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礼拝メッセージ

神の最高傑作として生かされる
(高橋秀典師)
詩篇139:1-18

藤圭子の「夢は夜開く」は自分の生い立ちをはかなんでいる歌詞が続く。これが日本人の心を打つのはなぜか。日本人が自分の個性や出生を、神からの賜物としてとらえられないところにその理由があると思われる。

スイスのラサでハンス・ビュルキ先生の講習を受けた時、I’m fully and wonderfully made.という詩篇139:13-14の言葉から、神の最高傑作として、自分の性格、何をやっている時が一番うれしいか、その「咲き方」にもっとこだわっていいと教えられたと高橋師は語る。

分裂気質のヨハネ、循環気質のペテロ、粘着気質のパウロが気質の3大分類。又外に目を向ける外向的性質と、内向的性質があるが、トマスは内向的。後者は自分の確信を大切にできる。あなたが使命を捜すのではなく、使命があなたを捜しているのだ。

わくわくすること、気になることは砂の数より多い(139:18)。だから自分を大切にして、遠慮せず、人に迷惑をかけるぐらい、いろいろやってみろ。そして転べ。その時周りの人が助けてくれて、そこに隣人愛の場が広がっていくのだ。

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礼拝メッセージ

心の傷つきやすい人への福音
(高橋秀典師)
詩篇69:17-21

牧会歴34年の高橋秀典師は、ある時、自分は非常に傷つきやすい人間であることに気づいたと言う。クリスチャンは、強いはず。傷つきやすいのは信仰が足りないのではないかという考えを持つ人もいるが、詩篇は、ダビデも、イエスも、我々と同じく傷つき悩んだことを教えてくれている。

イエスが「わたしの心は騒いでいる」と打ち明けられたのだから、自分も強がる必要はないと知った。自分の寂しさは、イエスの感じられた寂しさなのだ。そして「わたしのたましいは打ちしおれています」「わたしは悲しみのあまり、死ぬほどです」と、自分のすべての思いを隠さず表現するのが、神の御子のなさり方なのだ。

「神よ、御顔を隠さないでください」「早く答えて下さい」「私をなじる者をさばいてください」「彼らの名をいのちの書から消してください」「私は卑しめられて痛んでいます」これら読むと、イエスも自分と同じ悲しみを感じられた、だから神は自分のことをわかって下さっていると分かる。そしてこの安心を得た時に初めて、他の人に対してもやさしい言葉を語ることができるのだ。

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求められる3つのこと
(姫井雅夫師)
詩篇99:6-9

人は誰でも一度は死に、死んだら裁きを受けると聖書は言います。裁きの基準は神のみことば。だから神を信じることは大切なのです。その中身として次の3つのことが求められています。

  1. 主の御名を呼ぶこと(詩篇99:6)・・・健康、経済などいろいろな問題が人生には生じますが、その時こそこの習慣を持つことが大切です。
  2. 主のおきてを守ること(詩篇99:7)・・・主は聖書で、「わたしこそが道だ」と教えて下さっています。だから主の律法、主の規則を守る姿勢が大切なのです。
  3. 主をあがめること(詩篇99:9)・・・なぜなら僕たちの人生には落とし穴と誘惑が満ちているから。でも祈りに導かれることはすべてよし。あらゆる場面で主をあがめるところに本当の祝福があるのです。
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神が支えて下さる
(松本民雄師)
詩篇37:23–24

僕らの人生は既に神に買い取られている。神が所有者。と分かると、自分だけでなく神とともに計画を立てて行くところに、その確かさがあると分かる。そしてその時、僕たちの人生は神のご計画通りの人生になるのである。

では僕たちの本当の幸せとはどこにあるのか。それはダビデがそうだったように、柔和でへりくだった生き方をするときに与えられるのである。一方で、悪者たちはやりたい放題。しかし彼らは自らそれを刈り取ることになる。が、あなたの正しさは真昼のように輝くのだ。

神はその救いの完成のために、人の手を使われる。教会を用い、仲間を用いる。教会はキリストのからだだからである。教会家族は互いが、キリストの手となって支え合うためにあるのである。

キリストの、御心のため、みことばに、従い歩む、御手の支えで

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人間に対する最高の評価
ピリピ2:13、詩篇14:1-7

僕たちは、自分の人生に於いて何か大きなことをしたいと願います。それをambition、野心と言います。特に青年時代のそれは強烈です。その根っこは、自分がいい思いをしたい、勝ちたい、あいつの上に立ちたい、支配したいという間違った思いです。でもその求めるところが信仰の中に入れられる時、だんだん聖別され、個性的な要求が進化して、最後はいい形で成就する。これがヨセフをはじめとするクリスチャンの人生物語です。 そのためには、まず個性に生きることです。神が、小さな声で、志を立てさせ、それをなさしめる(ピリピ2:13)、その中であなたの個性が伸びていきます。これが分かると、ねたみというものがなくなります。自分には自分の使命があり、生き方がある。自分の個性がはっきりしていて、それを神に完成していただく。それが分かっているなら、他人の個性をうらやむなんてことにはならないわけです。 青年のみなさん。みなさんの理想、野心…それはあなたの個性の発露です。それは神の下さったものだから間違いなくいいもの。それを消さないこと、大事にすることです。それが、悲しみ、苦しみ、涙、いろんなことを通して、大小さまざまな挫折を100回以上繰り返し、きよめられ、予想もしなかった大いなることのために用いられる。これがクリスチャンの歩みです。これがイエスを信じる信仰者の人生です。なんかワクワクしてきませんか。

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神は気前のいいお方」
マタイ20:1-15、詩篇23:1-6

神は、あなたにとって、どのようなお方でしょうか。厳しいお方? ダメな人には無慈悲な罰を下すお方? それともあなたを愛し、あなたの喜ぶ姿を見て一番に喜ばれるお方? この、あなたの持つ「神様イメージ」が、あなたの人生を決定すると言っても過言ではありません。マタイ20章の夕方5時から働いた労働者が、朝から働いた者と同じ1デナリをもらったのは、ただ主人の好意によるものでした。たとえ夕方5時からの労働者の様に大した働きはできなかったとしても、そんなあなたも喜ばせたいと、神は思っておられるのです。 紀元2世紀のクリスチャンは、あらぬうわさを流され、偽善者と中傷されました。が、ある人たちには魅力的に映ったようです。なぜなら彼らは、迫害する者にも礼儀正しく、常に天の故郷を夢見、すべての人から迫害を受けたにもかかわらず、全ての人を愛したからです。そして何も持たない彼らが、多くの人を富ませている姿。それを見て、「自分たちも彼らと同じものを持ちたい」と思った人たちが起こされ、大迫害の中にあってクリスチャン人口は急増したのです。 世の貪欲、恐れ、偏見に適応しないクリスチャンは、「変わった存在」です。それは、神ご自身が「変わったお方」だからです。赦す価値のない私たちのために、愛するひとり子を死に渡された天の神様は、人間の理解を超えています。それは、この神が、人間「が」創り出した神ではないからです。学校、病院、公共の福利制度などが確立するのに1800年の時を要しました。全ては教会がスタートです。このように、「本物」が浸透するには時間がかかるということ。それを思うと、伝道も、もっと腰を落ち着けてやればいいのだとわかります。

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今日から別の道
マタイ2:1-12、ルカ1:39-42、詩篇113:4-9

マタイ2章には、「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて動揺するヘロデ王の姿が描かれています。その動揺するヘロデを見て一緒に動揺したのが、側近の宗教学者と高官たち、そしてエルサレムの住民でした。ヘロデは自分の王位を狙う妻や息子たちをすでに何人も殺害していたからです。ああまた厄介な話が来た…と、不安のさ中にあったエルサレム。方やその対比として「ベツレヘムの村」が登場します。そこはイエスの到来を、静かに、礼拝を持って迎える世界。博士たちはこちらに向かいました。同じ事件の中にある真反対の2つの事象、それがエルサレムとベツレヘムでした。さて私たちはどちらでしょう。今コロナの異変にあって、それでも礼拝を守ることができることは幸いです。エルサレムに在っても心はベツレヘム。異変の中にあっても、主の手に安らぐ者でありたいと思います。 ところで、東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をイエスに献上し、そのあと、別の道から自分の国に帰ったと聖書にあります。占星術の専門家として、これまではこれらを祭儀の道具として使って来たわけですが、イエスに出会い、彼らはその悪霊と偶像の世界と決別して、帰って行きました。別の道を通ること自体が、当時は大変なリスクでした。では彼らはなぜ、そんな危ない「別の道」を選んだのか。それは詩篇113:5-6の「主は御座を高く置き、なお低く下って、天と地をご覧になる」(新共同訳)という、救い主の降誕の預言を、彼らは知っていたのです。静かに眠る幼子に、「低く下る」神の愛と、恵みと、預言の成就を見、彼らはこの神にのみ仕える道に方向転換したのです。さて、このダイナミックな神の愛に出会った私たちは、何を変えていただき、またどうお応えすべきでしょうか。

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理想と現実のはざまで
ハガイ2:3,6,7,9、詩篇23

「人生の砂漠」のようなところを通らされることは、誰にでもあります。砂漠とは、コントロールのきかない厳しい環境のこと。でも、たとえそんなところに置かれても、絶望しないことです。信仰の先輩たちは皆、それぞれの砂漠を通りました。神はそこで、私たちに祈ることを教えてくださるのです。そして何に渇いているのか、本当に何が必要なのかを教えてくれる。ですから砂漠は「心の窓」と言うことができます。 この砂漠で私たちのすべきことは、まず本当に心の中にあることを、隠さず神に求めることです。期待し、望み続けること。もちろんこれにはリスクが伴います。だから同時に、明け渡すことも必要です。降伏する。サレンダーする。つまり「今」にこだわらない。時と形を神にゆだねるのです。そして3番目にすべきことは「見る」ことです。あなた物語の中におられる、ストーリテラーに目を注ぐのです。理想と現実のギャップはつらく、いつまでもこの両者は出会わないのではないかと思うこともあります。が、祈りをもってそれに向きあい続けるなら、その二つが思いもよらない形で出会い、「ああ、これは神様しかない!」と、感謝と賛美の湧き出るときが必ず訪れます。神はあなたを驚かせようと、今その準備を着々と進めておられます。

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みことばの光を持つ家庭
詩篇119:9,65,67,71,93,105

「ひみつのあッコちゃん」のお話はご存知ですか?魔法の鏡に向かって、「テクマクマヤコン」と唱えると、なりたいものになれるという赤塚不二夫のTVアニメで、それがリメイクされて綾瀬はるか主演の映画にもなりました。ところで私たちって、こうなりたい、ああなりたいと、いろんな夢を描いて大きくなってきましたが、いったい最終的には何になりたいんでしょうね。そして、理想の人生、理想の家庭とは?だいたい、そういうものはあるのでしょうか。聖書の詩篇119篇は、私たちがまだ気づいていない「理想」に向かうための、大切な指針を与えてくれます。

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恵みとまことに満ちた方
ヨハネの福音書1:14-18、詩篇88:13-18