人に裏切られることは人生最大の苦しみ、悲しみです。旧約聖書のヨセフは、兄たちに裏切られ、献酌官長にも忘れ去られてしまいました。が、そんなヨセフを支えたのが、「主がヨセフとともにおられた(ので)」という事実でした。要は、人に期待するな。人を恐れるな。主のみを恐れ、主のみに期待せよと。壮絶な裏切りが待つことを知りつつ、3年の月日を共にすごし、足まで洗い、十字架の前日まで12人を「わたしの者」と呼び続けたイエス。この方こそわが救い主として最適なお方です。そしてこのイエスの愛と忍耐は、世の人間関係に傷つく僕らにとっての最大の癒しなのです。 洗足には、2つの意味がありました。ひとつは家族間の愛、そしてもうひとつは奴隷としての謙遜の極みに神の子が立たれたということ。12人の足を洗い終えたイエスは、「わたしのしたことは今に分かる」と言われました。その時は何も理解できなかった心の固い弟子達でしたが、師として、弟子たちに向けて全存在をかけて残された究極のメッセージが、この愛と謙遜でした。そして僕たちはイエスに洗ってもらったからこそ、今こうして教会の群れに属しているのです。 足を洗っていただいた僕らは、今度は家族のところに遣わされます。モーセがエジプトに遣わされたように。そしてこれまでいろんなことがあった、その年寄りの面倒を見る。年寄りの傍らに座る時、僕らはそこでイエスの弟子です。イエスが今、この父に、この年老いた母に、何を為さるのか、それを僕らが示すのです。年寄りの手をさすり、やさしく語り掛け、傾聴する、そんな小さなしぐさにイエスのしぐさが現れるのです。イエスが全存在をかけて示されたことを僕らがこの世に現わしていく、そこに弟子としての生きざまがあります。
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主の祈りは、覚えにくい祈りです。いちばんよく聞いているはずなのにどうしてかと思います。覚えている僕らも、あまり中身を考えずに、言葉だけ唱えているところがあります。それはこの祈りが、僕らの心から出て来る願望を唱える祈りではないからです。もともと僕らの心の自然な流れに逆らった祈りなんです。 主の祈りは、もとはイエスが天のお父様にささげた祈りです。それを僕らに教えてくださったもの。だから本来この祈りには、僕らの声ではなく、イエスの声が響いているのです。子ろばの背中に乗ったイエスが、僕らに代わってこれを捧げて下さっている。僕らはそれをなぞりながら、この祈りを祈り始めるんです。 僕らはろばです。何のとりえもない僕たちに、イエスが目を留め、そのために使いを送ってくださった。そしてその人に祈られ、伝えられ、イエスと巡り合うことができた。この一方的な恵みに応答するとき、僕たちも神の救いの物語のわき役としていただけるのです。 弟子たちにこの祈りを教えられたイエスは、エルサレムに向かわれます。十字架に向かう旅です。でもそこで終わらない。復活があって今もその旅を続けておられるのです。そのイエスの肉声を聞くとき、イエスの声が僕らの声になり、イエスの歩みが僕らの歩みとなる、これがクリスチャンの歩みなんじゃないでしょうか。