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センターチャーチ

「文化とのかかわり」について #2(本文 P223〜)

参考図

(1)~(3)をレビューしたうえで……

考えよう⇒ご自分の支持するモデルの以外のみことばながら真理を感じ、自分モデルに併用してみたいみことばはあるでしょうか?

(4) すべてのモデルが正しく、すべてのモデルが間違っている 

人々をカテゴリーやモデルに分ける時、必ず落とし穴が生じることを我々は知っている。ある人に合う モデルが、他の人には合わない。また合うといっても 100%でなく反対したいポイントもある。また「キリストと文化」を語る中で、人は変わっていくことを見てきた。考え深い者ほど、常にオープンで、他の考えによってさらに豊かにされたいと思っている。 

(5) 前に進む道をさがす 

4つのモデルは聖書的な根拠を持つ。そしてすべては、教会が文化と向き合う中で出てきた諸問題への効果的な解決としての提言であった。たとえば 「問題1」既存文化に対して、パワフルで効果的な伝道ができていないとしたら、それは問題か?その通りである。 「問題2」もしある文化機関のキリスト者が自分の世界観で生きることができない、あるいは経済機関のクリスチャンの数が圧倒的に少ないとしたら、それらは問題か?問題だ。 「問題3」教会がサブカルチャー止まりで周囲の人たちに対して福音をわかりやすく語れないとするな ら、その場合「一般恩寵」「共通の善」などで満足せず、もっとパワーアップすることで、「教会」という存在が世に認知されるのではないか?もちろんその通りだ。「問題4」ローマ帝国の司教は、弱者、貧者はもともと社会の少数派ながら、彼らに対しては、教会全体としてかかわる必要があると考えた。すると弱者・貧者ケアが皮肉にも結果的に教会が大いなる文化的影響力を持つ武器となった。もし隅に追いやられた人たちを大切にして来なかったら、教会自身が隅に追いやられていただろう。これが神の「詩的な正義」なのである。この歴史をどう再現するか?

上記の諸問題の答えが、(3)で論じた A~D の 4 モデルに、ばらばらにあるように思う。しかしそのどれも単独では全体像を示し得ない。また事実4モデルのいずれも、まだ勝利を収めていない。各モデルの持つ中心的な病名の診断は、正しく、重要だ。が、不完全でアンバランスだ。進むべき道はあるのだろうか。 

考えよう⇒上記の4つの課題に、強い問題意識・反論・意見を持つのは、どのタイプでしょうか?

(6) 文化に対する 2 つの質問 <質問1>「文化を変えること」に対し我々は悲観的であるべきか、それとも楽観的であってよいのか?

ハンターは、文化は草の根ではなくトップダウンで変わり、かつその変化は、都市のアカデミックなセン ターから流れ出て行くと言う。しかしこの変化は、中心的なエリートが起こすのではない。なぜなら、彼らは今のステータスから恩恵を得ているからだ。しかしこの変化は、文化周辺の草の根の人々から起こ るのでもない。それは、彼らが長期的な変化をもたらすほどのパワーを持たないこと、また社会の生活や思想を形成するセンターからは締め出されていることによる。実は、この変化を起こすのは、「外部エリ ート」の若い男女だ。彼らは大きな最高機関の階段の下にいるか、あるいは強制力をあまり持たない機関か新しい機関にいる。加えて変化は、別々の文化に行きわたる共通の原因がネットワークによってつながった時、ここぞとばかりに起こるのだ。それはビジネス、学術、芸術、教会など、複数分野の人たちをネットワークが包み込むときに巨大な力となる。もちろん、その変化は戦いなしには起こらない。が、最後には変化するのである。しかしこの変化を正しくとらえる人は少ない。その理由は、各モデルの提唱者が、文化の変化に対して、極端な悲観論か楽観論かのいずれかに偏っておりバランスを欠いていること にある。 

<質問2>文化はあがない得るのか、それとも根本的に堕落しているのか? 

各モデルの強調点と、それに対する外部からの批評は次の通り。 

1 二王国論:「強調点」物質の創造における善、つまりすべての人の持つ「神のイメージ」としての権力と、すべての人に注がれている一般恩恵を強調する。 [批評]人々が聖書のみことばと福音をどこまで必要としているかに無頓着だ。2変容者モデル:「強調点」堕落から生まれた原罪のもつ、全ての生ける者への浸透力、影響力に重きを置く [批評]闘争的、勝利志向という点で問題含みだ。ノンクリスチャンの仕事における貢献を認めない。3反文化モデル:「強調点」神の歴史における贖い、つまり「人を召し出し、新しい人を再創造し、そのことによって、キリストに生きるとはどういうことかを世に示すこと」を強調する。 [批評]世と教会に明らかな違いを設けようとしている。が、教会の中にも罪があり、世界の働きの中にも一般恩恵があることをこのモデルは過小評価している。教会内の罪は、本来あるべき正しさに教会がまだ到達していないことを示し、未信者の中の一般恩恵は、世は我々が想像するほどには 悪くはないことを示している。4 社会性モデル:「強調点」国家を癒すこと、また死からの復活を通して被造物に及ぶ「神の回復」を強調する。 [批評]この世の国家が「すでに」と「いまだ」の両方であることを忘れている。神は被造物を回復しようとしているが未完成だ。人の文化が持つ暗闇を見過ごすと、堕落の教義を真剣にとらえ損ねる。また失われた者への福音宣教以上に共通の善に重きを置きすぎると、神がご自分のところに人 を招いてくださるという贖いの特殊性を忘れることになる。 

(7) キリストと文化の関わりの展望 

この概観により学んだのが、「バランス」ということばの迫りである。聖書の各素材が教えるのは、妥協のためのバランスではなく、「同時にかつ常に聖書のすべての教えをとらえる」ためのバランスである。 種々の「キリストと文化」モデルは、カーソンが言ったとおり、どれも「聖書のすべての教えを同時にかつ常にとらえること」には失敗している。つまりすべてのモデルは聖書的にアンバランスなのだ。このアンバランスさはすべてのモデルの中心テーマであり、もし単純化して、他のテーマを無視し自分のテーマのみで勝負するというアンバランスさが増すなら、それぞれのモデルの「実」はいよい乏しくなる。 

これをわかりやすくしたものが、最初の図だ。 〇縦軸は文化の世界の性質を表す。今の文化はあがなわれた善いものか、それとも根本的な堕落にあるか。縦軸上側は、「強い一般恩寵の中にいる」という考えで、未信者は一般啓示を通して、神の働きを難なく理解する。神は世界のあらゆる場面で働いておられるという信仰だ。縦軸下側は、世は悪く、暗く、神の働きは教会を通してしか為されないという信仰である。〇水平軸は、文化を変えることに対する我々の態度を表し、我々が文化の変化に楽観的か悲観的かを示す。横軸左側は、私たちは文化の変化を起こそうと活動しなくてよいというもの。また右側は、文化の中で我々は活動すべきであり、それを変える努力もすべきだというもの。〇変容者モデルと反文化モデルは、表の下側にある。それは、彼らが一般恩寵の欠けを信じる信仰を共有しており、世と神の国の価値観は根本的に正反対という確信を持っているからである。その結果彼らは、文化の中の偶 像への批判を強調する。〇二王国論と社会性モデルは、表の上側にあり、これは彼らが、「文化の中における未信者との共通の土台」に対し積極的だからである。 

〇二王国論と反文化モデルは左。右は両方とも、強いキリスト者は文化にかかわって混合主義と妥協に導こうとしているが、彼らはそうではなく、キリスト者は教会にあればよく、あえて文化を変えようとすべきでないと考 える。〇変容者と社会派の両モデルは右側。彼らは両方とも、文化を反映することに時間をかける。またキリスト者に対しては、ノンクリスチャンと文化に影響を与えつつキリストに向けさせるよう勧めます。右の2モデルは左の2モデルを「二元論」「ひきこもり」と揶揄する。 

ここで議論を終えるなら、単純に各モデルのいいところをくっつけてダメなところを外せば、最もバランスの取れた信仰的な究極のアプローチができると考えるかもしれないが、それは正しくない。現在の変化の速い時代にあって、信仰的かつバランスの良くかかわるための、原則を次に提示する。 

(8)洞察を混ぜることによる文化とのかかわりすべてのモデルの宣教師は、他のモデルの持つ、聖書的前提、歴史的ルーツ、弱点などを知らないが、ここまで学んで来た皆さんは、自分は大丈夫だと思うだろう。しかし、にもかかわらず、このままでは、これからも自分のモデルの延長線上でしか活動できないのだ。それはあなたにはあなたの、文化のとのかかわりについてはこう あるべきと主張する個人の歴史があり、気質があり、教会の伝統があり、宣教の文脈があるからだ。ここで、「あなたがあなたのモデルの中で、どのように働くことが信仰的であり技術的によいことなのか」について忠告すると、それは「他の理由を知り、自らの信念に従って act(行動)すること」となる。 

考えよう⇒上記の「自分は大丈夫だと思うだろう。しかし、このままでは、活動できない」の意味するところはわかりますか?

(9)あなたの信念に従う私たちが、あるモデルとの完全な一致を単純に求められないもう一つの理由が、各人が互いに違う宣教の賜物や召命を持っており、それをもとに人々に宣教する「傾向のちがい」があるからだ。パウロがすべてのクリスチャンには別個の賜物の実があると言ったが、その通りで、我々が信じ応ずるモデルは、我々の元の気質や、霊的賜物の影響を受けている。であれば、我々は「自分の賜物」をどう見抜くのか? 

私(ティムケラー)は、長年牧師としてこの質問に答える中で、ある原則を発見した。それは、その人が人間のいろいろなニーズの内の何に反応し応答するかにより、その人の賜物の違いが明らかになるということだ。宣教はキリスト者の義務であり、それは貧しい人を助けていく。が、この中で、ある人は伝道に熱心であり、また別の人は貧しい人に手を差し伸べるのに一生懸命だ。それを見て、なぜこの2つは統合できないのかと悩む人もいる。これを見て私(ティムケラー)はわかった。彼らは、伝道や、憐れみや、運営の賜物をそれぞれに持ち、 それぞれの問題に敏感に造られている。そして我々は、どのモデルに心地よく感じるか、どの働きに引かれ、敏感に反応するかで、そこに賜物や calling があることが分かるのだ。 

貧しい人に仕える賜物を持つ人は、「社会性」「反文化」モデルに引かれるし、一方で伝道に強い情熱をもつ者は 「二王国論」か、おそらくは「変容者」モデルを評価する。これらはある程度正しい考えだ。これは何を意味す るのか?私たちは、とにかく私たちの信念、確信に合うモデルに進むべきだと私(ティムケラー)は信じる。そこの「道具箱」が我々の賜物に最も合うからだ。我々は自分のモデルを知って初めて、その文化の文脈や季節に合わせて初めて他の道具箱の道具も使えるようになる。 

クラウチは言う。我々の文化に対する基本スタンスは姿勢(posture)であり、それは無意識の初期設定だ。しかしその上に立って行うしぐさ・身振り手振り(gesture)があり、それは他のモデルから借りてきたものも含むその場だけの特別な動きだ。この2つの違いを明らかにすることは、ビビッドで、エレガントな動きを可能にする。 ある人の基本姿勢はある文化に非常に反目するものだが、その中の特定の文化傾向については受け入れるジェスチャーを持つ。またある人のある文化に対する基本姿勢は友好的だが、その中のある文化的要素に対するジェスチャーとしては、完全な非難を呈する必要がある、などである。 

考えよう⇒「どのモデルに心地よく感じるか、どの働きに引かれ、敏感に反応するかで、そこに信念や賜物や calling がある」にあなたは同意しますか?それを裏付ける経験はありますか? 

(10)行動(act)せよ。しかし反応(react)はするなセンターに最も近いところに「キリストと文化」の問題解決があるはずだが、多くの人はそれを発見できずにいる。聖書や文化や自分の賜物や calling を見ずに、直感や本能や他のクリスチャンの行動に対する reaction で自分達の考えを形成してきたからだ。別の言い方をすると、「ここに立たずにあそこに立っている」のだ。なぜなら、その人たちがまず「ここに立たずにあそこに立っている」から。一方で、もう一つの真理は、このモデルは何世紀にもわたって教会の中にあった先例やパターンによって描かれているところが多く、その時代の考え方や互いの敵意や reaction に縛られたものだからである。これらのグループは大きな「地盤」であり、そこからし ょっちゅう溶岩が噴出したり地震が起こったりしている。すべてのキャンプは自分たちの教会に「違うことをせ よ」と命令し、実際違いを強調し、その違いによって相手を攻撃してきた。彼らは他のグループに対する「解毒剤」としての役目を強調することで多くの献金を集めてきた。 つまり行動(act)でなく反応(react)しているのだ。この傾向がそれぞれのモデルの「極端な形」として流れており、これが最終的に自分をダメにする流れとなり、聖書的な証しではなく、アンバランスと不信仰に行きつく原因となってしまう。これに対しどうすべきかを最後の忠告としたい。 

忠告1:傲慢を避けよ。自分をこれまで導いて来たモデルがその人にとって最高に思えるのは明らかなことだ。自分のモデルの強みと他のモデルの弱みを比べるなら、優越感に浸ることは簡単だ。が、それをしてはならない。 あなたの伝統を「これこそ、神が新たになさろうとしていることに違いない」と考えると他が見えなくなってしまうからだ。バランスよく評価するなら、死にゆくべき伝統は一つもない。どれも深刻な弱みを持ちつつ、すべてに素晴らしい強みがある。 

忠告2:非難を避けよ。もし「他のモデル」を採用することで成長するなら、あなたはこれまで自分の引っ張ってきた人やモデルに「怒り」を覚えたり、あるいはだまされたという思いを持つかもしれない。しかし赦せ。そしてあなたの悔い改めの余地をその中に探せ。文化に対してあなたが持つあなたの個人史をどかしてしまえ。聖書に向かえ。文化の重要性に向かえ。そしてそれを変えるチャンスとあなたの賜物に向かえ。 

忠告3:フラストレーションを避けよ。もしあなたが、自分がベストと考える文化モデルを「コア」な部分にしてくれない教会や教団に所属するなら、そのことはあなたを「急進的」にするかもしれない。またそれへの反応が、あなたの立場や態度を極端な形にするかもしれない。しかし闘争や論争によって、あなたがやろうとしている提案・提唱・アプローチが不必要に強固にならぬように注意したい。 

忠告4:単純化を避けよ。「家のプラグは一つでいい」と言う人がいる。「すべてのモデルに協力するより one church only!でいく」という考えだ。すべての教会は歴史を持ち、そこには気質の違いや、神学的問題への独自の取り組み、伝統、モデルがあり、それは避けようがない。しかし福音は、他のモデルを評価しつつ、我々自身のモデルがあるとわからせるだけの謙遜さを与えてくれる。自らの強さを楽しめ。弱さを認めよ。そして気が狂 ったふりをして、他の強さを借りてみよ。 

考えよう⇒「行動(act)でなく反応(react)している」が、これまでの4つの極端な神学を生んだことにあなたは同意しますか?同時に4つのタイプを概観して「バランスよく」行動(act)することは、選べそうですか?