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センターチャーチ

「福音」について #2(本文 P39〜)

II. 福音 (gospel) について 

多くの教会は、福音的な教義を持ちながらも、ミニストリー自体が福音によって整えられ、そこにフォーカスし、そこから力をもらうということができていません。ゆえにまず福音についてよく知る必要があります。福音にフォーカスしたミニストリーはプログラム中心でなく、神学を原動力としています。つまり、何が原動力となっているかが問題です。福音のエッセンス、福音の真実、福音のパターンに時間をかけるべきであって、それが足りない時に形骸化(歴史や、理論と実践の橋渡しに終始)します。 

1) 福音とは 

  1. 福音は良い知らせだが、良いアドバイスではない。つまり福音がすべてではない。福音は「生き方」ではない。福音は私たちのために何がなされたかであり、私たちが何をしないとダメかということではない。ただ、為されたことへの応答は求められている。 
  2. 福音は、私たちが救われたという良い知らせ。
    何から?私たちは危険から、また神の終末の怒り (Iテサ1:10b)、恥と恐れ(創3:7、10)、神と社会からの疎外 (創3:11-13)、悲しみ、痛み、苦痛、肉体の退化と死 (創3:16-19)から救い出されたのだ。世界の戦争、災害、貧困等、すべて神の怒りが原因だ。アダムの罪により土地はのろわれ、それゆえに我々は労働において苦労する。災害や世界の諸問題の原因は水平方向の原因に注目しがちだが、根本は垂直方向(神のとの関係)に起因する。 
  3. 福音とは、イエスキリストが、私たちと神との関係を正常化するために、何をなして下さったか (ローマ5:8、IIコリ5:20) を示す。クリスチャンになるということは、その結果のステータスの変更を意味する。まさに死から命に移った (i/o移る) のだ (Iヨハネ3:14)。 
  4. 「あなたはクリスチャンですか」という質問に、「私はそれほどいい人ではない」と答えるなら、サタンのウソにはまっているとロイドジョンズは言う。「主はよいお方。私は主の中にいます」が正しい答えであり、あなたがどんな人であるかは関係ないのだ。つまり神との関係の変化に尽きる。キリストの死による死の死である。 

考えよう⇒1.はこれまでのあなたの福音理解とちがいますか?1.と2.3.はどういう関係かも考え、あなたに取って福音とは」を整理してみましょう。 

2) 福音は福音の結果ではない 

  1. ルター曰く、我々は信仰のみによって救われた。しかしいつまでも「信仰のみ」ではなく、そのあとはこれに「良い働き」が伴うのである。が、「救い」と「働き」はもともと無関係で、救いは「働きによって」あたえられるものでも、「働きを通して」あたえられるものでもない。福音はキリストの働きのプログラムに加わることではなく、キリストがすでになし終えた働きをうけとること。これがクリアーになっていないと、「信仰による救い」が、「働きによる救い」に変化してしまう。 
  2. 「愛の生活が福音を具現化するから」と言って、また「それが説教と切り離せないから」と言って、福音と一つにするのは間違いだ。このグッドニュースは、愛の生活を生み出すものだが、愛の生活そのものは福音ではない。 

考えよう⇒「救い」と「働き」の関係を、もう一度自分の言葉で整理して説明してみましょう。

福音の物語における問いその答え
第1章私たちはどこから来たのか?神から来た
第2章なぜ世界はおかしくなったのか?罪による
第3章何が世界を正しくするのか?キリストの御業が
第4章私たちはどうすれば正しくなれるのか?信仰による

正しくない福音は第1章「神と創造」、第2章「堕落と罪」、第4章「信仰」のみで終わっている。これは福音ではなく、福音のプロローグとエピローグだ。ポイントは第3章の「受肉、身代わりの死、回復」であり、これが福音なのだ。 

① 私たちはどこから来たのか? 

神から来た。世はこの神によって創造された(たまたまできたのではない)。では、なぜ創造したのか?それは三位一体はもともと愛の関係ゆえ、神は愛を知っておられる。だから人間を愛の対象として造られた。しかしそれは「互いに愛し合うため」ではなく、「神の愛を我々人間にシェアする(そして我々に仕える)ため」であった。かたや私たち人間には、その応答として、「神に仕え、礼拝する」ことが求められている。 

② ではなぜおかしくなったのか? 

罪ゆえ。礼拝し、仕え、他者を愛するために我々は造られたが、我々は反逆し、自己中心に陥り、その結果この罪が「奴隷状態」と「有罪判決」をもたらした。「奴隷状態」とはお金、キャリア、家族、恋、セックス、権力への隷属であり、このために生き、これにコントロールされる人生に。その結果、恐怖と怒りと絶望にさいなまれることに。「有罪判決」とは神のために生きないことへの永遠なる死の宣告である。 

③ 何が世界を正しくするのか? 答えはキリストだが、そのキリストの……

a) 受肉:神と人間の関係は、シェークスピアとハムレットの関係で、登場人物(人間)は作者(神)が書いた分しか作者(神)と関われないし、それ以上は「分らない関係」だ。ここに絶対的主権あり。しかし作者たる神が、主人公(人間)を救うために、歴史という書物の中に、パートナーとして御子を書き込んでくださったのだ。 

b) 身代わり:NOというだけでなく主は体を張られ、我々の受けるべき拒否と有罪判決を引き受けてくださった。これは不完全な私たちにはできないこと。また私たちには支払えない額の賠償であった。 

c) 回復:再臨の主は、審き主として到来し、すべての悪とわずらいと腐敗と死を滅ぼしつくされる。つまり新天新地における贖いがその最終目的であり、最後は逃避ではなくこの世の刷新を目指しておられる。 

④ どうすれば我々は正しくなるのか?

信仰を持つことによる。死んでよみがえった主イエスを信じることで、我々もいつの日かよみがえるのだ。 

考えよう⇒③のみが福音で、そのことの大切さをここまで認識していましたか?「何が世界を正しくするか」について、今学んだこと・気づいたことを、自分の言葉で言い表してみましょう。

4) それでは、上記 3)④の、「信仰を持つ」とはどういうことか 

a) 過去についての赦しではなく、新しいスタートである。それもこれまでと違う生活を始めること。しかしこれは「心的態度」によるものではない。「心的態度」によるものの場合、救い主はあなたとなるからだ。「頑張って道徳的になって神と会う」ではない。これは失敗する。どんな頑張りも、自己中心と不純なモチベーションが内側にあるからだ。福音とは、ローマ8:1を信じ、我々の信頼を、我々自身から外し、キリストの中に安らぐこと。そして「父よ、私がやってきたことや、これからやろうとすることではなく、キリストのなさったことによって私を受け入れてください」と祈ることである。 

b)「救われるのは、私たちの信仰の質によってではなく、キリストが私たちのためになされたことによる」という理解は大切だ。「信仰による救い」と聞くと、悔い改めと信仰の深さによって神が私たちを愛すると考えてしまいやすいが、信仰の量ではなく、信仰の対象によって我々は救われるのだ。飛行機に全幅の信頼を寄せる人と、ほとんど信頼していない2人が乗ったとする。後者が前者の100倍の不安を持っていたとしても、両者とも同じ目的地につく。飛行機に乗るだけの信頼があるなら、量ではなく、救いに移されるということだ。 

考えよう⇒福音と信仰について、ここで新たに気付かされたことがあれば、自分の言葉で言い表してみましょう。

5) 福音とミニストリーの正しい関係は? 

a) リーダーの犯しやすい誤解は、「福音」を、クリスチャンになるために必要な教義の最低ラインを考えること。 

それゆえ、そこからもっと進んだ、発展したメッセージを発しようとする。或は、霊的にもっと深いことを語ろうとする。たとえば癒しや内なる交わりについて等。そしてこれが教会の成長と考える。又もっと深いトピックスや訓練を求め始める。が、この傾向は「全体像」を見失わせる。実はいろいろしようとすることに「統一性」をもたらすのが福音なのだ。すべてのミニストリーは、常に福音によって力づけられるし、福音をベースとし、また福音の結果としてなされるべきなのである。 

b) オーケストラの音が合わない時は、隣の人の楽器に合わせてチューニングするのでは無く、調律の基準になる音に合わせる必要がある。我々は生活の中で、「自分以外の何か」に合わせてバランスを取って生きているが、それは正しい方法ではない。「何に対してバランスを取り、チューニングしているのか」がポイントだ。福音は私たちに、私たちの出会う出来事、人、環境に向かうのではなく、神に出会い、神とチューニングし直せと言っている。 

c) もしミニストリーの一つひとつの構成要素が、福音の結果として出てきたものでなければ、しばしばそれは福音のためのものとなり、逆に説教、教え、カウンセリング、霊的指導、正しい行い、文化を造ること、いや、福音宣教自体が、「福音」にとって代わることになりかねない。つまり、本来すべてのものがそこ(福音)から発すべきなのに、福音が「源泉」ではなくなり、ダイナミズムの中心でもなくなる。となると、説教の中心でもなくなり、思考や教会生活の中心でもなくなる。つまり他の「よいもの」がそれにとって代わってしまうのだ。その時、説教も人の心の中にあるものを明らかにする力を失ってしまう (Iコリ14:24-25) 

d) 福音は教会の大黒柱として、その重荷に耐えうるだけの無限の豊かさを持っている。「み使いたちもそれをはっきり見たいと願っている」(Iペテ1:12) のが福音の不思議だ。そこからいくらでも説教は語れるし、ストーリーも、テーマも、原則論もあふれている。福音は、教会の他の務めと混同されることも、あるいは逆に切り離さることも、ともにいけない。福音が他の務めと切り離された場合は、ミニストリーが単なる倫理や、教会プログラムのお勧めや、情報提供におわってしまう。福音と教会のあらゆるミニストリーの間に確かなつながりがなければ、両者がともにシュリンクすることになる。 

考えよう⇒福音の重要性、中心性について、わかったことばあればそれを自分の言葉で言い表しましょう。

6) 福音は単純なものではない 

福音は「口でイエスを主と告白し、心で神がイエスをよみがえらせたと信じるなら救われる」(ロマ10:9) とクリアーなものだが、どこにでも当てはまるフリーサイズの提示方法は存在しない。福音は文脈化されなければならない。つまり救済史的に語る時、初めて福音の「世界にはどんな望みがあるのか?」の答えが明らかになる。 

そのときこの神の美しい物語に参与したいという応答が生まれる。又聖書が、神の物語であると同時に我々人間の物語でもあることがわかる。この救済史から離れ、組織神学的になりすぎると、法ばかりを守る個人的なキリスト教になる。また、救済史に偏り過ぎると、物語的で、共同体的すぎ、その結果、律法と恵み、真理と異端の間のシャープな区別を見失うことになる。 

7) 福音はすべてに影響を与える ……Iコリント15:1-9、ローマ12:1 

a) 落胆と憂鬱:福音は自分を、他人の下す表面的な評価から解放し、喜んで悔い改めに応ずるものに変える。 

b) 愛と関係性:福音がなければ、自分の必要性を確認するために人の愛を求めるという共依存の関係となり、人間関係は自己中心的な、人を利用する手段となる。が、福音の中ではたとえ利益がなくとも人に寄り添える。 

c) 性:キリストの自己放棄が、性の結びつきにも反映される。そのような自己放棄的な真の男女の性の結びつきは、法的・社会的・人間的結びつきを代表し、永遠の結婚関係においてのみ成立する関係である。 

d) 家族:我々は父を知ることにより、親の期待という縛りから解放される。極端な依頼・敵意からも解放される。 

e) 自己抑制 (IIテモテ2:12) 

f) 他国人、異文化:恵みによって救われた以上、自己義認によるプライドや、文化の優劣をつけたい気持ちから解放される。 

g) あかし:神の恵みにより、あざけりや、傷つくことへの心配から解放される。 

h) 人の権威:イエスを主と告白することは、カエサルはあなたの主ではないということ。 

i) 罪とセルフイメージ:「自分を赦せない」という気持ちは自分が中心にあるから起こる。神のめぐみが中心に来るとき、自分や他人が自分に対して作った間違ったセルフイメージから解放される。 

j) 喜びとユーモア:最終的な神の勝利を知るなら、厭世主義・悲観主義から解放される。 

k) 貧富・階級に対する態度:福音は、貧しい人を見たときにも自らを謙遜にし、モラル的な優越感から解放する。なぜなら自分はもともと破産者であったものが、キリストの寛大さによって救われただけと知っており、「富む人は草の花の様に過ぎ去る」(ヤコ1:9-10) から。またパウロはピレモンに元奴隷のオネシモを、私を迎えるように迎えよと書き送った (ピレ16)。それから2000年続く奴隷制すら、すでに福音によって骨抜きになったのだ。 

考えよう⇒福音の相互関係 (6)、広範囲な影響力 (7) について、気づいたことを語り合ってみよう。