貯めても、結局は全部置いて行くというのろいの世界に居ましたが、そこから解放されたのです。それは罪も、のろわれる理由も何もなかった神の子イエスが、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、僕らの代わりにそれを全部ひっかぶって下さり、あらゆるのろいと災いを払しょくして下さって、僕らのために本物のホームを用意してくださったからです。
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