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センターチャーチ

「都市に対するビジョン」についてのおさらい #3(本文 P166〜169)


【AAA】都市は私たちにどう働きかけるか

【A-1】生産性を上げる

「革新的な活動をしている場所と物理的な距離の近いところにある会社は、近ければ近いほど生産性が高い」というリサーチ結果がある。「近くで働く」ことは無数の相互作用を生む。情報は豊かになり、新人をエキスパートに育てるにも、エキスパート同士が互いに刺激し合って新しい境地に達するにも、「物理的に近いこと」は求むべき環境だ。高密度で複雑な仕事には、自然発生的なミーティングや、自分の周りの人をランダムに観察できる環境が欠かせない。成功経験のあるメンターと日々共に過ごし、彼らから学び彼らを観察するところに、若い有能なワーカーを輩出する土壌が生まれる。それは計画的な会議やビデオディスカッションにはない世界だ。昨今の情報時代においても、新たな発明、発見はローカルから始まる。都市理論ではこれを「集塊作用」と呼ぶ。物理的にいっしょにいることで、経済的・社会的メリットが生まれるのだ。

【AAA-2】集塊作用の第一のメリットは「似た人同士を結ぶ」

都市はあなたと似た人をあなたに結び付ける働きをする。あなたに似たすぐれた人と出会うので、常にチャレンジを受けベストを尽くすよう求められる。自分の可能性についてつぶさにレビューし、すべてを実現させるようなドライブとプレッシャーを感じるようになる。

しかし罪は、この都市の持つ「強み」や、文化を形作るうえでの「激しさ」を、傲慢や、嫉妬や、バーンアウトなどの堕落したものに変質させてしまう。従いこの賜物についてのダークサイドに対抗するために福音が必要となるのだ。

【AAA-3】集塊作用の第二のメリットは「似ていない人同士を結ぶ」

都市は社会のサブカルチャーと少数者を引き付ける。彼らはそこで互いに結びつきサポートし合うのだ。それは、独身者、貧者、移民、少数民族など、いわゆる「弱者」には幸いな環境で、彼らはそこに飛び地をつくる。あなたはそんな違いや多様性の中にいるため、自分の考えや信仰に常にチャレンジを受けることになる。クリスチャンはこの都市のチャレンジに対し「福音によって」向き合うのである。

考えよう⇒【AAA-2】の、「強み」や「はげしさ」を堕落したものに変質させないための福音の効用とはどういうものでしょうか (マタイ 3:17)。 

【BBB】都市で聞く福音

福音は、私たちがこの都市におけるチャレンジに向き合う上で、恐怖でなく、喜びを提供してくれるのだろうか。まず、私たちは都市に福音をもたらしつつも、都市においても福音を聞き続ける必要がある。そして、都市自身が私たちにどれほどの福音を届けてくれるかを知る必要があるのだ。

【BBB-1】都市で聞く「めぐみの福音」

我々は都市で、霊的にも、モラル的にも、この人には望みがないと見える人たちに出会い、「この人たちが福音を聞くことは逆立ちしても無かろう」と思ってしまう。しかしこの思いは我々の本音を表している。私たちが救われたのに、どうしてこの人が救われないのか。徳でも手柄でもないはずのめぐみの福音について、どうしてそう言えるのか。どうしてこの人の悔い改めが、自分の悔い改め以上の奇跡なのか。都市は、我々のこの矛盾をクローズアップする。我々が純粋な恵みの信仰に立っていないことを、また我々が、神は自分たちのような「良い人」をメインに救おうとしていると信じているという残念な事実を、私たちに示すのである。

【BBB-2】都市で知る「一般恩寵」

都市では多くの人に出会うが、それらの人々が他の宗教を持っていたり、また無宗教でも私たちより賢く、優しく、思慮深い人たちだったりする。それは、我々クリスチャンが、恵みの中で成長させていただいているものの、元々は(実に多くの場合!)ノンクリスチャンより弱い者たちだからである。でもなぜそんなことが起こるのか。それは一般恩寵によるのである。もしこのことに驚くなら、我々はもう一度めぐみの福音を思い返す必要があるだろう。もしめぐみの福音が真実なら、クリスチャンがどうしてノンクリスチャンより「良い人」と言えるのか。この「素晴らしい生きた証拠たち」から我々はこの内なる矛盾を知ることになる。頭では「信仰義認」を理解しているが、実はそれは頭の中だけで、実際は、救いは道徳的な正しさや働きによるという間違った枠を脱し切れていないという事実を。このように都市は「一般恩寵」とめぐみの福音のメッセージを通して、我々を謙遜にしてくれるのである。

考えよう⇒リベラルは私たちより社会貢献に素直に従事しているその背景には彼らの「一般恩寵」思想から来る社会への謙遜さがあるいう考えは、私たちにどのような変化をもたらすでしょうか? 

【BBB-3】都市で知る「謙遜」

リディーマーの初期のミニストリーの中で、「都市をあわれむ」ということが、あたかも「私たちが救世主」というような誤解を自分自身に与えることに気付いたとティムケラーは語る。私たちは都市や、そこに住む人たちから謙遜を学び、また都市とそこにいる人たちを尊重しなければならない。なぜなら都市と我々は互恵的関係にあるからである。我々は彼らに、神と神の恵みについての理解を持ってもらいたいと願うが、その働きの成果は、彼らが我々をどれだけ必要としているかに比例するからだ。だから、我々は意識して彼らの生活の中に一般恩寵を見る必要があり、その中に初めて謙遜と尊敬と尊重が生まれるのだ。

【BBB-4】都市で知る「境界線越え」

多くのクリスチャンたちが都市を避けてきたのは、都市が「他のもの」でいっぱいだからだ。都市は人でいっぱいだし、かつ彼らは我々と似ても似つかない。それを見てクリスチャンは気後れする。落ち込み、私たちはこういった人たちは好きになれないし、ここにいること自体が安全じゃないと思う。が、我々はなんと簡単に福音を忘れてしまうことだろう。福音とは、神がこの世に来て「私たちの間に住まわれた」(ヨハネ 1:14) こと。私たちの一人となり、死ぬほどまでに私たちを愛してくださったこと。私たちは完全に「別もの」だったのにである。

都市は我々を謙遜にしてくれる。そして、どれほど我々が福音とは別もので遠く離れた存在だったかを示してくれる。

実は福音のみが我々を謙遜にしてくれる。つまり我々に信任を与え、勇気を与えるのが福音であり、それ故に我々も都市に信任を与えることができ、また都市に対する恐れから解放されるのだ。これによって我々は効果的なミニストリーを展開することができ、また神に栄光を帰しつつ、他の人々を祝福することもできる。これが分かった時、都市が我々を必要としている以上に、我々の方が、我々自身の継続的な霊的成長のために、また私たちの働きのために、都市を必要としていることが分かって来る。

考えよう⇒神が全く異質な世界に来てくださったことは、私たちの行動をどう変えますか。(ヨハネ 1:10-12) また、都市が私たちを必要とする以上に私たちが都市を必要としているという事実を、どう受け止めましたか。

以上