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センターチャーチ

「都市に対するビジョン」について #3(本文 P157〜)

(6) 都市での宣教の可能性 

(6-1) 若い世代 

発展的な展望、革新し続ける気風、多様性のある人々と互いに影響することは、若い人たちを引き付ける要素だ。若者は不釣り合いに、都心に住みたがり、野心的だ。若者と年配者で、都市への愛着は全く違う。18-34才の若者はNYCに住みたがる。が、家族を持ち、年を取ると、NYCを避けるようになる。35歳以上は14%しかNYCに住みたがらない。LAに住みたい65才以上の人は8%だ。つまりもし教会が郊外に固執し、大都市を無視するなら、今後のニューリーダーを丸ごと失う可能性がある。 

(6-2) 文化エリート 

ビジネス、出版、メディア、学究、芸術の分野で影響を与える人たちが2つ目のグループだ。 

彼らは町の真ん中に住み、又時間を使う。都市は、文化や世の価値観にこれまでにない影響を及ぼすので、キリスト者にとって、最も影響力を持つやり方としては、都心に教会を持つこととなる。地方でやっても、他の地方に伝播する可能性は低い。が、一つの都市で行った宣教は、他の都市に向けてのアピールとなる。それも若い世代の人たちに向けてのである。 

(6-3) 外国人 

外国人たちは、人口急増地域に流入しており、彼らは自分の出身国にいる時よりも、キリスト教信仰へのオープンだ。彼らは元の自分たちの土地から一時的にせよ引っこ抜かれた存在だ。そしてこれまで頼りにして来た親族関係、同国民のネットワークからも切り離されている。また発展途上国の場合、政府のサービスが彼らに届いていない場合もある。これらのnew comerたちは、海外での都市生活からくる文化的、経済的、情緒的、霊的ストレスを受けており、常にその解決を求めている。これは、キリスト教会が彼らの身を寄せるコミュニティーとなり、新たな霊の家族となって福音を宣べ伝える素晴らしいチャンスなのだ。 

移民した人たちにとって教会に集うことは、我々日本人が教会に集うことよりもよほど抵抗が少ない。それは彼らが以前の住環境にはあったであろう「縛り」から解放されているからだ。我々の教会がそのような人たちに積極的なアプローチはしないまでも、そのような「落穂を必要とする人たち」が門をたたいた時に、新たな教会メンバーとして受け入れる態勢は必要だ。その人は驚く速さで飢えを癒し、おなか一杯になるであろう。 

(6-4) 貧困層 

都会でエリートに仕えることと、同時に貧困層に仕えることは、互いに関連しており無関係ではない。都会の教会にとっての貧困者に対する働きは、その存在の妥当性の象徴となる。 

これは偶像礼拝者が神を崇めるきっかけとなる「よいおこない」の一つだ。「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなた方のよいおこないを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。」(マタイ5:16)「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れに日に神を崇めるようになります。」(Iペテロ2:12) とある通りだ。 

これと同じように、文化的エリートがキリストを信じたら、彼らを弟子化する上で、彼らの富と権力を今後は自分のためではなく、貧しい人たちと町の必要のために使うように指導することが可能となる。言い方を変えると、都会の教会は、貧者への宣教と、ファッショナブルな人たちへの宣教を区別すべきでない。貧者を助けるためには、エリートたちの経済的、文化的資材が必要だし、貧者へのコミットメントは、文化的エリートへの証しとなり、我々のメッセージの妥当性を支持するからだ。 

考えよう⇒文化的エリートを弟子訓練する上で、貧しい人や町(i/o 自分自身)のために、今後は自分の持てる資源を使っていこうと奨めることは有効とかんがえますか (マタイ19:21)。具体的にはどんな方法がありますか。困難を覚えるとすればどういう点ですか。 

(7) 都市は私たちにどう働きかけるか 

(7-1) 生産性を上げる 

「革新的な活動をしている場所と物理的に近いところにある会社は、近ければ近いほどその生産性は高い」というリサーチ結果がある。「近くで働く」ことは無数の相互作用を生む。 

情報は豊かになるし、新人をエキスパートに育てるにも、エキスパート同士が互いに刺激し合って新しい境地に達するにも、「近くで働く環境」は求むべき環境だ。高密度で複雑な仕事には、計画的でないミーティングや、自分の周りの人をランダムに観察できる環境が欠かせない。成功したメンターと日々過ごし、そこから学び観察するところに、若い有能なワーカーを輩出する土壌が生まれる。それは計画された会議やビデオディスカッションにはない世界だ。昨今の情報時代においても、新たな発明、発見はローカルから始まる。都市理論では、これを「集塊作用」という。物理的にいっしょにいることで、経済的・社会的メリットが生まれるのだ。 

(7-2) 集塊作用の第一のメリットは「似た人を結ぶ」 

都市はあなたと似た人をあなたに結び付ける働きをする。あなたに似たすぐれた人と出会うので、常にチャレンジを受けベストを尽くすよう求められる。自分の可能性についてつぶさにレビューし、すべてを実現させるようなドライブとプレッシャーを感じるようになる。 

しかし罪は、この都市の持つ「強み」や、文化を形作るうえでの「激しさ」を、傲慢や、嫉妬や、バーンアウトなどによって堕落したものに変質させてしまう。従いこの賜物についてのダークサイドに対抗するために福音が必要となるのだ。 

(7-3) 集塊作用の第二のメリットは「似ていない人を結ぶ」 

都市は社会のサブカルチャーと、少数者を引き付ける。彼らはそこで互いに結びつき、サポートし合うのだ。それは、独身者、貧者、移民、少数民族など、いわゆる「弱者」には幸いな環境で、彼らはそこに飛び地をつくる。あなたはそんな違いや多様性の中にいるため、自分の考えや信仰に常にチャレンジを受けることになる。クリスチャンはこの都市のチャレンジに福音によってそれに向き合うのである。 

考えよう⇒ (7-2)「強み」や「はげしさ」を、堕落したものに変質させないための福音の効用とはどういうものでしょうか (マタイ 3:17)。 

(8) 都市で聞く福音 

福音は、私たちに、この都市におけるチャレンジに向き合う上で、恐怖でなく、喜びを提供してくれるのだろうか。まず、私たちは、都市に福音をもたらしつつも、都市においても福音を聞き続ける必要がある。そして、都市自身が私たちにどれほどの福音を届けてくれるかを知る必要があるのだ。 

(8-1) 都市で聞く「めぐみの福音」 

我々は都市で、霊的にも、モラル的にも、この人には望みがないと見える人たちに出会い、「この人たちが福音を聞くことは、逆立ちしても無かろう」と思ってしまう。しかしこの思いは、我々の本音を表している。私たちが救われたのに、どうしてこの人が救われないのか。 

徳でも手柄でもないはずのめぐみの福音について、どうしてそう言えるのか。どうしてこの人の悔い改めが、自分の悔い改め以上の奇跡なのか。都市は、我々のこの矛盾をクローズアップする。我々が純粋な恵みの信仰に立っていないことを、また我々が神は自分たちのような「良い人」をメインに救おうとしていると信じているという残念な事実を、私たちに示すのである。 

(8-2) 都市で知る「一般恩寵」 

都市では多くの人に出会うが、それらの人々が他の宗教を持っていたり、また無宗教でも私たちより賢く、優しく、思慮深い人たちだったりする。それは、我々クリスチャンが、恵みの中で成長させていただいているものの、元々は(実に多くの場合!)ノンクリスチャンより弱い者たちだからである。でもなぜそんなことが起こるのか。それは一般恩寵によるのである。もしこのことに驚くなら、我々はもう一度、めぐみの福音を思い返す必要があるだろう。もしめぐみの福音が真実なら、クリスチャンがどうしてノンクリスチャンより「良い人」と言えるのか。この「素晴らしい生きた証拠たち」から、我々はこの内なる矛盾を知ることになる。頭では、「信仰義認」を理解しているが、実はそれは頭の中だけで、実際は、救いは道徳的な正しさや働きによるという間違った枠を脱し切れていないという事実を。このように都市は「一般恩寵」とめぐみの福音のメッセージを通して、我々を謙遜にしてくれるのである。 

(8-3) 都市で知る「謙遜」 

リディーマーの初期のミニストリーの中で、「都市をあわれむ」ということが、あたかも私たちが「救世主」であるかのような誤解を自分自身に与えることに気付いたとティムケラーは語る。私たちは都市や、そこに住む人たちから謙遜を学び、また都市とそこにいる人たちを尊重しなければならない。なぜなら都市と我々は互恵的関係にあるからである。我々は彼らに、神と神の恵みについての理解を持ってもらいたいと願うが、その働きの成果は、彼らが我々をどれだけ必要としているかに比例するからだ。だから、我々は意識して彼らの生活の中に一般恩寵を見る必要があり、その中に初めて謙遜と尊敬と尊重が生まれるのだ。 

(8-4) 都市で知る「境界線越え」 

多くのクリスチャンたちが都市を避けてきたのは、都市が「他のもの」でいっぱいだからだ。 

都市は人でいっぱいだし、かつ彼らは我々と似ても似つかない。それを見てクリスチャンは気遅れする。落ち込み、私たちはこういった人たちは好きになれないし、ここにいること自体安全じゃないと思う。が、我々はなんと簡単に福音を忘れてしまうことだろう。福音とは、神がこの世に来て「私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) こと。私たちの一人となり、死ぬほどまでに私たちを愛してくださったこと。私たちは完全に「別もの」だったのにである。都市は我々を謙遜にしてくれる。そして、どれほど我々が福音と別もので、遠く離れた存在だったかを示してくれる。 

実は福音のみが我々を謙遜にしてくれる。つまり我々に信任を与え、勇気を与えるのが福音であり、それ故に我々も都市に信任を与えることができ、また都市に対する恐れから解放されるのだ。これによって我々は効果的なミニストリーを展開することができ、また神に栄光を帰しつつ、他の人々を祝福することもできる。これが分かった時、都市が我々を必要としている以上に、我々の方が、我々自身の継続的な霊的成長のために、また私たちの働きのために、都市を必要としていることが分かって来る。 

考えよう⇒神が全く異質な世界に来てくださったことは、私たちの行動をどう変えますか。(ヨハネ1:10-12) また、都市が私たちを必要としている以上に私たちが都市を必要としているという事実を、どう受け止めましたか。