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センターチャーチ

「都市に対するビジョン」について #1(本文 P135〜)

(1) 聖書の中の都市の2つのイメージ

多くのクリスチャンが都市に対して無関心だったり、敵意を持っていたりする。都市は信仰や道徳を削り取るネガティブな力を持つと考える人も、都市について夢物語を語る人もいるが、聖書の考えは違う。それは、敵意でも夢物語でもなく、都市は良い方にも悪い方にも人の性質を拡大する拡大鏡のような役目を果たし、二元的な性質をもつというのだ。ゆえに聖書は都市を、逸脱と安息、あるいは暴力と避難場所の両面から描く。創世記4章、11章の都市建設は、カイン(つまり最初の殺人者)の流れで描かれている。またソドムとゴモラも悪から描かれている。が、詩篇107篇では、一転して、町のない人々は哀れだという。「彼らは荒野や荒れ地をさまよい、人が住む町への道を見いだせなかった。」(107:4)「彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出され、彼らをまっすぐな道に導き、人が住む町へ向かわせた。」(107:6-7) と。つまり町は、人のいのちの栄えるところであり、社会の積極面なのである。このように聖書の都市観は微妙だ。神の栄光を表すためにこの積極的な面にスポットを当てたかと思えば、神への反逆の媒体とも描く。都市は贖いの歴史をつづるうえで、梃子(てこ)の様な重要な役割を果たすと言えよう。ティムケラーは、都市には神賛美につながる「約束」と、人を傲慢にする「影」の両面があり、その緊張関係を都市から学ぶべきであると考える。聖書に始まった二面性は今も続いているのである。 

考えよう⇒あなたの都市に対するオリジナルの概念は、プラス、ニュートラル、マイナスのいずれですか? 

(2) 旧約聖書の都市の定義

まず「都市とは何か」を問わなければならない。今日「人口の多さ」で定義されることが多いが、この概念はここではふさわしくない。町と訳されるヘブル語(イール)は、元来人々を守る防護壁・城壁を意味し、そこには 2〜3千人の人が壁に囲まれ生活をしていた。ゆえに旧約聖書の都市は人口の大小ではなく、「密度」を表した。要するに人々が近接して住む場所が旧約時代の都市なのだ。詩篇122:3には「エルサレムは1つにまとまった都」とある。これも密度を表す。小さな家、狭い道に、人々 が一緒に過ごす空間だった。古代都市は5〜10エーカーのサイズで、人口は240人/エーカー。ちなみに今のニューヨークは105人/エーカーで、高層にもかかわらず古代より密度は低いのだ。 

(2-1) 上記の肩を寄せ合う生活が3つの特徴を生み出した

1 安全と安定 

初期の都市には壁があり、そこには安全と安定があった。都市の基本的な機能に、敵対者(軍隊、略奪者、復讐者、獣など)からの保護があった。また都市は、申命記28:52に「あなたが頼みとする高い堅固な城壁」「あなたの神、主が与えられた町囲み」とあるように、「自信」「信頼」の象徴でもあった (箴言21:22、申命記28:52)。また箴言25:28には「自制の効かない人は城壁のない都市」とある。都市は、生活を危険から守り、自らのコントロールの下に置ける場所なのだ。この安定性ゆえに、法も、秩序も都市において発展した。都市の門には長老がすわり、法により人々をさばいた(逆に都市の外では、争いは剣により解決した)。神はイスラエル人に、「のがれの町」の建設を命じ、過去の殺人に対し、そこで審きを申し出るシステムを作った。 

この「安全・安定の場としての都市」は現代の読者にはピンと来ない。昔は安全な場所だったかもしれない が、今は犯罪率の高い場所だからだ。しかし、「町の犯罪率の高さは避けがたい」という考えは最近否定されつつある。この新しい考えが、世界の無秩序な町々を変え、変化と成長をもたらして来たからだ。従い我々は「都市は安全な場所」という定義を広めなければならない。実際、香港、シンガポールなどはうまく成長し、多くの人材や投資を呼び込んでいる。 

聖書時代、殺人者が起訴されても、その血の復讐から逃れるシステムが都市にはあった。今も、経済的、政治的な圧迫を受けた人が、自分の故郷を離れて、良い生活を求めて都市に流入する。そして新参者の移民たちは、他国の都市に自国に近い環境を作り「リトル……」を形成することで、新しい土地でのルールや生き方をバランスよく学ぶようになった。またすべての人口統計学上の「少数者」たちも、自分の仲間が多い「街中」においては、人目を惹くことも、奇妙に見られることもない。都市が今も成長し続ける理由は、大多数の人が、都市は住むのに安全なところだと思っているからである。

2 多様性 

聖書も都市の多様性を謳う。これは安全と高密度の結果でもある。アンテオケの教会にはいろいろな人種がいた (使徒13:1)。これは都市で福音が宣べ伝えられるときに起こる自然な現象だ。都市には多くの違うグループが住むからだ。少数者でも安全を感じ得る場所だったため、都市は必然的に人種的・文化的に多様化するのだ。しかし多様性は、それだけではない。人の社会は、いくつかの要素を求めている。(1) 経済的秩序……そこで働き、ビジネスが成立する、(2) 文化的秩序……学究、芸術、演劇などを追及する、(3) 政治的・法的秩序……事件がさばかれ、政治家が集まるなど。もしこれらの各要素をピザの具材(トマトソース、チーズ、ペペロンチーノ、ソーセージ、パン生地)と仮定すると、隣の家は我が家とは別のピザの1ピースだ。住むだけではない。そこには働き、買い物をし、本を読み、学び、音楽を楽しみ、礼拝し、遊ぶ場所があり、政治の場や、法廷もある。すべてが近所、歩いて行ける距離 にある。今は地方でもある程度はそろう。が、距離感が違う。従い、ピザの具材は、地方でもそろうものの、各要素が離れ離れで、ピザには成らないのだ。

3 生産性と創造性 

聖書は、都市が生産性と創造性においても優れていると言っている。芸術、建設、美術など、人の文化は都市において発展した。創世記4:21「(カインの建てた町において、カインの子孫の)ユバルは、竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった。」とあるように、人の文化は都市の建設とともに発展した。互いに近くに住むため情報交換が便利となり、同じ業種の人が集まりやすく、そこから互いに刺激し、新しいものが生まれ、また広がる。多くの才能が集まれば、そこからさらに高い生産性が生まれ、それに対する需要も増す。現代の「集会」の目的は「関係づくり」だ。同業の専門知識を持つ、似たレベルの人たちが集まる場。それは一時的な「都 市」形成であり、これらの関係は全て最終的には、高い生産性と創造性に結びつく。 

歴史の開闢以来、都市は、良いにつけ悪いにつけ、文化の集中する場であった。都市を都市とする要件は、人口などのサイズではなく、互いの近さだ。都市には人と人の間の物理的なスペースがない。これが、都市が各人の特別性や、潜在力を高める理由なのだ。 

考えよう⇒あなたの都市に対する概念は、この時点で変化しましたか?if yes それはどの部分ですか?

(2-2) 古代の都市 

イール(都市)という概念が最初に旧約聖書に出て来るのが、創世記4:17、カインが人殺しのあと、神のみ前から追い出され、エデンの東、ノドの地に行ったときのことだ。反逆者カインは都市を立てた。人によってはこれを、都市に対する創世記のアンチな考えの表れだと見るかもしれない。が、この連想は物語への洞察を欠いている。これは、カインがこの世において安全なところを求めたことに対する結果であり、カインの創世記4:14-15における恐れと要求(人は私を見つけて殺すでしょう)に対して、神が与えられたものだった。逆の言い方をすると、都市は最初から避難場所だった。かつ、創世記4:17-22(天幕に住み家畜を飼う者の先祖、楽器を奏でる者の先祖、冶金業の先祖たちの登場)は、都市の設立と文化の発祥が密接にリンクしていることを表している。 都市が人間の生産性を形作ったのである。都市が設立して直後に、ユバルという音楽家が現われ、又、トバルカインというもの作りの技術者も登場した。建築、農業、芸術、これらのすべての始まりは都市の始まりと同時である。つまり、都市が人間の生産性を形作ったのだ。 

この文化に関する記述は、周辺の中東諸国にはショックだったはずだ。彼らは(科学にせよ、文筆にせよ、芸術にせよ)すべて神か、神話的なベースによるものと考えていた。歴史的、あるいは人間的性質から出た者と言う考 えは、中東の一般的な考えとは相いれないものなのだ。しかし創世記の物語の中では、人が神の下で、文化の発展を通して創造の業に貢献する。都市生活は、エデンの園から追い出された後の人類への罰という、そんな単純なものではない。かえって都市にはもともと、人間に対し、安全と文化を高める能力が存在するのである。 

カインの流れからも分かる通り、これらの能力は、罪と、神への反逆の影響で、巨大な悪をも生み出し得る。創世記4:23-24のカインの子孫レメクの歌「俺は一人の男を殺す。カインに7倍の復讐ならレメクに77倍の復讐を」から、カインの都市に住む者達に漂う死の文化をかぎ取ることができるからだ。これが、都市が2つの性格を持つことの最初の記述だ。巨大な悪も、また大きな善をもたらす能力(芸術、科学、技術)をも生み出し得るのだ。 

「神に敵対する文化の発生」と、「最初の都市の建設」が同時に描かれているのは、決して偶然ではない。が、間違った結論に至ってはならない。ある学者は「都市の問題」として、「都市は文化のエネルギーも積み上げるが、同時の悪の潜在力もため込む」という (アモス 3:9、ミカ1:5)。この「文化の座」は、神の栄光をもたらすために使われ (Iコリント10:31)、又、同じく神と人に仕えるために用いられる (出エジプト31:3-5)。が、一方で自分の名をあげるため (創世記11:4) にも。それは自分のプライドや、自己救済や、暴力や、虐待に行きつくのである。都市をダメにするのは、その人口ではなく、そこにある神に反逆し、神以上に自分に頼る心だ。 

馬はネズミより役に立つが、狂った馬は狂ったネズミより被害が大きいのと同じく、罪の下にある都市も、より大きな破壊力を持つ。創世記の物語を見る限り、都市の堕落や偶像崇拝の問題がいかに大きいかが分かる。が、これは都市でなく、人に原因がある。 

カインの血の流れは、バベルの塔建設でクライマックスを迎える。塔は、「神に仕えることから離れたアイデンティティー」を人に与えたが、これは都市が人に、どれほど自己祝福・自己救済にむすびつく罪的なドライブを掛けるかを示している。神はこの「自分を高める動き」にストップをかけ、言葉を乱し、散らされた。 

(2-3) 族長たちと都市

この後も創世記は、不名誉なソドムとゴモラという都市の暗部に光を当てる。神は「下って行った」(創世記18:21) とあるがこれはバベルの時と同じだ (11:5)。バベルは後のバビロンの語源になった言葉で、「神に歯向かう都市文化」の原型をされた。アブラハムの甥のロトは、町の生活を選ぶうえで重大なミスを犯したが、信仰のないコミュニティ―で都市生活を送るなら、どれほどの霊的な荒廃を家族にもたらすかが、ロトの妻や娘たちの行いから伺い知ることができる。にもかかわらず、アブラハムは「神の都」を待ち望みました。それゆえにその時すぐに町に入ることを拒み、天幕生活をつづけたのです (ヘブル11:8-10)。都市が本質的に悪いものだとしたら、アブラハムの希望の根っこが都市に在ったというのはおかしくなる。確かに都市が人間に自己拡大を望ませ、それ ゆえに神の支配に歯向かう思いを起こさせることは理解できるが、神に仕えるという意味での都市の形態は、人の生活を通して神のみこころを実現するのに大きな役割を果たすのだ。 

考えよう⇒希望の根っこ (ヘブル11:10) や神に仕える素材(出エジプト31:3-5)が都市にあると思ったとき、どのような変化が起きますか? 

(2-4) イスラエルと都市

神はイスラエルの民に「のがれの町」の建設を命じた。なぜか。それは、都市においては田舎では不可能な「正しい裁判」が可能だったからだ。田舎では過失殺人が、際限のない暴力と報復の応酬になってしまっていたのだ。 安全と人口密度が、法学・法治の発展を促した。またそこでは長老が、それを聞いて判断した。神は「正義の確立」のために町の建設を命じたのだ。しかし、贖いの歴史における、都市の役割の最大の変化は、エルサレム成立において訪れた。「私たちの名を上げるため」に建てられたバベルとは違い、エルサレムは「神の住む町」として成立した。ダビデが攻略し、契約の箱が持ち込まれ、ソロモンの神殿ができたときに成立した。これは神の国の前触れだった (IIサムエル7:8-16)。神殿はシオンの高台に高くそびえたが、この高い建物はバベルのように自分たちの誇りや繁栄のためではなく、詩篇48:2「シオンの山は大王の都。高嶺の麗しさは全地の喜び」とある通り、「全地の喜び」だった。人や建設者の名誉でなく、神の名誉のための豊かな都市文化であり、この「神に仕え るための都市」が神の計画だった。 

(2-5) ヨハネの黙示録における都市

ヨハネは黙示録について「この預言の言葉を取り除く者がいるなら、神はその受けるべき分を、いのちの木と、聖なる都から取り除く」(22:19) と言っている。ヨハネはこのように、大バビロンと聖なる都エルサレムの2つを、黙示録を通して常に対比した。前者は神の裁きを受けるもの、後者は神の賜物と救いを受けるものとして。 

考えよう⇒「神に仕える都市」「神の賜物と救いを頂く受け皿」としての都市イメージは、あなたの都市生活にどのような変化をもたらしますか。 

(2-6) ヨナと都市

ヨナは新たな都市イメージを展開している。通常は神の民に預言者は遣わされる。が、ヨナは、まずニネベへ。しかしヨナは逃げ、大魚の腹に入り、再びニネベへ。今度は説教をする。すると人々は悔い改め、神は滅ぼすのをやめた。ヨナは怒り、神は同情心やあわれみがないことを叱る。神はここで住民の「数」から都市の大切さを 語る。「これほどの多くの人をあなたは惜しまないのか」(ヨナ4:11) と。これは都市の大切さを説明する決定的な要素であり、神の心からの議論だ。詩篇145:9には「私の造ったすべてのもの」と全被造物に対する神のあわれみといつくしみが記されているが、特に人は神のイメージであり、「神が気にされる都市の人々を私たちが無視できるのか、いやできるはずがない」という我々の応答が自然と導かれる。都市には、神のイメージでないところは一インチ四方もないのである。 

(2-7) 捕囚の民と大都市バビロン 

神はまずエレミヤを通して、「そこで減らずに増えよ」(エレミヤ29:6) と捕囚の民に語った。「そのことで神の民としてのアイデンティティーを保ち成長せよ」と。同時に「その大都市に落ち着き、その都市の生活にかかわり、家を築き、耕せ」と (29:5)。そして、我々を最も驚かせるのは、「都市に仕えよ。都市の平安を求め、その都市のために主に祈れ」(29:7) という命令である。バビロンで生活する間、その都市にゲットーを築いて自分の種を増やすことに専念するのでなく、公の善に益するように働けと言われたのだ。これはすごいバランスの要求である。創世記11章から始まって、黙示録に至るまで、バビロンは自己中心、プライド、暴力の上に成立した文明の典型、究極の都市とされて来た。まさに神の町とは真逆の存在、にもかかわらず、神の民は、この都市の最高の住民となるように召されたのだ。神は、ユダヤの流浪の民に向かって、都市を攻撃することも、軽蔑することも、都市から逃げることもさせず、逆にその平和を求め、都市を愛し、その中で成長して行けと命じた。 

神はそれでも自分の救いの計画を考えている。神は自分の民を立て上げ、福音を行きわたらせ、人々の和解を考えておられる。そして神は、ご自分の民に、この偶像の町に良いものを提供することは良い事なのだという確信を与えられる。「その都市が繁栄すれば、あなた方も繁栄するから」(29:7) と。町を愛し、町に仕えるというのは、愛やあわれみを示すことだけではない。それにより、神の民の手の力を強くするのだ。そしてそれが後々、 福音を世界に行きわたらせる力となる。捕囚の民の他者への影響力をトレーニングすることは、将来彼らが故郷に帰り、そこを回復する上で必要な影響力だったのだ。 

神は、神の民の持つ富と、都市を建て上げる有効性を結び付けた。残念なことに、罪や堕落のない都市はこの世に存在しない。都市は他の場所より、良いものも悪いものも度を増している。住みやすさも住みにくさも度を増している。刺激も重苦しさも度を増している。都市の持つテンションや緊張から、我々はどうしたら解放されるのか。これが、贖いの歴史の明らかにしてくれる内容なのだ。神の民と、偶像の町の回復こそが、神のなす国々への祝福、世界の贖いの視座なのだ。特に新約では、都市が福音の伝搬に大きな役割を果たすことになる。 

考えよう⇒都市の最高の住民となって、伝播力を鍛えるためにここに置かれている。使えることで神の民の手の力が強くなる。この発想はあなたにどのようなインスピレーションを与えますか。