僕たちは「嵐」が起こると、神に罰せられているのかと思いますが、それは間違いです。イエスはご自分を「わたしは究極のヨナだ」と言われました。つまり僕たちにはふさわしい嵐があるということ。それは力を尽くし、知性を尽くし、心を尽くして神を愛しているわけではないから。なおかつ、隣人を自分自身のように愛してもいません。だから嵐に遭って然るべきなのです。
イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、本来僕らが受けるべき嵐をイエスが受けられたからでした。ヨナが海に放り込まれた時、嵐が止んだのです。罰はすでにイエスが受けられた。だから今の苦しみはもう罰ではないのです。
神は僕らの嵐に臨在してくださいます。なぜなら僕らの経験する苦しみをすべて経験済みだからです。そして神を信じるなら、ヨセフがそうだったように、神はそれによってあなたに善をもたらそうとしておられます。嵐は世界の混乱の一部であって、その間にあなたをキリストに似たものに変えることがおできになります。神の臨在に立つなら、それがあなたに起こるのです。
また人生は神のご計画100%、かつ僕らの行動100%。僕らはゼロサムの考えになりがちで、こっちが100なら神はゼロ、あるいは神が100なら自分はゼロ。50対50とか、80対20とか。しかしそうではなく、この100対100の逆説・ハーモニーを理解し両立させることが、嵐の中でも能動的、かつパニックに陥らなかったパウロの生き方の秘訣なのです。