信仰とは、まず主が既に与えてくださっているものを喜ぶこと。そして次に、主がこれから為そうとしておられることによって喜んでいくことです。僕らはともすると、喜びを自分で作り上げようとします。バベルの塔のように自分の力と努力で、喜びの世界を生み出していこうとするのです。主が為そうとすることを待とうとしません。でもそれでは、主のみ業を拝することも、主を喜ぶこともできません。 そうでなく、アブラハムがイエスの日を生きがいとし喜びとして生きて来たように、私たちも、イエスこそ自分の生きがい喜びとして歩めるよう、祈りたいと思います。そうするなら、それができるなら、時を委ね、賜物を磨き、そして一歩前に出る時は「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)の信仰を持って、本当の生きがいのある日々を生きることができるのです。 イエスはモーセに生きがいを与え、アブラハムの生活を支え、イザヤもイエスを証しし、皆がイエスの日を見て生きてきました。イエスはすべての時代でともに働いてこられたということ。これは過去だけでなく、今この瞬間も変わりません。その意味でイエスは、場所にも時間にも制限されない無限のお方です。このイエスと私たちはどのような関係を作っているでしょうか。
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