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センターチャーチ

「宣教的教会をさがして」について #2(本文 P264〜)

(6) 「宣教的教会」を中心に置く 「宣教的教会」の定義はそれぞれに違い、互いに矛盾がある。この会話をする当事者は、他者は間違ってお り自分は正しいと思っている。かつ、センターチャーチを正しく機能させるためには、この「宣教的教会の 定義」に関する不安点をクリアーにしておく必要がある。それは、1もっと包括的であるべき。2特定の形 態に縛り付けられている。3福音に対する理解不足がある、の3点だ。 

1「もっと包括的であるべき」について……「宣教的」ということばが「伝道的」に置き換えられるとす れば、その理解は幅が狭すぎる。宣教的教会は、「伝道熱心な教会」以上のものだ。「この教会の礼拝は宣教 的」と言うとき、それは「その文化に生きるノンクリスチャンに対して、福音に生きるクリスチャンを指し 示しつつ、チャレンジを与える礼拝」という意味だ。「宣教的教会」は、福音をどう文脈化するかを知って おり、自分たちの周りの社会の物語に対してアピールすることに慎重かつチャレンジングなのだ。 

2「特定の形態に縛り付けられている」について……「宣教的であるためには、教会は魅力的である以上 に受肉的であるべき」とよく言われる。たとえ「魅力的」ゆえに多くの人を集め「イエスは主だ」と説教で 語っても、我々がその福音を具現化する必要がある、だから受肉的であれというのだ。フィッチは「宣教的 であることは、時間を使って教会の外でミニストリーをし、隣人の中に住んで、彼らが何者かを学び、彼ら が霊的に(またそれ以外にも)何を必要としているかを知ることだ」という。フィッチの考えに沿って考える と、宣教的な教会は大きくてはダメだとなる。大教会は毎週の礼拝と説教に重きを置くからだ。この考えだと、「小さめのハウスチャーチがいい」となり、これらのハウスチャーチを集めた中型ネットワークがあっ て、たまに大規模で「魅力的な」大集会を開くのがいいということになる。フロストはこう言う。「多くの 新興の教会は、あえて小さな教会を目指そうとしている。それは新約聖書の初代教会の再現を意味し、家族 単位で多様性に富み、組織的でなく生活主導的、宣教的で関係重視の信仰共同体だのことだ。」と。しかし、 これは「宣教的教会」のあまりに固まった考え方だ。 

ティムケラーは、10 年ほど、小さな町の小さな群れ(労働者中心)を牧会した。その教会はハウスチャーチ の要素をすべて持っていた。新約の教会の多くがそうであったように、大家族からなる「オイコス」(家)を 求めていた。宣教は形式的でなく、関係性と有機性を持つべきと考えた。たしかに中間的なサイズのグルー プは本当のオイコスではなかったし、彼ら(ティムケラーの牧会する信徒たち)には物理的に地域の人々を 知る方法がなかった。にもかかわらず、彼らは近くに住み、引っ越しもめったに無く、朝から晩まで顔を突 き合わせ、礼拝以外の時間もまさに共同体の一員だった(まるで大草原の小さな家のように)。この多重の関 係から、外へのアウトリーチ、牧会的ケア、フォロー、共同体へのサービスは、どんどん有機的に発展して いった。つまり小さな町の小さな教会には、一般的にこのような互いの地域との関係性があり、彼らは宣教 的教会の求めている「共同体」に最初から囲まれているということである。 

その後、ティムケラーはマンハッタンに移り住んで 20 年になるが、そこの教会は、機動力と、収入があり、 そのインフラを使って人々は学び、ミニストリーを行い、大きなプログラムに携わっている。ティムケラー の結論はこうだ。大小の教会は、それぞれに伝道の実の熟する「季節」をもつ。伝統的な教会の多くは、信 徒を壁の内側に閉じ込め、外のクリスチャンを支えたりネットワークにつながったりさせない。しかし、ティムケラーの経験からすると、都市の大教会は、教会に行っていないノンクリスチャンにアプローチするの に効果的だ。大きいか小さいか、セル中心か中規模で共同体中心かなど、「形式」を問うことは意味がなく、 それらは教会の実りにとって、またノンクリスチャンへのアウトリーチにとって、本質的な良し悪しを決め る要素ではないということだ。これは最終的な分析結果だ。なぜなら、大は大、小は小で、違う強さと弱さ、限界と可能性があるからだ。小さいなら有機的でシンプルな教会になるだろうし、大規模なら組織的かつ魅 力的な教会になるだろう。 

考えよう⇒宣教的教会は、サイズと関係ないというティムケラーの考えにあなたは同意しますか?その上であなたの教会は「宣教的」ですか?

では、宣教的教会の「モデル」は示せるのか?皆、教会をつくるうえで手本になるようなものが欲しいわけ だが、そういったものは「ない」というのが結論だ。では「効果的な」宣教的教会とは何か?そんなものは あるのか?その特徴についても、すべてのサイズにありうるし、ないとも言える。すべてのタイプの教会が この特徴を喜んで受け入れるかもしれないし、逆に抵抗するかもしれないから。それも全然違う形で。すべ ての種類が成功と失敗の可能性を秘めている。従って、「宣教的教会は小規模なハウスチャーチ」と言うの は極めて近視眼的だと言える。 

3「福音に対する理解不足」について……すべての教会が「福音」という語を用いるが、それの意味する ところは皆違っており、これは深刻な問題だ。が、「宣教的」を語るとき、それが共同体的、互恵的と言う のは正しい。神のあがないは、最終的に世を新しくする新天新地の登場を意味する。だから神が出て来られ たのは、赦しと救いのためだけでなく、罪がぶち壊してしまったすべての被造物を、全面的に回復するため であった。しかし、ある人々は、神の救いの計画から事実上「人間の悔い改め」をとりのぞき、そこに注意 を払わない。理由は、多くの人々が、罪と救いを再定義し、「横のつながりの協力関係を表すことば」とし ているからだ。彼らは、「罪とは主に共同体を壊す自己中心であり、プライド、貪欲、暴力のことだ」とす る。そうなると、キリストのあがないは主に「我々に害を及ぼす『世の悪の力』を打ち負かすこと」となり、 このあがないに対する聖霊の働きは、「人々の間のバリアをとりのぞき平等主義と相互主義を実践すること」 となる。最終的にキリスト者になるとは、「悔い改めと信仰により、神と和解すること」ではなく、「世の平 和と正義のために働く新しい共同体に加わること」となる。罪に関する古典的な教義、「神のきよさに対抗 し、それゆえに我々は神の怒りを引き起こしたが、キリストはその怒りをなだめ、私たちの罪を担い、そこ に偉大な交換が生じた。それは我々の罪とキリストのきよさの交換だった」は拒否される。それはそれがあ まりに個人的だからだ。しかし実はこれが、教会が「宣教的」になれない理由なのだ。もちろん罪は我々の 共同体に破壊的な作用をするし、キリストのあがないは、確かに結果的に被造物を回復する。しかしこれら の伝統的な「罪とあがないの教義」が無視されると、共同体は個人の悔い改めや信仰や回心を考えなくなる。 個人のことと社会のことは、「個人のことがまずあって、それのみならず社会も」が正しい順番であって、 どちらかを無視せよとは誰も言っていない。しかし個人と社会の両ファクターがあたかも対立項目とされ、 その結果個人が除外されてしまうことが多い。この「教義に対する考え方」はローカルチャーチにおける 「宣教的」に対するいろいろな違いを作り出して来た。 

「個人のことがまずあって、それのみならず社会も」の正しい順番が無視されて、「罪とあがないの教義」 が語られなくなると、どういうことが起こるのか?その時、罪の持つ攻撃性、深み、破壊力を、福音は表わ し損ね、それゆえに福音の持つ槍の鋭さも見失うこととなる。恵みと行いの区別がうつろになる。つまりキ リストを自分の救い主としてあがめることと、自分自身の救いのためにキリストを利用することの区別が なくなるのである。生活を変える力を生み出すのは、この区別を理解し、それを適用することなのだ。自分 は伝統的で道徳的な良い生活をしているから救われた、あるいは世の必要に応じた犠牲的なサービスをす る生活をしているゆえに救われた、あるいは神に受け入れられたと信じるなら、そういう人達はその後も、 それまで同様に自信がなく、批判を受け入れることもできず、またそれを正しく受け取れない人を見てもそ の人たちを低く見、神の愛も分からず、キリストに在る自分のアイデンティティーも知らないままとなる。 

聖書的福音は、人々に自分の中のこの「危険物」を神の聖なる光の中に見させると同時に、キリストの高価 な犠牲を思い起こさせる。つまり我々が負うべき罰を負ってくださったのだ。もしこの部分が、福音の提示 の中でミュートされるなら、我々を救ってくださったイエスの驚くべき愛の不思議さを感じる感性までミュートすることとなる。カーソンの言うことは極めて重要だ。彼は言う。罪のあがないには、大いに協力的、 共同体的、横方向の局面がある。これらの聖書的概念は深く、広く、またなかなか到達できない。しかしこ の横方向の局面を強調するために伝統的な恵みの教義を否定するなら、結果は破壊的にアンバランスなも のとなるだろう。古典的プロテスタントの福音理解は、「神はきよく我々はその怒りの下にある。しかしイ エスがその怒りとのろいと罰のなかに生きてくださった。我々が悔い改め、イエスを信じるなら、この赦し とキリストの義の中に入れられる」というもの。これは神の恵みを恵みのまま置いておかず、そこに電気を 流し、キリスト者を、義を行う者へとかきたてる。つまり横の方向の福音を遂行せずにおれなくなるのだ。 キリスト者の義に対する欲求は、福音をつかむことによって変容されたアイデンティティーから流れ出る。 それは、行いでなく信仰のみによって救われることを唱える福音である。 

考えよう⇒「我々の罪とキリストのきよさの交換」は「社会性モデル」「二王国論」など一般恩寵グループ には抵抗があるかもしれません。しかしここからスタートする必要性をティムケラーは説きます。この福 音理解に立つことの大切さをあなたは感じますか?

(7) 宣教的教会のしるし 教会は、率直に古典的な福音の教義を説教し教えたとしても、それでもなお宣教的でありうるとティムケラ ーは考える。つまり、それでもいわゆる現代文化と対峙し、私たちの社会にいるまだ信仰を持っていない人 たちを弟子化することが可能なのだ。ではどうやってそれをするのか?そこには5つの方法<5つのある べき姿>がある。 1宣教的教会が、もし文化に対峙することをミニストリーとするなら、偶像に立ち向かう必要がある。2宣 教的教会は、すべてのクリスチャンが各地域において宣教に遣わされていることを認め、コミットしなけれ ばならない。3宣教的教会は、みずからを「しもべ共同体」と理解しなければならない。つまり教会員自身 が、共通の善を求めるカウンターカルチャーであるということだ。4宣教的教会は、地域におけるキリスト 者の協力をできる限り図らなければならない。5宣教的教会は、ある意味で多孔質(穴だらけで通気性がよ い状態)でなければならない。この「多孔質」とは次の意味合いだ。つまり、未信者、求道者を、教会生活 やミニストリーのあらゆる局面、具体的には礼拝、スモールグループ、近隣の人々への奉仕活動へと巻き込 んでいくのだ。その welcome 度を見て、彼らは福音が我々の生活にあふれていることを知る。文化脈とは、 文脈化されながらも霊的には別物であると知った時に彼らの中に感動が起こる、そのための舞台である。ま た宣教的な教会は、福音的なプログラムや担当部署にアウトリーチを頼るのでなく、各人の教会生活そのも のが未信者へのプレゼンテーションとして ready になっている必要がある。 

考えよう⇒再び(3)で学んだ『宣教的』の 4 つの流れ「福音伝道的」「受肉的」「文脈的」「互恵的、地方自治 的」を振り返ってみよう。あなたの今の理解はどの段階ですか。

(8) 人々を宣教的生活に整える なかでもミニストリーにとって大切なのは、信徒を世にあるミニストリーに対して弟子訓練をしていくこ とだ。宣教的に生活する人々のしるしは何か?ボルガーはこう言っている。「彼らは教会外のコミュニティ ーとの第一の接点を、教会のサービスに置いていないことだ」と。信徒をこのようにミニストリーに巻き込 み「説教と教育による信徒ミニストリー」を展開することが大切だとティムケラーは言う。 

(9) 非正規宣教師(informal missionaries) ジョンストットが言うように、キリスト者は歴史的に「closed で、福音的で、修道院的なコミュニティー にこもる」傾向があるが、初代教会においては違っており、ギリシア語のエバンゲリゾーは福音を伝道する こと。つまりイエスがどんな素晴らしいことをしたかを人々に伝えることであり、「使徒の働き」では文字 通りすべての人がそれをなした。「知恵を尽くして互いに教え忠告し合い」(コロサイ 3:16)、「あなたがた は信者の模範となったのです」(Iテサ 1:6-10)、「日々互いに励まし合い」(ヘブ 3:13)とある通りだ。 初代教会の爆発的な成長は、訓練された説教者、伝道者でなく、一般のクリスチャンの、それぞれの関係性 の中で交わされる非正規な会話によってもたらされたと言える。中でも最も強い関係性は家庭にあった。血縁、奴隷、雇用関係、友人……。誰かがキリスト者になったら、その影響を一番被るのがその家族だった。 ルデヤから家族へ(使 16:15)、看守から家族へ(使 16:32)。またヤソンの家がその中心だった(使 17:5)し、 会堂よりかえってティティオ・ユストの家がよかったのだ(18:7)。家庭は、指示や教育の場として用いら れた。パウロが唯一ステファナの一家に洗礼を授けた(Iコリ 1:16,16:15)のもその流れだ。家は支持や教 育のためのシステマチックな場として用いられた(「家や宮で日々宣べ伝えた」(使 5:42))。また家は友人 や隣人に福音を計画的にプレゼンする場でもあった。コルネリオの家(使 10:22)がそうだ。また、祈りの 場となり(マルコの母マリアの家はそうだった(使 12:12))、緊急の集会の場となり(使 16:32←看守の家 で福音を)、夜中の語らいと祈りの場となり(使 20:7←このあとユテコ事件発生)、フェローシップの場とな った(使 21:7←パウロの航海のあとの交わりの場)。家の中でだれが信じるかで、その福音の動きや、働き が変わるとグリーンは分析する。家族に次いで大切なのが友達関係による福音の伝搬だ。ヨハネ 1 章で、ピ リポは自分の友人ナタナエルにイエスに関する知識(1:45)を伝えている。 

考えよう⇒教会のミニストリーとしての伝道と、上記の「家」を中心とした伝道(あるいは友人への伝道) の両者は、あなたにとって一つですか、それとも別ものですか。別ものの場合、あなたにとってどちらがメ インですか?

(10)信徒ミニストリーの原動力 では信徒全員による福音伝道のミニストリーは、今の時代どのような形になるのか。ベースは次の4つであ るべきだ。 1有機的:たまたま教会で組織されたプログラムとは違うところで始まるが、その過程で教会のプログラム を利用する。2関係的:非正規の個人的な関係という文脈でスタートする。3みことばを展開する:祈り心 をもって人々の生活の中に聖書のみことばを運んでいく。4能動的(not 受動的):各人がミニストリーのプ ロデューサー(not 単なるユーザー)である意識と責任感をもつことが必要。 

ティムケラーの経験では、通常 20-30%の教会の人たちが、この種の有機的、関係的ミニストリーに組み 込まれており、その場合その力強さは教会全体をパワーアップし、伝道的にする役目を果たす。信徒牧師は カウンセリングし、励まし、指導し、弟子化し、信徒にも未信者にも証しをする。彼らは自分の生活を他の 人たちの生活にかかわらせていくことによって、信仰と恵みの内に成長していこうとする。まずこの信徒牧 師のケアを受けた人たちの一部が、このミニストリーにいることで、教会は質的にも量的にも成長する。ま た彼らは教会リーダーによって整えられ、支えられているので、このミニストリーに巻き込まれていること 自体に快適さを感じ、教会に対するオーナーシップを感じるようになる。こうして彼らは、教会を、「自分 たちの教会」と感じ、任命されたリーダーと同じく、無償でよろこんで時間も賜物も財も供出するようにな る。 まさに、キリスト教の教育とカウンセリングなくして、みことばの説教と礼典の執行なくして、また霊の家 族としての生活面でのサポートなくして、管理と責任の労なくして、更には教会生活と弟子たちの働きを抜 きにして、信徒が信徒牧師として建て上げられていくことはないのである。しかし信徒ミニストリーが起こ ってくるなら、そのことでこれらの「機能」が質量ともに起こって来るのである。人的、財政的資源は、ど こから起こって来て、教会全体を支えるようになるのかという質問に対する答えは、それは全教会員による 福音伝道ミニストリーから起こって来るのである。 

考えよう⇒教会の発展は、信徒が信徒牧師として立て上げられるとき、初めてスタートします。あなた自身 が信徒牧師となり次の開拓教会の核となることは想像できますか。そのためにはどのような学びと、ケア が必要だと思いますか?