神は、全宇宙の所有者、兼支配者です。信じる私たちは、この神の子とされ、イエスと並ぶ共同相続人とされています。でもその前提が「苦難も共にする」ということ。十字架が無ければ冠もない。神の子とはそういうものなのです。あなたは、このイエスの言う「軽いくびき」を、ご自分の十字架を、そこから来る召しをもう発見されたでしょうか。 イエスに対する裏切りに落ち込み、「次は俺たちが殺される番かもしれない」と、部屋に鍵をかけておびえる弟子たちに、復活のイエスはまず「平安があるように」と言い、伝道に遣わされます。なぜ、ここで伝道なのか。それは新しいミッションを与えられることが、彼らにとっての最高のなぐさめであり、励ましであり、元気の素だったからです。 愛され、赦されている事実を彼らは確認し、「だれにも指一本触れさせない」とイエスが言われたその平安を手にして、彼らははじける思いでこの新しい任務に出て行きました。我々も、今聖霊を受け、世界大の神の御手にすっぽりはまって、神の召しへと、ターボエンジン搭載で、遣わされて行こうではありませんか。神から預かったものを、神のために使わせて頂こうじゃありませんか。
投稿者: admin
『聖霊がなければ「イエスは主」とは告白できない』(Ⅰコリント12:3)とありますが、この「告白」は、口と心が一致した発言を意味します。かつ当時はキリスト教迫害の嵐が吹き荒れ、ローマ人は「カイザルは主」を合言葉とし、それによって命を守る時代でした。私たちは迫害のない時代に生きています。が、お金や仕事が主となってはいないでしょうか。裏表のない「イエスは主」という言葉を告白し、そのことを、生き方を通して示していきたいと思います。 青虫が蝶になるためには、さなぎを通らなければなりません。さなぎは英語でchrysalis、この語源はChrist、キリストです。罪でがんじがらめになっていた自分を知り、でもそこでしかお会いできない方とお会いし、悔い改め、2次元の青虫状態から、大空を飛び回る蝶に作り変えて頂ける者は幸いです。そのスタートは、神を知り、自分を知ること。そしてこれを為してくださるのが真理の御霊なのです。 紙のグライダーを遠くまで飛ばそうと思ったら、先っちょに鉛製のおもりを付けます。あなたにも、人生を邪魔しているとしか思えない重荷があるかもしれません。その意味を、内なる聖霊に問うてみてください。そして信頼して委ねましょう。その重荷が、時を経て、グライダーのおもりとなって、あなたを遠くまで飛ばしてくれます。聖霊は、言葉にならないうめきをもって、今日もそのあなたの重荷についてとりなしてくれているからです(ローマ8:26)。
黙想などというと特別な事のように思われるかもしれませんが、それは何かを繰り返し考えること。そして心の中でそれがぐつぐつ煮えていくことを言います。聖書の黙想を言うとき大切なのは、ある節を繰り返すうちに心の中で何が起こるか。そしてそのみことばが心の中で熟成した時、初めてそれがあなたに影響を与える思考となり、その思考が人生を形づくるのです。 アブラハムは約束の息子誕生を24年待ち、イスラエル人は奴隷から解放されるのに400年、モーセは荒野脱出に40年待ちました。このように聖書では「待つ」という行為は「信じる」とほぼ同義語と言えると思います。『「しかり、私はすぐに来る」アーメン、主イエスよ、来てください』とある通り、究極的に僕らの待つべきものは再臨のイエスだと聖書は言います。 仕事は自分で選ぶもの、召しは与えられるもの。そして召しに命を懸けるパワーの源が「すでに勝利した」という週ごとの伝令です。礼拝を通して運ばれてくる伝令を聞く中で、主の勝利の隊列はどこを向いているのか。仕事をする中でそのベクトルを発見し、神に励まされて歩みだし、神を賛美(拡大)しようではありませんか。舟を降りると、私たちは変えられるからです。
- タグ マタイの福音書
ペテロはイエスの「来なさい」ということばに応えて、舟を降り、水の上に出ました。これは、まず召命がありその応答としての行為だったと言えます。さて、あなたの仕事に神の召しはあるでしょうか。職業は普通、自分のために自分で始め、一過性で終わるものですが、召しには「与えられた」という確信があり、それを為すための力が神から与えられ、その行為は永遠に覚えられるのです。 ペテロも「水の上でも沈まない」という信仰を持って、足を水につけました。足を水につける行為は、信仰抜きにはできません。ところで、あなたの生活の中に、信仰なしではできないことはあるでしょうか。「今日どこで足を水につけることができるでしょうか」と問い続けることは大切です。それはあなたを祈りに導きます。なぜならそれから先のことは神の助けなしではできないからです。 召命に応える時、人は恐れを覚えます。お父さんがプールの中から「飛び込んでおいで」と呼んでいます。その子が飛び込めば、それは大きなブレークスルーです。その最大の収穫は、お父さんが信頼に足る方であることを知ることでしょう。そして、もし招きに応え、恐れを乗り越え、神に信頼してチャレンジするなら、たとえどんな小さな行為でも、それは永遠にあなたのものになると主は言われます。
- タグ マタイの福音書
僕らの人生は、なんと望みのない、打ちひしがれることの多い人生かと思います。僕らは弱い存在です。なぜならもとは地の塵だったと聖書に書かれているからです。でも問題は、僕らがその「過去」に生きるのか、それともすでに復活したイエスが僕らの横に立たれ、語り掛けておられるこの「現在」と、さらには十字架によって完成された栄光の「未来」に生きるのかどうかということです。 エマオの途上でイエスと出会った時、弟子たちはうなだれていました。それは彼らが「よい預言者だった」「十字架に掛かった」「墓からもいなくなった」と、徹頭徹尾、た、た、た、の「過去」に生きていたからです。しかしイエスが共に歩き、聖書を解き明かすや、彼らの心は内に燃えたのです。そしてエルサレムに走りました。僕らも聖霊に燃やされて、Good Newsのために走る者になりたいと思います。 あなたは果物の王様ドリアンです。「パパイヤのほうが好き」と言う人もいるでしょう。でも、あなたはあなた。パパイヤにはなれません。こうなったら、人の評価なんて二の次です。み言葉と聖霊に励まされて、ドリアンの実を、思いっきり結んでやろうじゃありませんか。神の望みは、あなたがもっとあなたらしく生きること。神は「よくやった」と、あなたに伝えたくて仕方がないのです。
自分の会社には夢がない、将来がない、ここに居るのはみこころじゃないと思って、悩むクリスチャンビジネスパーソンは多いと思います。でも、知っておきたいのは、あなたをそこに遣わされたのは神だということです。神はあらゆる仕事を祝され、喜ばれ、その更なる祝福のためにあなたをそこに送られました。 すべての仕事には堕落と回復の2つの要素があります。イエスキリストは、全被造物の回復のためにこの世においでくださいました。そしてあなたを通して、そこからこの世界を創りかえようとしておられます。今あなたの職場で、あなたに期待されている回復の業は何でしょう。 神のドラマに期待して、ストーリーテラーである神に信頼して、回復の使者として、今日イエス歩みの超ミニチュア版を歩ませて頂こうではありませんか。サイズはミニでもベクトルは同じです。その時あなたは気づくでしょう、あなたが完全な自由を手にしていることを。 世には二種類の自由がありますが、それは離れる自由でなく、近づく自由。ただ罪を犯さない自由ではなく、「アバ父よ」と、大胆に神に近づく自由。このことのために自分は今動こうとしていると言える、積極的、具体的な自由。主に在る異次元の自由がここにあるのです。
- タグ ヨハネの福音書
イエスはご自分を「この世のものではない」と言われました。が、これは、我々クリスチャンのことでもあります。それは、クリスチャンは未来という隣の庭に植わりながら、枝は垣根を越えて現在という空間に伸びて来て、そこで愛と信仰を結ぶ人たちだということです。さらにコロサイ1:5「あなたがたのために天に蓄えられている望み」と複数形で言われるように、それは共同体で分かち合う恵みです。希望は僕たちを結び合わせ、互いの愛を増し加えます。世から呼び出された者たち「エクレシア」をひとつにするのが、この希望なのです。 僕らは人生で不幸な出来事が起こった時、「神様がおられるのにどうして?」と思います。が、その疑問には答えられません。イエスは盲目の男性の理由について弟子に聞かれましたが、それには答えず、「神の栄光が現れるため」とだけ答えました。義人ヨブも58回「なぜですか」と問いかけたけれど答えは与えられず仕舞い。聖書はこのように、過去でなく未来に目を向けることを促します。不幸は人と人をつなぎ、人と神をつなぐのです。ヨブが癒されたのは、理由を知ったからでなく、神を見たことによってでした。 ともにおられる神、インマヌエルの神こそが僕らの生きる道なのです。僕らは何かあると、「神様働いて!」と叫びます。が、神は直接働くことより、神によって変えられた人を使って歴史を変えることを喜ばれるようです。神はあなたとともに働きたいのです。雨は続きます。でも蛇の目傘でお迎えに来てくれたお母さんを幼子が喜ぶように、神の臨在を喜んで、雨の中を進んでいこうではありませんか。あなたは今日、どこに遣わされますか?神はそこで、あなたを通して世界を変えようとしておられます。
- タグ ヨハネの福音書
ダビデとゴリアテの戦いの場面。兄のエリアブは、弁当を届けに来たダビデが、ほかの兵士と話をしているのを見て、「いったいおまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、誰に預けて来たのか。私には、お前のうぬぼれと、心にある悪がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう」と見下して言います。しかしダビデはそんな皮肉には耳を貸さず、羊飼いの自分の特性を生かして、杖と、5つの石で、ゴリアテに立ち向かいます。 エリアブは、自分を偉大な戦士だと思い、一方でダビデの羊飼いの仕事を見下げていました。しかし実際のエリアブは、ほかの兵士と一緒に宿営で震え上がっていたのです。この表と裏のギャップ、乖離状態がシニシズムです。一方ダビデは日ごろから、外もうちも完全一致の生活をしていました。死の陰の谷に在っても神の臨在を感じることは、彼にとっては普通のことでした。 根拠のない楽観主義は祈りません。が、逆にシニシズムに陥ると祈れなくなります。どちらも神に信頼していないのです。でもパウロは、救い主の血が落ちてバラ色になったレンズを通して、教会を見ていました。私たちも、家庭を、職場を、すべての人間関係を、神の贖いのストーリーからくる安心、根拠ある楽観主義に立って眺め、個別の問題に対処していきたいと思います。
- タグ サムエル記第一
初期のクリスチャンには様々なグループがありましたが、「十字架で辱められて死んだあと神がイエスを復活させた」ことを信じないグループは存在しませんでした。そして1世紀の歴史を調べると、「なぜ教会が誕生したのか」という質問に対して、「イエスの復活によって私たちは存在するようになった」と、全ての初期のクリスチャンは言っています。 しかし一方でイエスの復活を予想して福音書を書いた福音書記者はいませんでした。4つの福音書はどれも、「とんでもないことだとわかっているけど、本当に起きちゃったんだよね」と言っているようです。つまり当時のユダヤの文化脈においては、イエスの復活を巧みに考え出すことは不可能だったということです。 1世紀にキリスト教会が始まったことは事実です。そして復活は、なぜ教会が新しい時代が始まったと信じるようになったかを説明しています。と同時に、なぜイエスの死が不運な出来事ではなく、美しい夢の終焉でもなく、神の救いの御業のクライマックスだと信じるようになったかを説明します。従い復活は確かにあった、そしてその実(フルーツ)がキリスト教会だとNTライトは結論付けています。 逆に復活が無く、キリスト教会が生まれなかったら、人類の歴史はどうなっていたのでしょうか。人権、男女平等、福祉、病院システム、学校制度、これらはすべてキリスト教会がその起源です。つまり、これら全部がない世界がスタンダードとなるわけで、そんなのは想像するだけで恐怖です。復活があってよかった!と改めて思います。
- タグ マタイの福音書
十字架のイエスとその両脇の二人の泥棒。実はこれが「最初の教会」という説があります。死に直面してイエスと結び付けられている罪びとの集団が「教会」だからです。泥棒の一人はイエスとの会話の中で自分の罪を悟り、またまことの神を知り、その神により頼みます。と、その瞬間、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスに居ます」と驚くべき確かさで、イエスはその罪びとの今後の歩みを約束される。これが私たちがイエスと為すべき会話なのです。 2つ目の教会は、弟子とマリアへの、十字架からの語り掛け「女の方、御覧なさい。あなたの息子です」から始まります。その「イエスの愛する弟子」はヨハネだろうとされていますが、実際にマリアのお世話をする弟子は、イエスに愛された経験を持つことだけで十分だったのです。イエスは12弟子の足を洗い、この足を洗い合うことを知る弟子たちに、ご自分の母マリアを託した、それが「教会」の始まりでした。 「わが神わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスは、サタンに包囲された状態でした。でもその後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈られた、これは、サタンの包囲網を突破されたということです。この祈りは元来ユダヤ人の子どもが眠りにつくときの祈りの言葉です。神に委ねるイエスの生き方と神に委ねるイエスの死に方は、共に私たちの理想、そしてそれこそが迫りくる死の包囲網を突破する力なのです。