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金こそすべて、というささやき
ルカ19:1-10

「金の亡者」という言葉だけを聞くと、漫画チックだし、自分がそうかもしれないとはだれも思いません。が、問題は自分がどれほど物欲や物質主義にまみれても、なかなかそれに気づかないこと。だからつい知らないうちにこの偶像に取り込まれ、これを愛し、信頼し、これに従う人生に突き進んでしまうのです。 新約には1/10献金の命令はありません。それは、イエスの十字架の恵みは、旧約時代とは比べ物にならないぐらいはっきりしているからです。僕らは旧約時代よりもっとわかりやすく、もっと多く恵みを与えられており、もっと「恵みの負債者」なのです。クリスチャンにとって1/10は最低の基準。なぜならイエスはご自分の血といのちの1/10をお捧げになったのではなく、すべてを献げられたからです。 自分の中の偶像に気づいて「下がれ、サタン」と命じれば、すぐに逃げていきます。grasp and releaseするのです。しかしそれはまたすぐに戻って来る。従いこれから永続的に離れるには、僕らのために貧しくなられたイエスキリストに、人生を乗っ取って頂くしか方法はありません。この方によって僕たちは、貧しい者から富む者へと変えて頂けたのです。

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あなたは救われている
ルカ24:1-12

僕らは自分では処理できない負の思い出、消したくても消せない罪の記憶を抱えて生きています。が、神が僕らを捕えてくださったという思い出、あの一番つらいどうしようのない場面にも神が共にいて下さり、すべてが神の愛の中にあったという神の思い出がそれらと二重写しになる時、ペテロたちが走ったように、これまで誰もが避けて来た「墓」に向かって走ることができ、墓の向こうまで走り抜けることができるのです。 「あなたは今日私と一緒にパラダイスに居ます」という、十字架の強盗にかけられたイエスの言葉は、世の常識からは逸脱しています。彼は教会に来て罪を言い表したわけでもなく、ただ「自分のことを思い出してくれ」と、死ぬ間際にイエスに叫んだだけだったからです。でもこれが、すべての人を救うことのできるキリスト教会の救いなんです。僕らの叫びに対して叫び返してくださる、これがイエスの救いです。 ようこそ教会へ。そしてようこそ恵みの中へ。弱い僕たち、取り消すことのできない過去を持ち、過ちを抱えてきた僕たちの為に教会は用意されており、その弱さを全部ぶつけることができるのが十字架です。イエスの復活は、語られたすべてが真実であることの証しです。かつ、いやなことを忘れようとするのではなく、イエスの復活を軸にそれらをリアルに思い返すところに、僕らの祝福の人生があります。ハッピーイースター!主の復活を感謝します。

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大きな恐れ・大きな喜び
ルカ2:8-14

クリスマスには大きな恐れがありました。それは天使の光が羊飼いたちを明るく照らしたことから始まります。僕たちは罪ある者、それゆえに神の光に照らし出されることを嫌うのです。僕たちの人生には恐れが満ちています。でも天使は、恐れなくていいと言います。それは、この主の到来は、さばきの到来ではないからです。 クリスマスは大きな喜び到来でした。お生まれになった救い主は、私達のための救い主だったからです。メシアの到来を長い間待ち望んだイスラエルの民に与えられたプレゼントは、神ご自身という最高のプレゼントだったのです。そして、全人類の救い主がお生まれになったその出来事は、実に静かな出来事でした。本当のよろこびは静かなのです。 主は33年の生涯の中で、全てのぎりぎりを経験されました。だから今ぎりぎりのところにある僕らの辛さを知っておられるのです。クリスマスの喜びは、このイエスをわが救い主としてお迎えした喜びです。コロナ、体調不良、ハイパーインフレ、戦争、あらゆる競争の激化と、世には恐れが満ちています。が、イエス我が涙を知り給う。このイエスの胸に飛び込めるという幸いに感謝しましょう。

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迷子のメーコ・たった一人のために
(山田真佐子師、山田豊師)
ルカ15:4-7

江戸時代の武士、原主水(はら・もんど)は、キリシタン禁令の中で伝道したことのゆえに火あぶりとなったが、その子孫が銀座に十字屋という文書店を開き、それがのちに原女学院となった。女子学院の前身だ。そんな歴史を調べる中で都心での教会開拓とTCCを応援してきた。銀座は元々キリスト教となじみが深いのだ。 一匹を捜す羊飼い、一枚のコインを捜す女性、一人の放蕩息子の帰りを待つ父親と、ルカの福音書は続く。失った者を必死で探す一人の人が居たということ。手のかかった生徒ほど、卒業後も教師は気にかけるものだと、ある老教師は、手をかけた教え子の葬儀に、自分は足が悪いのに、車いすを自動車に積んででも出席した。 この子のためには行かないとだめだという思いであなたを見、あなたの救いを求めて走り、そのために十字架にかかった方がいる。それが主イエスキリストだ。そうして救われたあなたなのだから、やはり一人の人の救いの為に、この都心でこれからも労してほしい。またそれを支えるTCCであってほしい。

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実を結ぶ人生の秘訣
(相島功先生)
ルカ8:4-15

1.神のことばを自分自身に対するものとして聞く 2.聞いてしっかり守り従う 3.収穫まで忍耐する

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わたしについて来なさい
(吉田真太郎先生)
ルカ5:27–32

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闇に勝つために
ヨハネ13:21-30、ルカ10:30-37

リーダーは孤独だという言葉があります。リーダーになって「答えを出さないとだめ」となると、とたんに力が入ります。こだわりも出て来るし、ついそれを愛より優先してしまいます。僕らはどこか、トップよりナンバー2の方が楽だという思いがありますが、それは、ナンバー2は最終的な責任を負わなくていいからです。 でもクリスチャンは全員ナンバー2。最後の面倒を見てくれるイエスという後ろ盾があるからです。この安心に生きる時、たとえ肩書はナンバー1であっても、心はナンバー2のゆとりでやっていけます。そして、結果が出れば主に感謝し、出なくても、それも主の御手の中にあると思えるのです。 なぜならイエスキリストのパフォーマンスゆえに、神はあなたを愛し、あなたに最高得点をつけてくださっているから。だから、どこにあってもこの福音に生きる限り、あなたは自分の良いパフォーマンスで誰かに愛されようとか、いい点を付けてもらおうとする必要はないのです。 この確信に生きるために必要なことはただ一つ。それは、神とともに職場に行くことです。そこでも神を神とする。サタンはセカンドベストをあたかも神のように見せかけてきますから、そのすり替えに注意しつつ、ぜひとも新しい週、神の平安とそれゆえに表される最高のパフォーマンスをエンジョイしましょう。

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エマオの弟子たちの見た復活の光
ルカ24:13-33

エマオの弟子たちは、世事に疎い一人の旅人に出会い、ここ数日のエルサレムであった出来事を説明したところ、この旅人は「鈍いのはあなたたちだ」と切り返します。「人のせいにするのでなく、自分の心に目を向けろ。落ち込みの原因は、あなたがたの信仰の薄さにある」と。僕らは、問題の原因を分析し、そこから解決を求めようとします。が、大切なのは、問題を共有してくれるイエスの目線を知ること。その時僕らは、孤独からも不安からも解放されるのです。 初代教会の使徒たちは「イエスがよみがえったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と語る復活の証人でした。ところが今の時代、復活が腹に入っていないクリスチャンが多いのも事実です。そして彼らは世の厳しさを乗り越えるだけの感動を持っていないのです。エマオの弟子たちが、復活のイエスに出会った時、きびすを返して危険の待つエルサレムに走ったそのパワフルな方向転換を、僕らも復活のイエスと出会うことを通して、日々体験する必要があるのです。 復活とは、何もなかったところに何かを生じ去る神の力です(ローマ4章)。それを信じる僕らは、ウクライナとロシアの戦争を見て、たとえ一見無力に見える中でも平和を求めます。なぜなら、神にはそれがおできになるということを僕らは知っているからです。復活はおまけじゃないし、ゴールのない競走はありません。世界は確かに終末に向かっているし、僕らはキリストに似た者に変えられつつある。この復活信仰に生きる者でありたいと思います。

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聖書は啓示の書
ルカ24:13-33、ヨハネ5:39

僕らの人生は、なんと望みのない、打ちひしがれることの多い人生かと思います。僕らは弱い存在です。なぜならもとは地の塵だったと聖書に書かれているからです。でも問題は、僕らがその「過去」に生きるのか、それともすでに復活したイエスが僕らの横に立たれ、語り掛けておられるこの「現在」と、さらには十字架によって完成された栄光の「未来」に生きるのかどうかということです。 エマオの途上でイエスと出会った時、弟子たちはうなだれていました。それは彼らが「よい預言者だった」「十字架に掛かった」「墓からもいなくなった」と、徹頭徹尾、た、た、た、の「過去」に生きていたからです。しかしイエスが共に歩き、聖書を解き明かすや、彼らの心は内に燃えたのです。そしてエルサレムに走りました。僕らも聖霊に燃やされて、Good Newsのために走る者になりたいと思います。 あなたは果物の王様ドリアンです。「パパイヤのほうが好き」と言う人もいるでしょう。でも、あなたはあなた。パパイヤにはなれません。こうなったら、人の評価なんて二の次です。み言葉と聖霊に励まされて、ドリアンの実を、思いっきり結んでやろうじゃありませんか。神の望みは、あなたがもっとあなたらしく生きること。神は「よくやった」と、あなたに伝えたくて仕方がないのです。

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十字架に見る教会と希望
ルカ23:32-43,46、ヨハネ19:25-27

十字架のイエスとその両脇の二人の泥棒。実はこれが「最初の教会」という説があります。死に直面してイエスと結び付けられている罪びとの集団が「教会」だからです。泥棒の一人はイエスとの会話の中で自分の罪を悟り、またまことの神を知り、その神により頼みます。と、その瞬間、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスに居ます」と驚くべき確かさで、イエスはその罪びとの今後の歩みを約束される。これが私たちがイエスと為すべき会話なのです。 2つ目の教会は、弟子とマリアへの、十字架からの語り掛け「女の方、御覧なさい。あなたの息子です」から始まります。その「イエスの愛する弟子」はヨハネだろうとされていますが、実際にマリアのお世話をする弟子は、イエスに愛された経験を持つことだけで十分だったのです。イエスは12弟子の足を洗い、この足を洗い合うことを知る弟子たちに、ご自分の母マリアを託した、それが「教会」の始まりでした。 「わが神わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスは、サタンに包囲された状態でした。でもその後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈られた、これは、サタンの包囲網を突破されたということです。この祈りは元来ユダヤ人の子どもが眠りにつくときの祈りの言葉です。神に委ねるイエスの生き方と神に委ねるイエスの死に方は、共に私たちの理想、そしてそれこそが迫りくる死の包囲網を突破する力なのです。