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1964年に坂野師は救われた。その直前にパチンコで持ち金を全部すり、むなしい思いに浸って帰って来た時に、弟が「音楽と話の夕べ」のチラシを見せて、一緒に行かないかと誘って来た。その日、二人の宣教師から「カルバリ山の十字架」についての話を聞き、もう一度教会に行ってみようと思った。
「人々はイエスを誰だと言っているか」という質問に対する答えは3通り考えられる。一つは偽善者で大ウソつきというもの。2つ目は素晴らしい教えを説く偉人で、とにかく正しい人。そして3つ目は神の子だ。
丸5日間そんな話を聞いた後、大学の授業中、それはトーマス・マンについての講義だったが、師の頭の中は「あなたはこれから何を信じて生きていくのか?」という問いがこだましていた。「誰も信じずに生きていくことはあり得ない。では、これまでに出会った人の中で誰を信じられるのか」この問いに、師は「私はイエスを神の子、救い主と信じます」と自分で告白していた。
「イエスは誰か」は人生のテーマで、これによってその人の生き方が変わって来る。「あなたは神の子キリストです」とペテロは告白した。聖書のすべてを理解することは不可能だが、人は必ず死ぬ。またそこにどんな意味があったかを必ず問われる。「イエスは誰か」の問いとその答えに、人生の意味と、あなたの存在の意義が込められている。
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イエスは全知全能で、何が起こっても驚かれないと我々は考えがちです。しかし、カナンの女性とのやり取りでイエスは「あなたの信仰は立派だ」と驚かれたと書かれており、また百人隊長に対しても同じコメントがありました。つまり、イエス様は「驚かれる」方なのです。
この出来事の前の五千人の給食と、その後の四千人の給食では意味が違います。後者は異邦人の集団でした。「テーブルから落ちるパンくず」どころか、異邦人に大いなる恵みがもたらされるイエスご自身の変化のきっかけが、実はこの女性の信仰表明にあったのです。
イエスは、愛ゆえに、ご自分の定めたルールをも逸脱することを辞さない神。「はみだす愛」を持つお方なのです。そしてこれを引き出したのがこの女性の「立派な信仰」でした。我々は、「御心のままに」という、いかにも謙遜そうな、しかしどうせ聞いて下さらないというあきらめの様な祈りをしていないでしょうか。
神は我々がもっと大胆に求めていくことを願っておられます。「求めなさい、そうすれば与えられます。」これは単なる積極志向ではなく、神の絶対的な愛に対する信頼の姿勢です。このような大きな信仰を持つ者となりたいと思います。
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あなたを支援するために神のしもべは神から送られて来ます。それは次にあなたが、神のしもべとして誰かを支援するためなのです。同じ思いの神のしもべたちはいます。その集まりが教会です。
イエス・キリストは傷ついた葦を折らない方。くすぶった灯心を消さない方。あなたにとっての傷ついた葦は誰ですか?くすぶる灯心は誰ですか?
人があきらめずに頑張れるのはなぜ?それはあきらめない人が1~2人、あなたの周りにいるからです。あきらめないイエスを知っている人たちがあなたの周りにいる、それが教会のコミュニティーなのです。
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福音は良い助言ではなく良い知らせ・・・マタイは、イエスにつながる系図を「事実」として伝えています。そこから始まるクリスマス物語、そして黙示録におけるキリストの再臨。それらを「昔々あるところに」の神話でなく、事実として信じるなら、聖書に書かれていることすべてが意味があるということになる。逆にそれが事実でないならすべてがナンセンスです。最初の一歩がすべてを決める・・・だから「福音はニュース」なのです。
キリストはこの世の価値観を根底からひっくり返す・・・マタイはこの系図に、モーセ時代なら載るはずのなかった異邦人の女、姦淫する者、近親相姦、売春を生業とする者など、アウトサイダーたちの名を連ねています。ここでは、姦淫の末に殺人を犯した王も遊女も関係なく、また金持ちも貧乏人も、道徳的な人も不道徳な人も、イエスを信じこの良い知らせを受け取るなら、皆等しく神の前にいる。これぞイエスの提供する驚くべき世界なのです。
キリストは究極の休息・・・イエスを信じるなら、僕らは自分を証明しなくてよくなります。遊女も王様も同じなのだから、それは当然です。さらに、この無情の世界の壁は裂け、僕らのキャプテンがまもなく登場する。その時世界の戦争は消え失せ、神の栄光がこの世界を覆う。系図で始まるこの物語はすべて真実であって、2023年の待降節で僕らが待ち望むのは、再び来られるキリスト、再臨の主。ここに僕らの確かな安息があるのです。
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パリサイ人が、イエスがマタイをはじめとする取税人、罪びとたちと食事をしているのを見て非難したのは、それによる汚れの感染を恐れていたためでした。律法の食事規定はこの感染を防ぐための方策だったのです。イエスは言われます。「あなたがわたしと関係を持つなら、きよくなかったあなたが、わたしのきよさに感染する」と。この「逆感染」こそが、イエスにあって働く、世とは正反対のダイナミズム。イエスと接する時、世とのかかわり方が、僕らにおいても完全に変わるのはこのためです。
クリスマスはこの「良き感染」のスタートでした。神ははるか彼方の遠隔地に鎮座しておられる神ではなく、また僕らに規則だけ与えて、「これに合格したら、あなたはきよくなって、最後はこの汚い地球を離れて、私と一緒に暮らせるようになる」と言う方では決してありません。逆に、この汚染された地球に来て、神のいのちを僕らに感染させるために起こった出来事、それがクリスマスだったのです。
僕たちクリスチャンの神観は、静的なものではなく、たった一人の人間でもありません。それはダイナミックに脈打ついのちと愛であって、永遠に続く一種のドラマであり、一種のダンスだとCSルイスは言います。すごい表現ですが、この父、子、御霊の三者三様の人生ドラマが、ダンスが、僕らの現実の人生の中に脈打っており、このほとばしる泉にアクセスする以外に、僕らの幸せはないのです。そしてそれを受け取り伝搬していく唯一の方策が、「良き感染」にかかることなのです。
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イエスは、「クリスチャンになるとは幼子のようになること」と何度も言っています。それはどんなことを言っているのでしょう。一つは自分が霊的に無力であることを認めることで、これは簡単なことではありません。自分のプライドをのみ込んで、「自分には恵みによる救いが必要です。自分は自分を救うことも、自分を取り戻すこともできません」と告白することだからです。そしてそれは最初に為さねばならないことです。
さらに、イエスの愛に完全に安住することも「幼子のようになること」の大切な部分です。子どもはどんな状況にあっても、自分は愛されていると確信しているからです。僕らは、自分がコントロールを失ったら、イエスにひどいことをされるんじゃないかと心配します。それを見越して「わたしは心優しくへりくだっている」と自己紹介されるのです。僕たちのために霊的な平安を捨て、いのちを投げ出して下さったお方。それゆえに、イエスは信頼に足るお方なのです。
しかしここで僕たちは、イエスのくびきにつながれていることを忘れてはいけません。クリスチャンになるということは、無償の救いを頂くと同時に、イエスの弟子になることだからです。もしあなたが教会に顔を出すだけで、聖書の教えに真剣に向き合わず、コミットしない教会生活を送るなら、あなたは弟子ではなく、この平安があなたの人生の隅々にまで入り込んでくることはありません。ですからこの機会に、共に学び成長する、本物のクリスチャンライフをスタートさせたいものです。
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バプテスマのヨハネは腹を立てていました。もしイエスが本当に救世主なら、どうして自分はこんなに弱いのかと。実際やることなすこと上手くいかず、今は牢獄に居て、いつヘロデに首をはねられてもおかしくない。どうなっているんだと。僕らも、イエスが神なら、どうしてこんなに事がうまく進まないのかと、いらだつことがあります。
でも僕らの頂いている信仰は約束の信仰。今すぐ役立つ「ご利益信仰」とは違うのです。信仰生活は疑いとの戦いです。逆に疑う心も起こらない信仰は、チャレンジから離れた安全地帯の信仰で、本当の信仰生活ではありません。我々の頼るべきは、目先の順調さではなく、神の真実。真実なる我が救い主、主イエスにのみ目を注ぐべきです。
イエスは、自分は心の貧しい人としか働かないと、聖書の中で何度も語られます。「心の貧しい人は幸いです」の「幸い」を手にするために、僕らに必要なことは、僕らは何もできない者、何の資産も持たず、借金だらけの人間だと知ることです。その時初めて、僕らの中の神のかたちをした穴が、ほかのものではなく、神の祝福によって満たされるのです。
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