神は、あなたにとって、どのようなお方でしょうか。厳しいお方? ダメな人には無慈悲な罰を下すお方? それともあなたを愛し、あなたの喜ぶ姿を見て一番に喜ばれるお方? この、あなたの持つ「神様イメージ」が、あなたの人生を決定すると言っても過言ではありません。マタイ20章の夕方5時から働いた労働者が、朝から働いた者と同じ1デナリをもらったのは、ただ主人の好意によるものでした。たとえ夕方5時からの労働者の様に大した働きはできなかったとしても、そんなあなたも喜ばせたいと、神は思っておられるのです。 紀元2世紀のクリスチャンは、あらぬうわさを流され、偽善者と中傷されました。が、ある人たちには魅力的に映ったようです。なぜなら彼らは、迫害する者にも礼儀正しく、常に天の故郷を夢見、すべての人から迫害を受けたにもかかわらず、全ての人を愛したからです。そして何も持たない彼らが、多くの人を富ませている姿。それを見て、「自分たちも彼らと同じものを持ちたい」と思った人たちが起こされ、大迫害の中にあってクリスチャン人口は急増したのです。 世の貪欲、恐れ、偏見に適応しないクリスチャンは、「変わった存在」です。それは、神ご自身が「変わったお方」だからです。赦す価値のない私たちのために、愛するひとり子を死に渡された天の神様は、人間の理解を超えています。それは、この神が、人間「が」創り出した神ではないからです。学校、病院、公共の福利制度などが確立するのに1800年の時を要しました。全ては教会がスタートです。このように、「本物」が浸透するには時間がかかるということ。それを思うと、伝道も、もっと腰を落ち着けてやればいいのだとわかります。
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マタイ2章には、「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて動揺するヘロデ王の姿が描かれています。その動揺するヘロデを見て一緒に動揺したのが、側近の宗教学者と高官たち、そしてエルサレムの住民でした。ヘロデは自分の王位を狙う妻や息子たちをすでに何人も殺害していたからです。ああまた厄介な話が来た…と、不安のさ中にあったエルサレム。方やその対比として「ベツレヘムの村」が登場します。そこはイエスの到来を、静かに、礼拝を持って迎える世界。博士たちはこちらに向かいました。同じ事件の中にある真反対の2つの事象、それがエルサレムとベツレヘムでした。さて私たちはどちらでしょう。今コロナの異変にあって、それでも礼拝を守ることができることは幸いです。エルサレムに在っても心はベツレヘム。異変の中にあっても、主の手に安らぐ者でありたいと思います。 ところで、東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をイエスに献上し、そのあと、別の道から自分の国に帰ったと聖書にあります。占星術の専門家として、これまではこれらを祭儀の道具として使って来たわけですが、イエスに出会い、彼らはその悪霊と偶像の世界と決別して、帰って行きました。別の道を通ること自体が、当時は大変なリスクでした。では彼らはなぜ、そんな危ない「別の道」を選んだのか。それは詩篇113:5-6の「主は御座を高く置き、なお低く下って、天と地をご覧になる」(新共同訳)という、救い主の降誕の預言を、彼らは知っていたのです。静かに眠る幼子に、「低く下る」神の愛と、恵みと、預言の成就を見、彼らはこの神にのみ仕える道に方向転換したのです。さて、このダイナミックな神の愛に出会った私たちは、何を変えていただき、またどうお応えすべきでしょうか。
あなたは「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということの意味を深く考えたことがありますか。それは、自分に徹すること。人まね人生を送らないことです。あの人のようになりたいと、理想を持ち、お手本にして努力することは良いことです。「学ぶ」という言葉は、もともと「真似ぶ」から来ているからです。でも、そのまま、自分に対する神のspecialなご計画を無視して、人の評価する自分、ああなりたい自分を目指すのは、人まね人生。それを捨て、自分に与えられた賜物に神のご計画を読み取り、そこに徹する人生にこそが「自分を捨て、自分の十字架を負う」人生なんですね。山上の説教の世界は、天の御国が舞台です。が、「自分の十字架」への招きは、そのまま天の御国への招きでもあります。まずこれに応答し、そこにある私たちの将来に約束された多くの幸い(たいやきの中のあんこ!)を楽しみましょう。
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黒人男性ジョージ・フロイドさん殺害事件と差別撤廃を訴える過激なデモが、全米を覆っています。が、その弟テレンスさんは、兄の殺害現場にハンドマイク一本で立ち、「暴動をおこすのは間違っている。そんな自滅行為はやめて、選挙に行って投票してください」と訴えました。彼は、建国以来の奴隷制度と人種差別の歴史、それに対する黒人の積年の怒りという巨大な敵に一人で立ち向かったわけです。キング牧師を彷彿とさせますが、クリスチャンであるテレンスさんがここまで大胆になれたのは、復活のイエスの、「わたしは天と地の一切の権能を預かっている。そのいのちと力をあなたに注ぐから、あなたは出て行け」の命令に応答したからだと、私は考えます。私たちも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われるイエスに、遣わされて行こうではありませんか。それは5つのパンと2匹の魚を引っ提げて5000人の中に出て行くようなクレージなシーンかもしれません。が、神の期待はここにあります。Let’s go crazy! (英語では楽しもうという意味)イエスの権能のダイナミズムを、今こそ世の雑踏の中で楽しもうではありませんか。
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