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礼拝メッセージ

キリストによる和解
(坂野慧吉師)
ルツ4:13-17

ナオミは神を信じていても不幸続きだった。夫が死に、息子たちも死んだ。息子キルヨンと嫁ルツの間には子もいなかった。では、どうしてそんなナオミの信じる神を、ルツは信じることができたのか。ナオミがエルサレムに帰る時、ルツは離れようとせず、「あなたの神は私の神、あなたの民は私の民」とまで告白した。 ナオミを通して、ルツは神を見ていたのだ。

やもめのルツにとって、ナオミは信頼に足る姑であり、異邦人ルツにとって、イスラエルの神、まことの神は、信頼に足る神だった。ナオミは、その不幸にもかかわらず、いや不幸を通して、なお神を映し出す人だった。だから、ボアズの布団に入るという大胆な「プロポーズ大作戦」をナオミが薦めても、その通りにする。ナオミへの信頼がなければそれはできない。そしてルツはボアズとの結婚に導かれて行く。

ボアズとの結婚によって、ルツはダビデの曾祖母(ひおばあちゃん)になる。いうまでもなく、イエスキリストの家系だ。「サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。」(マタイ1:5-6) 我々も今このイエスキリストの家系に組み入れられているというのは、何という幸いだろう。

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礼拝メッセージ

ナオミと呼ばないで
(坂野慧吉師)
ルツ記1:19-22

旧約聖書ルツ記1章19-22節から 飢饉のユダを逃れ、ナオミ一家はモアブの地へ。現地で息子たちはモアブ人の嫁をめとり、そこまでは良かったが、しばらくして夫も2人の息子も死に、3人のやもめだけになる。その後、ユダの飢饉が終わったといううわさを聞き、ナオミは一人でユダに帰ろうとする。が、ルツだけは「母を捨てて帰るように仕向けないでください」と頑として受け入れず、結局ついて帰ることになる。 「ナオミ」とは心地よい、優しいの意で「マラ」は苦いを意味する。10年ぶりに帰ったナオミを迎えた友人たちに彼女は「わたしをナオミと呼ばず、マラと呼んで」と言う。なぜなら私は多くを持って出たのに最後は手ぶらで帰って来たから、こんな私が神から愛されているなんて到底考えられないと。実際は、彼女は手ぶらではなくルツを連れて帰って来たのだが、そんなことは忘れているし、またそこには期待もしていなかったということだ。 女が働く手段などほぼ皆無の時代、できるのは落穂ひろいのみ。ルツが最初に行ったのはナオミの夫の血縁ボアズの畑で、いきなり彼女は36リットルの落ち穂を持って帰って来る。それを見てナオミは、ボアズがルツと結婚したがっていることに気づき、彼女に綺麗に飾らせ、大胆にもプロポーズをさせるのだ。ボアズとルツは結ばれ、オベデ、エッサイ、ダビデ、イエスキリストとつながる血筋がここから生まれたという、これは実際のストーリーだ。 僕らはイエスに救いといのちを頂いている。先は見えないし、見方によっては、今は不幸のどん底の様に思えるかもしれない。現実は厳しい。が、見えないところで神のご計画は着実に進んでいる。神にすべてを委ねることが一番の幸せへの道なのだ。

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礼拝メッセージ

試練の時の神の支え
坂野慧吉師
ルツ1:1-22

ナオミは神を信じているが、いい事が続かない。それどころか、不幸を絵にかいたような状態だった。しかしそれを見てもなお、ルツはナオミと同じ信仰を持とうとする。なぜか。ナオミの人格に惹かれたのか。おそらくそうだろう。状況の良しあしと無関係に、その人が醸し出す人格というものがある。いやそれどころか、状況が悪ければ悪いほどかえってそれが際立つ時がある。また人によっても感じ方は違う。同じ状況を見て、もうひとりの嫁は去って行ったからだ。 神は、選びの器ルツにその感性を与え、ナオミの家を支え、異邦の地エルサレムに彼女を導き、最後はルツがダビデのひおばあちゃんになる道を開く。不幸のどん底のようなナオミと、そのナオミに従うルツ。神を信じていてどうして?と問いただしたくなる現実がある。しかし、そこには、我々には計り知れない神のご計画があるのだ。 なぜこんな事になったのですか?と問う弟子たちにイエスは「神の栄光が表されるため」と答えたとヨハネ11:4にある。神の愛する者たちにとって、神の与える試練には理由があるということ。そしてそれは耐える価値があるものであり、また耐えるための神の支えもすでに備わっているということではないだろうか。