ハントの描いた「世の光」のイエスは、ランプを手に扉をたたいています。ツタが絡まり、外側にノブのないドアは「開かずの扉」だとわかります。これは自己欺瞞に陥り、自分に嘘をついてきたラオデキア教会の姿でした。経済的には豊かで満足感はあるが、彼らは自分を神から遠ざけ、本当の自分を見ずに来た。これが彼らの「生ぬるさ」の正体で、イエスはそれゆえに「彼らは吐き出したいぐらいにまずい」と言います。
僕らはともすると、外の世界においてはイエスなしでもやっていけるというもう一つの世界観を持ってしまいます。そんな僕らに対し、イエスは「わたしから買いなさい。楽しみも、試練も。なぜなら試練はあなたの信仰を純化し、霊的な識別力を上げるから」と言います。イエスはその愛の豊かさのゆえに私たちを叱り、見捨てずに愛し続けるお方なのです。
祈りには4つの段階があると言います。それは、まず①神に語り掛ける、次に②神がそれを聞く、さらに③神が私たちに語り掛け、最後に④私たちがそれを聞くというもの。でも僕らは祈りはするけど、そんな僕らの祈りを聞いて下さる神が存在するという意識すらない。僕らはイエスと食事をしていないのです。
雨降りは心理模様。がむしゃらに突き進む強行突破型は、ミスした自分に腹を立てます。神の助けはいろんなところにあるのにそんなものは見ない。たとえ祈っても①どまりで、イエスとの食事も自分のペース。「そんなに急ぐなよ。決めつけるなよ。絶望するなよ。私と一緒に、時に雨宿りし、時に雨の中を歩こうよ。ノックに気づいてドアを開けるなら、私はあなたと食事をし、あなたも私と食事をする」これはイエスの、愛するあなたへの誘いであり、また招きなのです。