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センターチャーチ

「福音の文脈化」について #1(本文 P89〜)

I. 文脈化概要 

1) 文脈化とは?

世界各国に地方で成功したのに、都会では思ったように伝わらないというリーダーの声を聞く。郊外の成功例が都心では機能しないのだ。活気がなく、霊的に死んでいる。お金も希望もあるのに、都市では実りを見ることができないと。都市の伝道は、都市のライフスタイルに従うべきであり、この作業が「文脈化」contextualization なのだ。 

2) 健全な文脈化 

文脈化は「彼らが聞きたいことを語る」のではなく、聖書からの答えを示すこと。聞きたくない内容かもしれないが、それが今抱えている問題への答えなのだ。しかし、言語、形式は、彼らが理解できるもので、また彼らの心に響く「議論」と「懇願」を通したものでなければならない。時に文脈化は、福音の本質に妥協を加えることなくそれを翻訳し、時代と環境に適合させることを表す。文化との不用意な対立を避けつつも、聖書の真理が持つ攻撃性やスキャンダルさえも覆い隠さずに語るのが、宣教師の役目だ。

文脈化された福音には、明快さと吸引力があり、かつ罪びとの自己充足の生活にチャレンジを与え、悔い改めに導く。文化に寄り添い密着しつつ、対峙し挑戦する。文脈化不足で寄り添いに失敗したり、対峙しチャレンジすることに失敗するなら、我々のミニストリーは失敗する。が、逆にうまく信仰的に文脈化できるなら、彼らの社会や文化の問題解決と解答がイエスキリストにしかないことを示せる。 

実用主義な文化は、所有物や地位を得ることに突き進ませる。個人主義な文化は、自由至上主義となる。また別の文化は恥と名誉、人の評価と義務から成り立っている。芸術や哲学、学問などに高い価値を置く文化もある。 

どんな文化であろうが、健全な文脈化を経れば「ハッピーエンディングは、キリストにしかない」ことが分かって来る。どう決定するか、どう感情を表現するか、公私の分け方、個人とグループとの関係、社会の力の使い方、両性間、世代間、階級や人種の違いをどう取り扱うか、時間の感覚、摩擦をどう解消するか等、思考方法全般を文化が決定する。そして福音宣教を進めるにあたり、これらは無視できない。福音宣教の目的は、人の「行動」を変えるだけでなく、「世界観」を変えることだからである。 

文脈化は、聖書教義を解釈し、社会構造や生活様式に調和する概念に落とし込むことで、これは効果的な宣教のキーとなる。特に都市や文化の中心において教会運営する場合、特別にこの文化脈問題にセンシティブにならなければならない。そこは新しい文化が形作られ、また新しい方向付けがなされる場だからである。また、そこは普通でないテンションをもって、複数の人間文化が共存し、互いに複雑に混ざり合って出来上がっている場でもあるからだ。 

3) 文脈化の簡単な歴史 

これまでの宣教師を送り出す教会は、単純に現地の言葉、音楽、文化による宣教と礼拝を期待して宣教師を派遣してきた。しかし「墓の問題」など、現地の文化との「すり合わせ」で苦労した現地の宣教師は、「文化との合体」のために、キリストの神性、三位一体、福音の恵みなどを捨て去ったり、また新しいものが加えたりしつつ、「文化への文脈化」の名のもと、教義に歴史的な変更を加えてきた。信仰が文化に順応しすぎたのだ。 

4) 文脈化の危険 

この歴史ゆえに、保守的な人たちは当然のように、文脈化についてナーバスになった。一方リベラルな神学者は「リベラルなキリスト教こそが問題を解決する」と、聖書のことばより文化の価値を優先させることが多くなった。メーチェンは、自然主義的な言葉を再定義し、キリスト教信仰を現代人の口に合うものとした。キリスト教と自然主義の「和解」の結果、「不快なみことばは大切でない。不快でないみことばのみが大切」と、全く新しい宗教が生みだされた。これが昔のリベラルのやったことで、聖書の権威を無視し、対峙も攻撃もないキリスト教を生み出したのだ。信仰的な文脈化は、聖書全体の教えと文化の間の会話と実践を促すことによって可能となる。 

考えよう⇒「文脈化」を知っていましたか? If yes, 従来のイメージとの定義上の違いはありますか。

II. なぜ文脈化が必要か?

1) 文脈化の不可欠性 

福音の真理は相変わらず一つだが、この真理についての「文化を超越した伝え方」などは存在しない。伝えるためには、対象の文化への適合が不可欠なのだ。福音の真理は決して文化の産物ではなく、すべての人間文化を審判する立場にある。福音は文化より上に位置づけられるべきものだ。しかし、もし「文化を伴わない福音提示などない」という真理を忘れるなら、伝え方は一つと勘違いし、硬直的となり、保守的となる。逆に、もし「一つの真の福音しかない」という真理を忘れるなら、相対主義となり、舵の定まらないリベラルに陥る。 

言葉は(何語にせよ)文化満載である。翻訳は似た言葉への単純な置き換えであり、真の同義語は存在しない。 

(聖書の神と日本語の神の違いなど)本当のヤーウエのニュアンスを伝えるには説明を要し、場合によっては「神」以外の語がふさわしくなる。一つの語を選ぶと同時に文脈化ははじまり、ある民族には受け入れられるが、他の民族には逆となる。 

退屈な説教は、長すぎたり短すぎたりも関係するが、「時間」も文化だ。また早い遅いの感覚も皆違う。混合文化の場合に、だれに標準を合わせるかは注意が必要だ。どんなたとえや例話を用いるかも大切な要素だ。イエスの例話は、いつも生活体験に基づくものだった。ゆえに例話は、あるグループには近づく手段となるが、他のグループには疎外感を与える作用もする。全ての人を包み込む説教の仕方があるという「妄想」は慎まねばならない。 

文脈化は言語、語彙、感情表現、例話の問題だけではなく、さらに深い課題であり、思考回路もかかわる問題である。あるグループが「説得力がある」と感じるアピール法が他のグループにはそうでもないこともある。論理的なグループと直感的なグループがある。われわれが、もしある論じ方や説得方法を採用するならば、それはある人々に合わせて、それ以外を横に置くということでもある。 

2) 文脈化しないことの危険 

入念な文脈化は必要であり、新しい文化への意識的な文脈化がなされないところには、他の文化への無意識の深い文脈化が生じている。我々の福音宣教は、我々自身の文化に十分すぎるほど順応しており、また新しい文化への順応はすぐにはできず、できても不十分であることが多い。これがキリスト教のメッセージをゆがめるのだ。 

この文化脈の課題は、社会の「主流派」の人には理解が難しい。逆に少数民族、被抑圧グループはすでに2つの文化(自分文化と大文化)の中で暮らしているので、彼らは物事を判断する上で文化がどれほど影響を及ぼすかをよく知っている。魚が水を知らないのと同じで、アングロサクソンのクリスチャンは、自分の福音のどこがアングロで、どこが聖書なのかの境目を知らず、ここに文脈化のトラブルの生じる原因がある。彼らは、彼ら自身の説教、礼拝、宣教方法に変更を加えることは、福音の妥協と考えてしまうが、この場合、マルコ7:8「言い伝えを聖書の真理と同じレベルまで引き上げる」間違いを彼らは犯しているのだ。 

アメリカに多い、個人主義的傾向の強い教会にいるキリスト者は、共同体に深く入り込み、霊的な責任と規律の下に身を置くことの大切さを知らない。ゆえに教会ホッパーとなり、いろんなところに顔を出し、深くかかわろうとはしないこととなる。彼らにとっては会員になることもオプションなのだ。これも「文化」であり、この影響を受けた人は、教会の教える側にも教えらえる側にも両方存在する。 

またリーダーが、自分たちが影響を受けた方法やプログラムをそのまま繰り返すという失敗を犯すケースもある。 

もし彼が、一人の宣教師の語る45分の説教に感銘を受けた、あるいはある特別な賛美に感動した、ある特定の順序と長さの礼拝がよかったと感じる場合、その細かいところまでその人は適用しようとする。彼らは、宣教の表現方法を「自分達に文脈化」しているのであり、「彼らがこれから届こうとしている人たち」にではない。 

リディーマー教会を見学し、帰って行った人たちの教会を訪れてがっかりすることがある。プログラムが、(週報の書き方に至るまで)リディーマーのコピーなのだ。彼らはリディーマーの底に流れる神学的な原則や、いかにアメリカの都市文化を分析しそこに順応させていったかをつかもうとせず、自分たちの対象への「文脈化」を手抜きしていた。みな「文脈化」はするが、どのようになすべきかをよく考えていないのだ。 

考えよう⇒「文化」「文脈化」について新しく気づいたことを語ってみよう。

III. 文脈化はどうあるべきか?

1. バランスの取れた文脈化 

ジョン・ストットは、キリスト教のコミュニケーションを「聖書と同時代の世界との橋渡し」と言った。ところが、片方が現代社会に降りて来ていない「行き先不明の橋」がある。つまり人の心の問題に聖書の真理が届いていないのだ。一方で、「どこからも来ていない説教」もある。時事問題を語るだけで、それが聖書のテキストからは発したものではないのだ。 

聖書は絶対的に正しく、権威がある。しかし間を取り持つ者の聖書理解が間違っている場合がある。いや、常に部分的にはそうなのだ。だから説教者は常に修正することに open であるべきだ。同様に聞き手の文脈に対する理解も、部分的には常に間違っている。だからこの方面でも更なる洞察と修正が必要となる。 

多くの説教者は、「聖書の釈義」から「聞き手の新しい文化」への道は one way でよいと考えている。彼らは、方向を変えることは、聖書の権威を犯すことになると考えるのだ。そのベースには、「私は聖書を正しく理解している。文脈化は重要ではない」との2つの間違った考えがある。これは、我々が「罪びと」のみならず、「有限な存在」であることを忘れている。では、どうすれば聖書の権威と高潔さを保ちつつ、我々の理解の欠けを正すことに open であれるか。新しい文化に対し、我々のメッセージを信仰的かつ実り多いものとすることができるか。 

それは橋の行き来が「双方向」であることによって可能となるのである。 

我々は、強い、深い、暗黙の先入観をもって聖書に接しており、そのベースは、我々が自分の文化の中で聞いた「声」にある。そしてその声に無意識に影響されているため、聖書を正しく読み、我々の考えを(変えるべきは)正しく変え、橋の先にいる人に信仰に立って届けることができないのだ。文化は目に見えないものだから、我々は語りつつ、一方で聞くことも大切で、我々の言うことに対する、聞き手の疑問や、反対意見や、希望を聞くのだ。このやり取りで、これまで聖書が教えていたことを、我々自身の文化のレンズのせいで我々が見間違っていた、あるいは重要さに気付いていなかった、あるいは読み違っていたということに初めて気付くのだ。 

一つの比較の例として、権威主義的な韓国系教会と、民主主義的な米国の教会を挙げる。両者は保守的な改革派神学に基づくが、人間の権威をどう考え行使するかのアプローチが違っていた。前者の韓国系教会はローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によってたてられているからです。」へブル13:17「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」から、「聖書は指導者の権威を尊重せよと言っている」と主張。他方後者の米国系教会は、マタイ20:24-28「あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、皆に仕える者になりなさい。……人の子が仕えられるためではなく仕えるために、……来たのと同じようにしなさい。」Iペテロ5:1-4「……支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。……」使徒5:29「人に従うより、神に従うべきです。」から、組織や権威に対して疑いを持つことを良しとする。 

このように、新しい文化への「疑問」が、自分の文化から来る「盲点」を教えてくれるのだ。たとえば、「神はすべての人を愛する」と言いながら、一方で「恵みによって救われた人を愛するが悪人を憎む」とも言う。西洋文化の人は、全てを愛する神を好み、伝統的な種族の人たちは、さばきの神はOKで、逆にすべてを愛する神に不快感を持つ。皆どこかにスポットを当て、他を捨てる。聖書の中のどこかに焦点を当て、他を見ないなら、聖書理解がゆがむが、他の文化はそれに気づかせてくれる。つまり違った文化との相互作用が、これまで見えなかったものを見させ、その人を成熟した聖書的クリスチャンに、ゆっくりかもしれないが確実に変えていくのだ。 

また富や清貧について、ある箇所では個人の富や豊かさに positive で、神がアブラハムやヨブを祝福したとある。が、他の箇所ではシビアな警告を発し、お金の危険性を語り、「神の民には、正義を行い貧しい人を世話する責任がある」と語る。富を良しとするか、貧しさを良しとするかの二者択一だが、皆一方を良しとし、他方を無視する。が、ここでやっていることは単純化であり、聖書にすべてを語らせず、聖書の教えを平板化し、ある部分を無視し、他を誇張するやり方だ。他の文化との接触は、我々の抱える特定のゆがみに対するチャレンジである。 福音の聞き手に、「自分の文化的信仰を福音によって修正すること」をもし我々が期待するなら、まず伝える我々が、新しい文化に触れて自分自身の福音理解を修正することを学ぶ必要がある。その時、橋が「双方向」で使われる必要があるのだ。聖書が外の文化によって修正されることはあり得ないから、クリスチャン個人の福音理解やその人の文化から来る福音理解が変えられる必要があるのだ。その場合、橋の上には語り、聞き、語り、聞き、再び語りと、大量の交通が発生する。が、毎回、感動をもってそこから来る変化に聖書的に接していくしかないのだ。 

考えよう⇒我々日本人独自の「文化の中で聞く声」、かつ聖書を偏って理解させがちな声とは何でしょうか。「権威主義」と「民主主義」のどちらに日本文化は親和性があるでしょうか。「さばきの神」と「全てを愛する神」とどちらに日本文化は親和性があるでしょうか。「富を祝福とする神」と「清貧を良しとする神」とどちらに日本文化は親和性があるでしょうか。