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センターチャーチ

「文化とのかかわり」について #1(本文 P181〜)

(1) 教会の文化的危機 

現代のアメリカの教会は、内輪の議論で白熱している。ある人は、教会のメッセージは外部の人には不可解であり、もっと文化に適応していくべきだと考える。また別の人は、教会は、文化にすでに影響されすぎており、もっと社会のトレンドに対峙する必要があると考える。実は、ほとんどのリーダーはその中間にある。と言っても、どの部分で適応し、どの部分で対峙すべきかの 答えは持っていない。結果的に教会は、教団教派や神学校の伝統など、古い枠組みによってバラ バラになっている。バプテスト、長老派、聖公会、ルター派、メソジスト、ペンテコステは、文化とどう絡み合っていくかで分かれている。現代の教会には、これ以上の分裂要素は他にないだ ろう。この軋轢は何が引き金になっているだろうか(図参照)。 

考えよう⇒最初のの4モデルの中で、あなたの神学はどのポジションですか。またそれを支えるみことばは。逆に抵抗を覚えるみことばも、あればピックアップしてみましょう。

(2) 米国における文化の変遷 

「宗教右派」はゴリゴリ文化を変えようとするし、「求道者教会」はもっと文化にかかわっていけと言う。が、その後、「文化の変容」を唱えたカイパー主義が長く統治してきた「保守的改革派」のコミュニティーに、全く違う考え方が起こる。それが「二王国モデル」であった。カイパーと違って、彼らの考えは「王国の働きは、文化を変容し、文化をあがなうことは含まない」つまり「教会を建てるだけでよい」と。一方で「クリスチャンは、他のすべての人と同じく世の中で過ごせ。礼儀を重んじつつ、正しさや秩序も同じレベルで良い。変容なんて考えなくてよい」というものだ。 

これらはすべて「キリスト教と文化」に対する試行錯誤の結果だが、これら一つ一つをコンパク トに批評しておくことは、実際の現場で「キリスト教と文化」の問題をマネージするために必要な知識だ。それによって、自分の状況をどう改善すべきか、また思わぬ反応に出会ったときの状況や影響をどう「信号化」していくかが分かるようになるのだ。要するに、多くの「極」のバランスを慎重に取りつつ、文化に対応していくことが大切だ。すべての「極」は特に重要な真理を 持つ。が、そのもっとも純粋な形においては、それらのモデルは聖書的にアンバランスなのだ。 そこに立つとき、絶壁の端から転落してしまわないように注意しなければならない。カーソンが 言う通り、「そこから全ての説明をなしたり、明確な強制力をそこに持たせてはならない」のだ。 

考えよう⇒ご自分の支持するモデルの中で、「そのもっとも純粋な形においては、それらのモデルは聖書的にアンバランスである」を感じる部分はありますか。

(3) 教会の変化に対するレスポンス A-1)変容者(transformationist)モデル: 

これはキリスト者が文化に深くかかわり、キリスト者としての世界観をもって自分の仕事を追及することで文化を変えていくモデルだ。キリストの主権は、経済、ビジネス、政治、文学、芸術、ジャーナリズム、メディア、法律、教育と、生活の全ての部分に行きわたっているゆえに、キリストは文化を変え世界を変えるために働いている。よって、キリスト者は自分の考えや、行動や、言葉を発し続け、その事によってノンクリスチャンに影響を与え続ける必要がある。私たちが生活の中で為す行為は文化創造であり、それは社会を方向付け文化を変えていくという考えだ。これはカイパーの思想によるところが大きい。A-2)変容者(transformationist)モデルの問題点: 

1 「世界観」という変容者モデルの概念は知的すぎる。 

世界観には、本来、希望や愛などの、経験や日常生活における概念がすでに無意識に組み込まれているにもかかわらず、である。 2 変容者モデルは、教会を不当に低く評価している。 

変容者モデルは、本当の行動は教会外でなされるべきだ(つまり教会そのものではない)という考えを持つ。彼らが頑張るのは、教会を建てることではなく、文化の要塞にキリストのために風穴を開けることだ。敬虔主義はフルタイムミニストリーを重視し非宗教的な仕事を軽視してきたが、変容者モデルはそれとは逆で、彼らの注力点は「世界と社会の贖い」にあり、伝道や弟子化や個人の悔い改めと改心ではなかった。 3 変容者モデルは勝利主義であり、自己義認的。またそこには「社会における神の意志を自分達は知っている」という自信過剰がある。 

あぶないのは、「私はクリスチャン文化の全体像を予知できる」と思ってしまうことで、それは聖書の贖いのストーリを見えなくしてしまう。新約にはレビ記のような、社会や生活に関する事細かな指示はない。また「変え得る」という「自信」も問題で、人間文化はとんでもなく複雑で入り組んでおり、誰かが大きく変えるなど本来不可能である。キリスト者の起こせる変化は微々たる変化であり、大切なのはその積み重ねである。 4 変容者モデルは(変化を図るための道として)政治に力を入れすぎる。 

「宗教右派」は政治に力を入れてきたが、政治は文化の一部でしかなく、これを過大評価するのは間違いである。実際、政治は「川下」であり文化的変容の「中心」ではない。 5 変容者モデルは、しばしば権力の危なさに気付いていない。 

変容者モデルの積極的な活動は、権力を求め、それを学ぶ中で、それに吸収されてしまう危険がある。彼らには、政治的縁故がなければ文化的変容はもたらせないという考えがあるが、キリ スト教が政治と結びついて力を失った例が、歴史上どれほど多くあるかを振り返る必要がある。 

B-1)社会性(relevance)モデル: 

このモデルと変容者モデルとの違いは、視野の広さである。ニーバーは文化に対して「積極的」 な考えを持ち、彼は「文化のキリスト」と「文化の上のキリスト」の2種類を論じた。 〇「文化のキリスト」とは、教会内にいても外(文化の中)にいても、我々は同じく feel at home であり、キリスト教文化は周辺文化と根本的に矛盾しないという考え。 〇「文化の上のキリスト」これは「文化のキリスト」よりも罪の普遍性と徹底性を強調するが、やはり文化に対する積極的な観点を持っている。つまり文化を「作り変える」とか「考えを正す」ではなく、キリスト信仰によりそれに適応し、補助する考え。 B-2)社会性(relevance)モデルの問題点: 

1 文化に簡単に、本格的に適応するので、文化が移行し変化するとすぐに「時代遅れ」となる。 

プロテスタントのメインラインがあっという間に廃れたのはこのためだ。皮肉なことだが、彼 らが非社会的と言われ文化から疎外された理由は彼ら自身にあって、まさに文化に適応したこと(社会的であろうとしたこと)にある。彼らは、超自然的要素をとりのぞき、信仰の教義を控えめに扱ったため、他の社会的組織と大差なくなってしまったのだ。多くの教会が「文化に適応」の名のもとに特徴を失い、その結果、文化におけるキリスト教のパワーを失っていくのだ。2教義に対する態度への批判 

「文脈化の必要性」の箇所でも言ったが、真の文脈化は、規範としての、また動かぬ真理としての「聖書」がベースに必要である。が、このモデルは極端な場合「文化が聖書以上の規範」となってしまっている。 

3 このモデルに従う教会の主なエネルギーは、福音を教えたり、悔い改めに導いたりすることにではなく、サービス関連のプロジェクトや、正義を求めることに費やされている。 

その結果、教会は新たな回心や、いのちや、挑戦ではなく、地域に対するサービスに走ることになる。4キリスト教会の特殊性が、このタイプでは特にぼやけてくる。 

伝統的には教会はみことばを語り礼典を執行するところと思われて来た。また、みことばの真実な説教が語られているかが最重要ポイントとされてきた。が、社会性モデルでは、その重要性は失われ、教会内で起こることは大切ではなく、外の世界で起こることが大切となる。教会は、神がどう世の中で働かれるかを考え行う場ではなく、経済的正義や社会的平等を行う場となる。 

C-1)反文化(counterculturalist)モデル 

このモデルは、世との対照社会としての教会を強調している。そして文化とのかかわりとして、神の国を重要概念として挙げ、その国は明らかに、この世の王国に対抗するものであると主張する。アーミッシュは明らかに反文化主義だ。また新修道院のように、都市において貧しい人々と住む人たちもいる。原始共産主義とまではいかずとも、そのような共同体の人もいる。C-2)反文化(counterculturalist)モデルの問題点:

1 社会の変化に対して悲観的考えを持ち、またそのことを最大限に非難する。 2 現代のビジネス、資本市場、また関連の制度を、悪しきもの(悪霊にとりつかれたもの)と考える傾向がある。この考えは、クリスチャンが通常のビジネスの世界で働くことや、政治の世界に身を置くことを discourage する。これは真理や、信条、理論的説教をアピールするより、権力に対する「怒り」に焦点を当てているためである。 3 反文化モデルは、「文脈」という不可欠なものに重点を置くことに失敗している。 

クリスチャンの共同体は周囲の文化に適応する必要があるという事実にかかわらずである。 4 アナバプテストは、横の罪(被造物の濫用、人間同士の暴力)、縦の罪(神の神性さへの攻撃)を強調するあまり、義認や身代わりの贖いなどの教義を過小評価している。 5 このモデルは、たとえ意図的でなくても、教会における福音宣教の大切さとその技術を衰えさせている。それは「社会性モデル」より深刻だ。 

この問題の原因は、信仰に先立つものとして「所属」があると彼らが信じているところにある。 つまり彼らはまず人々を「魅力ある愛の共同体」に呼び込むことから伝道が始まると信じている。 しかしここには、福音メッセージをどのような口調で語り、コミュニケートし、個人を悔い改めに導くかという、教会が考えるべき問題を全く考えないという実際的な問題がある。福音伝道の巨大なモチベ―ションの中のエレメントのどこかに途切れた点のあるモデルは、モデル全体の活 力を弱めていく。 

D-1)二王国(two kingdoms)モデル 

4つの中で米国福音派では一番知られていないモデルだ。この名称は、神がすべての被造物を治める中で、2つの違う方法を使っているという考えから来ている。2つの方法とは「共有の王国」と「あがないの王国」だ。 〇「共有の王国」は創世記9章のノア契約を通して確立した。この王国においては、すべての人がメンバーで、人々は一般啓示を通して共有の恵みを知る。クリスチャンとノンクリスチャンは協力すべき市民として、隣人として並んで働く。信徒は聖書の基準を社会に要求せず、この「共 有の王国」において隣人を愛し、隣人に仕えるのだ。 〇「あがないの王国」は特別啓示により治められており、アブラハムを通して創世記12章によ り確立された。クリスチャンだけがメンバーで、教会により説教と礼拝をもって育まれる。教会 を建て上げ、伝道し、弟子訓練をし、キリスト教のコミュニティーを立て上げることだけが、「あがないの王国」のわざだ。 

二王国論の特徴は、 1 クリスチャンが無宗教的な職業に就いて仕事をすることに重きを置く。「神に仕える場は教会だけ」とは考えず、すべての仕事が、人と神に仕える業だと考える。 2 クリスチャンの仕事に、権威と有用性を認めながらも、特別な働き方をクリスチャンに求めない。 この考え方に「世界観」という言葉はない。教会は単純に教会であればよく、文化をあえて作ろ うとしなくてよい。キリスト教社会をあえて作らなくてよいのだ。(これが変容者モデルとの違い)D-2)二王国(two kingdoms)モデルの問題点 

1 聖書が唱える以上に「一般恩恵」を強調しすぎる。 

二王国論は、クリスチャンが聖書や福音をしっかり理解して公共の生活を力強く営むことの必 要性は説かない。なぜなら社会はそのままで健全であり、また神の自然の啓示の光によって、それを維持することができると考えるからである。2 二王国論が、自然啓示に帰する「社会的な良い業」は、実は歴史のなかで紹介されたキリストの教えによる実(つまりは特別啓示の実)である。 

たとえば「人権」の考えは、単純に自然啓示から出たものではない。世界は多くの聖書的教えにさらされており、特別啓示の洞察を取り入れ、それを非キリスト教的な普遍的な意味合いに発展させてきた。もともと西洋の異教文化や東洋にはなかった考えだからだ。 3 二王国論は、宗教的にニュートラルな考えでも人間生活を指揮することが可能という暗示を与える。 もともとこのモデルは、無宗教とニュートラルが好きで、キリスト教的観点が法律、政治、経 済、芸術などにも必要とは考えない。しかしスタートはそれでも良いが、最後までというのはあり得ない。無宗教的国家は「神話」である。奴隷制が良い例だ。確かに廃止には長い時間を要したが、聖書にその前兆が見られ、パウロはオネシモを「愛されている兄弟」と呼んだ。それも「神 に在って」のみならず、「肉にあっても」と。その後も法的にはピレモンの奴隷であり続けたかもしれないが、霊的には兄弟だったはずだ。 4 二王国論は「社会的静寂主義」を作ってしまう。 

二王国論は、教会と社会の摂理は全く違い、一方が他方の支配権を奪うことは許されないとしている。国家は目に見えて外向きな存在だが、教会は逆に目に見えず内向きだ。ゆえに彼らは南部バプテストの起こした市民権運動にも消極的だった。 5 二王国論は聖職者と一般信徒のヒエラルキーを拡大した。 

考えよう⇒ご自分の支持するモデルの特徴、問題点を見て、どのような印象を持ちますか。これまで「不支持」だったモデルに対する印象、距離感など変化はうまれましたか。