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センターチャーチ

「都市に対するビジョン」について #4(本文 P173〜)

(9) クリスチャンは都市に対してなにをすべきか

都市が我々に恩恵を与えてくれるなら、我々は、1. 都市を正しく評価し、2. 自分の住む場所でカウンターカルチャーとなり、3. 都市全体に善をなすことに大胆にコミットすることによって、この恩恵に報いるべきである。 

(9-1) 都市を正しく評価する 

ヨナはニネベを愛さなかった。また多くのクリスチャンはこれと同様に、「神への義務感」から都市に来たものの、その多様性や霊性を見下している場合がある。しかし都市でのミニストリーが効果的になされるためには、クリスチャンが都市を評価する必要がある。都市を愛し、そのこと自体によって自分が元気になるというのは大切だ。それは、住民は皆が都市生活を楽しんでおり、まずそれに合わせない限り、彼らを教会には導けないということだ。 

また、都市嫌いの人は、結果的に教会にも都市にも長居しないことになってしまうからである。 「都市が人を悪くする」のではなく、「都市が人の中身(罪を含めて)を拡大する」が正しい理解であり、そのベースに立たなければ、牧会者のメッセージは不健全な内容となってしまうだろう。 

「田舎は信仰を育てるが、都市は信仰をダメにする」も間違いだ。キリスト教信仰を抑圧されてきた所から来た人たちが都会で初めて福音に触れることがあり、また名ばかりのクリスチャンとして育った人が都会に来てチャレンジを受け、活気ある確かな信仰に変えられる場合もある。 

「神は田舎を愛し、都市を嫌っている」も間違いだ。逆に「田舎には植物が多く人は少ない。が、都会は人が多くて植物が少ない。神は植物より人を愛しているから、神は田舎より都会を愛しているはずだ」と語る神学者がいるが、この方が神学的には正しいだろう。人は神のかたちとして造られた、最後の、かつ最高の、被造物 (創世記1:26-27) であり、人があふれかえっている都市は、その意味でも、神の目から見て最も美しい光景のはずである。 

(9-2) 自分の住む場所でカウンターカルチャーとなる 

クリスチャンは、都会に「住む」だけでは不十分で、そこで「コミュニティーを形成する」必要がある。聖書には、「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂きが天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記1:14) と、自分の名を高めるために都市を築いた残念なケースがあるが、その一方で、「主は、私たちの神の都で大いにほめたたえられるべき方。高嶺の美しさは全地の喜び。それは大王の都。」(詩篇48:1-2) と、神の都エルサレムのすばらしさが描かれており、これらは真逆の都市描写だ。言葉を変えると、神の喜ぶ都会のコミュニティーは、自己満足でなく、仕えることから発すべきであり、その文化の豊かさからくる喜びを世界に流しだし、人間の都市を、神の都市に作り替えていくのだ。前者から後者へ。つまり、本来人間の文化だったものを神の文化に作り替えていくのである。セックスや、カネや、権力が有害なものではないことを示し、本来うまく行かない他文化、他人種との関係が、キリストに在ってはうまく行くことを示していく。単一人種や、経済的に同一レベルの人たちの間では、「福音の力による合致」を具現化することはできないが、そういった難しさを福音によって解決するという「妙」を、我々は都会に在ってこそ見ることができる。 

「キリストこそ、私たちの平和であり、2つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において敵意を廃棄された」(エペソ2:14-15) とあるように、郊外や地方ではクリアーにならないことがらに都会ではフォーカスが当てられ、福音から生じる果実がどれほどユニークであるかを、都市のコミュニティーライフは我々に見せてくれるのである。 

(9-3) 都市全体に善をなすことに、大胆にコミットする 

しかし単にカウンターカルチャーに終わってはらならず、町と、そこに住む貧しい人たちに、私たちが、私たちの信仰と生活をベースに犠牲的に仕えることをコミットする必要がある。 

若いクリスチャンたちは、都市を、心地よさを求めるための消費の場という誤解をしてしまう危険があるが、この点注意が必要だ。確かに収入があり、学ぶことも豊富で、ものがあふれ、ゆえにコンサート、学術展、映画、パブなど地方よりも行きやすいだろう。このことで、都会の人は間違った優越感を持つ可能性がある。が、クリスチャンはこのモチベーションで都会に来るべきではない。確かに都会生活で豊かにされることはあっても、我々は最終的に「仕えるために」都会に住むのである。 

クリスチャンは、平和と、安全と、正義と、隣人の繁栄のために働き、言葉と行いにおいて彼らを愛するのだ。彼らが我々と同じものを信じるか信じないかにかかわらず、である。 

「わたしがあなた方を引いて行かせたその町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなた方は平安を得ることになるのだから」(エレミヤ29:7) と、神はユダヤの民に、ただ住むだけでなく、愛し、その平和のために働けと命じられた。クリスチャンは実際、神の国の住民。我々は、自分の敵対者のためにご自分のいのちを投げ出された方の歩みのあとを続いて行く。そして世にある国の中に在って、ベストの歩みをするのだ。 

都市に住むクリスチャンは、カウンターカルチャーとなり、共通の善を求める必要がある。 

周囲の都市とは一線を画し、しかし、そこの幸せを 100%求める。つまり信仰とアイデンティティーによって都市に仕えるのだ。アイデンティティーとは、「こういうわけであなた方は、……神の家族なのです。……キリストイエスご自身がそのかなめの石です。」(エペソ2:19-20) の、かなめ石、かしら石の上に建っている者ということである。クリスチャンは、この大きな神の視点から、自分のグループ、種族の幸福だけでなく、都市全体の幸福を求めるのだ。もしクリスチャンが、かしら石から離れ、権力や影響力を求めるなら、恐怖や敵意を呼ぶだろう。が、逆に、かしら石にとどまり、愛と奉仕を求めるなら、隣人に対して影響力を及ぼし、信頼に足る人と思われることだろう。 

クリスチャンは、都市で愛を求めるべきであり、都市を利用してわが教会を拡大しよう、偉大な教会を建てようとしてはならない。逆に教会の資源を用いて、都市を偉大にし、その繁栄を求めるべきだ。我々の掲げるべきものは、「都市発展モデル」であって、「教会発展モデル」ではない。これがセンターチャーチの基本姿勢である。 

考えよう⇒クリスチャンとして都市に対してもつべき姿勢と、自分のこれまでの姿勢との間にズレはありましたか。If yes その修正ポイントは? 

(10)「都市のための教会の5つの特徴」 

教会のサイズに関わらず、都市に栄光を帰す教会は、次の5つの生き生きとした特徴をもつ。 

10-1) 都会の感性を尊重する 

都市の人々は、コミュニケーションの中身や雰囲気があかぬけていることを評価する。が、口のうまさやインチキには敵対心を持ち、それを避けようとする。これはパフォーマンスの問題ではなく、クリスチャンは本質的にそれを備えているべきであり、彼らはそれを直観的に見抜くのだ。都心には、情緒豊かな、口達者な、創造的な、自己主張の強い人が多い。またよく考え抜かれ議論されつくしたプレゼン、周りにコミュニケーションやディスカッションの機会を提供するプレゼンを、高く評価する。 

10-2) 文化の違いに対する特別な繊細さを持つ 

全ての人々に対し、すべてを行い満足させる教会はなく、文化的にニュートラルなミニストリーもない。つまり都会の教会はどの文化に合わせたミニストリーをするか選ぶ必要があるのだ。ことばを決め、音楽を決めると、直ぐに、あるグループには参加しやすく、他には難しく感じられるようになる。しかし教会でのミニストリーを始める時の一つのチャレンジは、できるだけ間口を広くアピールし、できるだけ多くの文化を包み込むスタイルにすることだ。誰を前に立てるかについてヒアリングを繰り返す。その上で多様性をできるだけ包括する努力をする。批判は都心の教会において避けることのできない「必要コスト」である。 

10-3) 近隣と、正義に対するコミットメント 

都会の牧会者は近隣の健全度を上げる方法を模索している。そしてより安全かつ思いやりのある地域に変えようとしている。それはエレミヤ29章のスピリットであって、都市の繁栄・幸せを求める道である。都会の牧会は、彼らのメンバーを、消費者から都市のメンバーに育てるのである。 

10-4) 信仰と仕事の統合 

伝統的に福音派は個人の敬虔さを求めてきたが、その信仰をどう自分の仕事に当てはめるかを考えたり教えたりして来なかった。が、都市の住民の従事する職業は、多くの時間とエネルギーを要し、決して40時間/週の仕事ではない。それは人生を牛耳る仕事であり、都市のクリスチャンは常に職場で倫理と信仰の問題に直面している。ゆえに説教もミニストリーも、都会の教会で行う限りは、職業の場にある信徒を助け、神学的・倫理的・実際的に彼らが仕事上直面する問題についてアドバイスする必要がある。また個人的な問題の解決に加えて、都会のクリスチャンは、キリスト教がどう文化に影響を与えて行けるのかについても広いビジョンを持つ必要がある。更に彼らは、いかに自分の信仰を言い表していくかについても指導を受ける必要がある。 

10-5) 都会の人々をひきつけチャレンジする説教 

A) 他の権威を引用し、それが聖書をバックアップしていることを示す。例えば「聖書が何世紀も前に言っていたことを、今科学が証明しつつある」など。 

B) 3つか4つのポイントのうち、1つは求道者の持つ疑いや心配に合わせたポイントとする。まず10個ぐらいは、一般人がキリスト教に対して持つ反対意見を把握し、その上で「このキリスト教の教義は突飛に聞こえるかもしれないが、こう考えてみてはいかがですか?」と聞いてみる。 

C) 言葉・態度に気を付ける。例えば、技巧をにおわせない。他の宗教を皮肉らない。考慮を強制しない。危機感をあおらない。難解な言葉を使わない。 

D) 皆が知っている本や雑誌やブログや映画などを取り入れ、そこから聖書から解釈する

考えよう⇒ 3) 消費者から都市のメンバーへの移行 (エレミヤ29:7)。また 4) 仕事上の葛藤に対するアドバイスを与え、どう信仰を言い表し文化に影響を与えるかを指導する……この必要について、皆さんはどう考えますか 

(11)「都市に対するビジョン」のまとめ 

イエスご自身が都市へ行き、その城壁の外で十字架に処せられたが、それはご自身の血によって、民を聖なるものとするためだったとヘブル13:12にある。これが聖書の「赦しのメタファー(隠喩)」なのだ。イエスが都市に捨てられたことによって、その恵みによって、我々は来たるべき都市の市民になれた。それは、「堅い基礎の上に建てられた都」であり、「神を設計者、建設者とする都」(ヘブル11:10) であり、また「私たちは今、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレムに近づいている」と22節に歌われている。そして主は今、私たちを都市の塩、世の光として、「山の上に輝く町となれ」(マタイ5:14)「人々があなた方のよいおこないを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようにせよ」(マタイ5:16) と命じておられる。都市とはいろんな人がいて、どう見てもこの人は私と関係ない、ましてや救いとは無関係だろうとつい思ってしまうところだ。が、主は勝手に線を引くなと言われた。「おまえも変えられたではないか」と。「行為でも徳でもなく、恵みで変えられたのを忘れたのか?」と。だから「出て行きなさい」と主は再び私に語られる。「今行け。私はあなたとともにいる。私があなたを遣わす」(出エジプト3:10-12) と。これは私の献身のみことばだが、私は、神が境目を飛び越えて私たちのところに来てくださったのだから、私も今、自分で線を引くことをせず、境目を超えて、あなたと共に出て行きますと、今再び主にお応えし、都心ミニストリーに向けて前進したく思う。 

考えよう⇒都市の意味(人を守る、聖書の到達点)、都市の機能(拡大鏡、文化熟成)、都市が与える気づき(行為義認、互恵)など、「都市に対するビジョン」全体を振り返って。