IV. 文脈化の先にあるもの
1. 神の愛と審判 売春婦として働いていた女性たちは自己嫌悪が強すぎ、イエスの愛と赦しを語ってもなかなか受け入れられないことがある。そこで、韓国のノンクリスチャンの売春婦に対し、ある宣教師が「予定説」を語った。予定説が聖書にあることは皆が認めるが、それと矛盾する記述も聖書にはある。一方で平等主義文化の西洋の民主的クリスチャンにとって、予定説の「神の支配と、全面的コントロール」は、受け入れがたい教義Bだ。つまり「神が歴史を完全に担っており、自分が選んだ人々には心を開いて、彼らには永遠のいのちを与える」と言うのは好きではない。ところが20世紀半ばの韓国ではそれがOKなのだ。ゆえに 彼女らに語った。神が良いと思うことを決め、王として治める。すべては神の主権であり、神の人々は、神の意志で守られる。やってきたこととは関係ないと説いた。それは彼女らにとってよかった。権力者がそういう行動をとるのは韓国では普通だし、救いについても神の主権と言うのは納得がいく。「どうしたら選ばれているとわかるのか?」という質問に対しては、「もし福音を聞いて、受け入れたい、信じたいと思うならそれが証拠だ。神が探し、聖霊が働いている証拠だ」と答えたところ、それに応答した者が大勢いた。この宣教は、AとBの2つの信仰を区別し、その内の一つを他の上に載せて「もし統治者なる神を信じるなら、あなたが何をやって来たかは関係ない。恵みであなたを救うと神が言っているのに、なぜ信じないのか?」と聞いたのだ。
2) 偶像礼拝としての罪ティムケラーはマンハッタンでミニストリーを始めたとき、キリスト教の「罪の概念」に対する文化的なアレルギーに直面し、それを契機に偶像礼拝の罪の研究に向かった。自分の人生の全てに順位付けと意味付けをするのが偶像だ。良いものを含めて。それも神以上に激しく。何かの上に自分の人生を組み立てるとすると、それが何であっても、情熱も、選択も、すべてをリードすることとなる。たとえば、もし私たちが真理より他人の評価を重んじるならうそをつくようになるだろう。家族より金儲けを大切にするなら、キャリアのために自分の子供を無視するだろう。偶像は、自分の中の駆り立てる力。それは恐れであったり、中毒であったり、誠実さの欠如であったり、他人への嫉妬や怒りであったり、様々な顔を持つ。
じつは神を愛すること以外に、この偶像崇拝の立て直しは不可能なのである。
一世代前の西洋の人たちは、「良い人」になることを一番大切なこととした。が、今は「自由な人」に最大価値を置くようになった。この受け入れやすい「自由に生まれた」ということ(A教義)をベースに、「神の前に罪びと」というB教義を説得していく。それはまず上記の偶像のどれかに縛られた自分に少しでも気づいたら、「自由」に最大価値を置く人に、逆説的に「もし神に仕えないなら、あなたの考えている自由は与えられないよ」と説くのである。
旧約の預言者たちも、パウロも、文化を批判するのに偶像崇拝を指摘した。たとえば、アメリカ人は「繁栄が幸福をもたらす」と信じ切ってきたが、それは幻想だ。なぜなら中途半端なこの世の楽しみが人の心を満足させることはないからだ。その結果、民主主義の、かつ満ち足りた生活のど真ん中で、奇妙な憂鬱に悩まされることとなる。この憂鬱は偶像のもたらす苦々しさで、最後は失望に終わる。うその神は、彼 らの約束するものを決して与えないのだ。つまり繁栄は繁栄を生むが幸せは生まない。カネはカネを生むがそれが幸せを生むわけではない。
日々の生活の「塹壕」の中で、無神論なんてありえず、礼拝をしないこともありえない。問題は何を礼拝するかだ。我々は良いキャリアを得るために、小金をためて安心するために、あるいは政治的に何かを為すために働く。全ての活動は礼拝だ。たとえそう認めなくとも。ただ神でなく被造物を礼拝し、それが最後にはあなたに霊的荒廃をもたらすのだ。彼らはあなたを駆り立て、礼拝させ、その礼拝対象が最後にはあなたを生きたまま呑み込んでしまう。あなたは奴隷と化し、不幸だが、それがなぜだかわからないのだ。
考えよう⇒人間は必ず何かを礼拝するという考えには賛成しますか? その時、それまであなたの抱いてきた偶像イメージと、真の偶像とはちがって来ますか?
3) 他のプレッシャーポイント
3-1) 性の商品化という問題
商品を介した供給者と顧客の関係を「甲の関係」と呼び、従来からの歴史的な人間関係を「乙の関係」と呼ぶなら、「甲の関係」は良い商品が有利な条件で販売される間だけの関係であり、顧客にこの関係を維持する義務はない。しかし「乙の関係」は、そもそも良い条件をベースにした関係ではなく、 相手の良いところや関係そのものに焦点を当て、愛をコミットする関係なのだ。今、この甲の関係が乙の関係を凌駕しつつあり、人々は、家庭や絆というものを、もしそこに達成感がないなら、その関係を抵抗なく切断することができる。「商品化」とは、社会の関係性自体が目減りし、経済価値に置き換えられていくことを表す専門用語だ。
ここにセックスが登場する。従来は配偶者のみが対象であり、結婚によって全生涯を預けることを約束し、他との自由な結合を放棄して、初めて体を預ける。この、人生のコミットなしのセックスは、慢性的な寂しさと慣れに導く。セックスは本来、コミュニティーの中で人と人をつなぐものだった が、今や商品と化した。セックスは神がデザインしたと聖書にある。自己満足のためではなく、自分を捧げることで、人は共同体を形成していくのであり、これがキリスト教道徳だ。もし「共同体の中の良い文化」の、誰もが賛同すること(信仰A)の一つとして、このキリスト教道徳を示すことができたら、説得力を持つに違いない。
考えよう⇒性の乱れと、文明全体の商品化傾向は結び付いていましたか?今多くの人が共同体を求めますが、キリスト教道徳による「性道徳の改善」が(信仰A)として、その解決策になると思いますか?
3-2) 人権問題
西洋社会は、正義と人権に強い関心を持つ。同時に、神はなく、たまたま進化してここにいるだけであり、超自然も死後もない、と言い始めている。しかし「人権」と「神無き社会」は矛盾する。ドストエフスキーは、「もし神がいなかったら、何でもできる」と言う。進化の結果なら弱肉強食が当た り前であり、神なくば強い国が弱い国を圧迫してどこが悪いのか、強い種族が弱い種族を押さえつけるのは当然だとなる。若い人たちは正義に敏感だ。ゆえに「人権と正義とは神ある世界で初めて意味 を成す」という点で推すことができる。
4) 訴えた後、聞き手をなぐさめる
パウロはIコリント1:18~2:16で、ギリシア人の知恵に対する情熱や、ユダヤ人の力に対する欲求を単に批判するのでなく、逆にこれらの「良いもの」に対する彼らの追求の仕方は自己破壊への道であると主張、自己文化の中でそれらを達成するためには、イエスキリストに在ってその道を見つけるべきだと促した。文化に入り、偶像にチャレンジしたら、キリストを提示する、この使徒パウロのやり方にフォローすべきだ。注意深く文化に入れば、それに対する語り方が分かって来るのだ。
文化のフレームワークにチャレンジしたら、彼らは不安定になるので、「あなたの探しているものはキリストになかに見つけることができる」と再びバランスを取り、慰め「この筋書きの生活にのみ解決があり、ハッピーエンディングはイエスにのみある」と、イエスにあるストーリーを再び語るのだ。 この「訴え」と「招き」は、前段階をすっ飛ばして提示することはできない。聞き手の最も深いところの欲求は、福音的なコミュニケーションの全体を通して初めて知ることができるからだ。
考えよう⇒Iコリント1:18~2:16は、知恵を求めるギリシア人、力を求めるユダヤ人に対する 訴え、あるいはなぐさめとなるでしょうか。
5) あがないの文法
聖書にはいくつかの違ったあがないのモデルがあり、ティムケラーはそれを「あがないの文法」「あがない言語」と呼んでいる。どれにもキリストの救済の業が示されている。
- 戦争文法・戦争言語:罪と死、それに打ち勝つイエス様
- 市場文法・市場言語:みのしろ金、刈り取り、負債
- 捕囚文法・捕囚言語:解放、帰郷
- 神殿文法・神殿言語:きよめ、神に近づく
- 法廷文法・法廷言語:審判、有罪、義
これらのうち、何かに注目し、何かを無視することはできない。すべて聖書のインスピレーションを反映する文法・言語であり、全てが、イエスキリスト以外ではもたらすことのできない「救い」を表す。各種の気質あり、文化あり、それぞれの気質を代表することば群である。そして聞く人によって、響く内容が違うのだ。つまり
- 圧制、虐待、憂鬱と戦う人や、奴隷状態からの解放を願う人は、1) 戦争文法、2) 市場文法から力を得る。
- 罪責や恥からの解放を願う人は、4) 神殿文法、5) 法廷文法から力を得る。
- 疎外感、根無し草状態、他からの拒絶で悩む人は、3) 捕囚文法に引き付けられる。
ハートとなるのはこの5つに共通して流れている「イエスの身代わり」で、これが中心テーマだ。イエスは戦い、支払い、疎外され、犠牲を払い、私たちに変わって罰を受けられた。そして救いを成し遂げた。 私たちは何もしていない。だからこれらすべての中心部分に「イエスの身代わりの犠牲」がある。この「人を救うために自分のいのちを与えるストーリー」は、人をひきつけ、奮い立たせ、また衝撃を与える。 この「あがない」をいろんな文法で表現することが、「あなたの最大の問題を解決し、あなたの最大ののぞみを成し遂げるのに、このイエスの身代わりの死がどれほど機能するか」を、多種多様な文化に伝える 手段なのだ。
考えよう⇒自分に響く文法はどれで、そのもとにある悩みは何でしょう。
V. 福音の文脈化 (p89〜133) のまとめ
今の世は、破壊、逆説、皮肉、フラストレーションがあふれている。人々はおとぎ話のようなエンディングにあこがれている。これは長くて深い、人類の夢であり、皆が死もなく、全てをいやす永遠の愛の世界を経験したいと思っている。福音は決してセンチメンタルな人生を描かず、逆に無宗教の世相批判よりよほど暗い視点を持つ。サタンがおり、悪霊集団が働く。我々は損なわれ、神の介入なしにはどうしようもないと。しかし福音はこの、愛と、死に対する勝利についての、驚くべきメッセージを持っている。
人は神のかたちに造られ、永遠に愛し合う関係にある。またイエスの復活の証明は難しいが、間もなく目の前で同じことが起こるのだ。もしイエスキリストをあなたが信じるなら、あなたもこの死から逃れることを見聞きし、天使や超自然の存在と話をするようになる。そして永遠のいのちを得るのだ。なぜか?それはあの方が殺されたから。私たちが永遠のいのちを得るのは、あの方が殺されたから。私たちが大勝利を得るのは、あの方が苦しめられ、殺され、打ち負かされたからなのだ。イエスキリストの救いの中では、 ハッピーエンディングは、おとぎ話ではないということ。福音こそが、私たちが人々に提供できる、最も深い慰めなのだ。あなたが伝道者として入って行って、チャレンジする勇気が与えられたなら、最初にそれを経験した者として、パッションを持って、愛のドリルと発破で、大胆にこの「慰め」を伝えて行こう。
「私たちは、自分のみたこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:20)
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめとギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1:16)
考えよう⇒文脈化という作業の中で、最も心に残ったワーディングは何で、それはどんな点ですか?(以前学んだ、らせん、ドリルと発破、信仰Aと信仰B, etc. あるいは、今日学んだ内容から)