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礼拝メッセージ

イエスは誰?私は何?
マタイ26:20-35

最後の晩餐は、世にも不思議な食事会でした。それは参加した者が、誰もイエスのことを分かっていなかったということ。かつそれ以上に自分のことも彼らは分かっていませんでした。しかしイエスは、どの弟子にも分け隔てなく、パンとぶどう酒を分け与えられました。それが今の聖餐式の原型です。パンは「私があなたのいのちを生かす」というしるしであり、ぶどう酒は「あなたを新しくする契約がここにある」という意味でした。 イエスは、このあと弟子たちが自分を捨てて逃げることを知っていました。そんなイエスの最後の晩餐における思いは、イエスの語った「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈りました」という言葉に込められています。この祈りがあるから僕らは、困難の中に在っても立ち直れるのです。この祈りがあるからこそ信仰を保てるし、この祈りがあるからこそ、兄弟姉妹たちと祈り合い励まし合うことができるのです。 極めつけは、イエスが十字架上で祈られた「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから」の祈りでした。この言葉を聞いた者は皆、この方こそ自分たちを救う大祭司であるということを知ったのではないでしょうか。この祈りがあってこそ、僕らの祈りは祈りとなり、この祈りがあってこそ、その祈りがイエスによって取り次がれて、父なる神のみもとに届けられるのです。

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キリストを乗せて歩む
マルコ11:1-11、ゼカリヤ9:9-10

主の祈りは、覚えにくい祈りです。いちばんよく聞いているはずなのにどうしてかと思います。覚えている僕らも、あまり中身を考えずに、言葉だけ唱えているところがあります。それはこの祈りが、僕らの心から出て来る願望を唱える祈りではないからです。もともと僕らの心の自然な流れに逆らった祈りなんです。 主の祈りは、もとはイエスが天のお父様にささげた祈りです。それを僕らに教えてくださったもの。だから本来この祈りには、僕らの声ではなく、イエスの声が響いているのです。子ろばの背中に乗ったイエスが、僕らに代わってこれを捧げて下さっている。僕らはそれをなぞりながら、この祈りを祈り始めるんです。 僕らはろばです。何のとりえもない僕たちに、イエスが目を留め、そのために使いを送ってくださった。そしてその人に祈られ、伝えられ、イエスと巡り合うことができた。この一方的な恵みに応答するとき、僕たちも神の救いの物語のわき役としていただけるのです。 弟子たちにこの祈りを教えられたイエスは、エルサレムに向かわれます。十字架に向かう旅です。でもそこで終わらない。復活があって今もその旅を続けておられるのです。そのイエスの肉声を聞くとき、イエスの声が僕らの声になり、イエスの歩みが僕らの歩みとなる、これがクリスチャンの歩みなんじゃないでしょうか。

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神は気前のいいお方」
マタイ20:1-15、詩篇23:1-6

神は、あなたにとって、どのようなお方でしょうか。厳しいお方? ダメな人には無慈悲な罰を下すお方? それともあなたを愛し、あなたの喜ぶ姿を見て一番に喜ばれるお方? この、あなたの持つ「神様イメージ」が、あなたの人生を決定すると言っても過言ではありません。マタイ20章の夕方5時から働いた労働者が、朝から働いた者と同じ1デナリをもらったのは、ただ主人の好意によるものでした。たとえ夕方5時からの労働者の様に大した働きはできなかったとしても、そんなあなたも喜ばせたいと、神は思っておられるのです。 紀元2世紀のクリスチャンは、あらぬうわさを流され、偽善者と中傷されました。が、ある人たちには魅力的に映ったようです。なぜなら彼らは、迫害する者にも礼儀正しく、常に天の故郷を夢見、すべての人から迫害を受けたにもかかわらず、全ての人を愛したからです。そして何も持たない彼らが、多くの人を富ませている姿。それを見て、「自分たちも彼らと同じものを持ちたい」と思った人たちが起こされ、大迫害の中にあってクリスチャン人口は急増したのです。 世の貪欲、恐れ、偏見に適応しないクリスチャンは、「変わった存在」です。それは、神ご自身が「変わったお方」だからです。赦す価値のない私たちのために、愛するひとり子を死に渡された天の神様は、人間の理解を超えています。それは、この神が、人間「が」創り出した神ではないからです。学校、病院、公共の福利制度などが確立するのに1800年の時を要しました。全ては教会がスタートです。このように、「本物」が浸透するには時間がかかるということ。それを思うと、伝道も、もっと腰を落ち着けてやればいいのだとわかります。

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光が見えますか
ヨハネ8:12-20

「私は世の光です」と言われるキリストは、私たち罪びとを照らし、いのちを与える光源として来らました。そしてこの光源は、さらに無数の小さな光源を生み出しているのです。教会で、あの人が来ていると思うだけで、心の中にぽっと光がともるような人が居るんじゃないでしょうか。あるいは自分が暗い思いになった時、あの人のことを思うと、パッと明るい気持ちになれる・・・。実は彼らは次なる光源をどんどん生み出しているのです。「わたしに従うなら、決して闇の中を歩まない」とのイエスの宣言は、クリスチャンであるあなたは光の子であって、次なる光源を再生産中だというメッセージです。 またイエスは、天の父なる神こそがご自分の証人であるという確信に満ちて、この世での人としての人生を生き抜かれました。一方で私たち日本人は人の評価を大切にします。人の賞賛、誉め言葉は、成功の証しであって、私たちのプライドはかなりの部分がそれで満足されます。しかしボンヘッファーは、「十字架の姿は、成功というものを基準とする考え方を無価値にする」と言いました。神のみが自分の証人であって、それ以外は求めないところに、本当の自由があり、真の「神にある成功」を生み出す地盤があるのです。この主のパラダイムシフトは、私たちへのチャレンジです。 ところで礼拝の最後には「祝祷」というのがあり、その中で、「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」という言葉が語られることがあります。これは神が私たちを照らし出し、送り出すという、まさに輝きを持った祝福の祈りです。「私は世の光です」と言われる方の招きと、その真実の光の中に立つとき初めて、私たちは、何かを自分たちで頑張ってするというのではなく、自然体で光り輝く者となり、決して闇の中を歩まない「主の灯(ともしび)」としての人生を、体現し始めるのではないでしょうか。

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祈りをあきらめない
ルカ18:1-8

やもめの女性は、不正の裁判官に、今不当な扱いを受けているから正しいさばきをしてほしいとしつこく迫ります。イエスはこれを指して、これがクリスチャンの祈りに対して本来あるべき態度だと言います。なぜならこのしつこさは、「裁判官の力」に対する信頼から出たものだからです。この方なら何とかしてくれる、この方には解決する力があるという信頼です。この裁判は、やもめにとって、自分では動かせない山だったのです。 イエスはマルコ11:22で、まず「神を信じなさい。そのうえで山に命じなさい。すると山は動く」と言われました。ところが私たちは、祈るとき、どうも目の前の問題ばかりに目を取られ、神を見ていないということがあるのではないでしょうか。山を見る前にまず山を動かすことのできる方を見る。つまり神の力と、神が良きお方であると信じることが、なにより大切なのです。 イエスは底点に立たれました。つまりどん底で、全ての失望と落胆を味わいつくされました。そしてその真っ暗闇の中から、十字架を通して光を見られたこの方が、「失望せず祈り続けよ。祈りには力があるから」と言われるのです。試練は変わるチャンスです。そして祈る者に変えられた時に、私たちは、この時代に在って未来に光を見、また山が動くのを見るのです。

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解放者イエス
ヨハネ8:1-11

姦淫の場で捕まえられた女がイエスの前に引き出された時、パリサイ人、律法学者たちは、「あなたが処罰の方法を決めなさい」と迫りましたが、イエスは彼らに背を向け、地面に何やら書いておられたと聖書に記されています。要は彼らを無視したということ。この後にも、イエスが何かを問われて「返事をされない」という場面は出てきますが、全て捕えられさばかれる場面です。 僕らは、祈っても神に答えられないと文句を言ったり、愛が足りないと神をさばいたりすることがあります。しかしさばく者に対して神は背を向けられるということ。また、人をさばくというのは自分へのさばきを招く行為だということを覚えておきたいと思います。 「さばく権利を持つのは罪のない者だけだ」と言うイエスのことばで、周囲にいた群衆は全員帰宅します。そして最後に「わたしもあなたをさばかない」と言って、イエスは女を解放しますが、その後、十字架にかかって、こともあろうか彼女の身代わりでもあるかの如く殺されます。それを知った女は、イエスの赦しと解放の意味を初めて理解し、その後教会に加わってこの物語を伝える者になったのではないでしょうか。 ここに私たちの物語があります。あの方が自分の罪の身代わりになって死んでくださった。私たちはここに何度も何度も戻って来る必要があります。そして、「もう罪を犯さないように」と言われた言葉に突き動かされて生きるのです。神や人をさばかず、神の喜びをわが喜びとする人生、そこにこそ解放された者としての本当の生き方があるんじゃないでしょうか。

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ニコデモの昨日・今日・明日
ヨハネ7:40-53

ニコデモは、パリサイ人かつ評議員でしたから、グループ的にはイエスの敵、祭司長たちの仲間でした。が、そのニコデモが、「本人から直接話を聞かずに逮捕するのは、律法違反だ」と、律法を盾に彼らに反論したのです。ニコデモは以前イエスに会い、直接交わったことがあり、それ以来、彼の中に大きな変化が起こっていたのです。彼がモノ申したことで流れは変わり、祭司長たちの謀議は成立せず、解散となりました。当時のニコデモは成長期のクリスチャン、そしてその後彼は、イエスの埋葬を手伝うまでの信仰者に成長します。敵陣の中にも信仰の友あり。私たちは、遣わされた場所で伝道するとき、四面楚歌のような状況をしばしば経験をします。が、「この町に私の民はたくさんいるから」と主は言われます。そんな友は見つかりましたか?祈り合い支え合うことで、私たちは大きな力を得るのです。 使徒2章では、キリストの公開処刑のたった50日後に、3000人のキリスト者がひとところに集まり、仲間と交わり、祈り合っていたとあります。外は迫害の嵐です。でも、その時すでに、励まし合い強め合う共同体が存在したということです。そして、それこそが、その後の世界宣教の力となりました。ボンヘッファーは、「集まることと、一人で神と向き合うことの両方が、キリスト者の成長には不可欠だ」と言いました。TCCは都心に遣わされる皆さんを励ますコミュニティーでありたいと願っています。あなた自身から、また職場から、イエスのいのちの水の川が日本の津々浦々に流れていく。たとえ逆風が吹く中でも、そんな主のbig pictureに、共に歩ませて頂こうではありませんか。

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生ける水の源
ヨハネ7:37-39

イエスは仮庵の祭りで、「私に来なさい。私から飲みなさい。そうしたら、あなた自身が生ける川となって祝福を流し出すようになるから」と言われました。「イエスに行く」とはどういうことなんでしょう。教会に行くことでしょうか。違います。「イエスから飲む」とはどういうことでしょう。これも、聖餐式でぶどうジュースを飲むことではありません。 それは自分の頑張りや良い所に期待する思いを一切捨てて、一罪びととして御前に進み出て、自分の持っている重荷を、中でも罪の重荷を、イエスにあけ渡すことです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」の招きに応じることです。そして、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのです」の、イエスの宣言を聞くことです。このイエスの宣言は、おのれの罪に泣いた者だけが喜べる宣言なのです。 パウロは「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはおれないのです」と言いました。彼は頑張って、その働きをしたのではなく、ただうれしくて抑えることができなかったのです。そして喜んだ者だけが、パウロの様に癒され、満たされ、そうせずにはおれないほどに、良い働きをする力にみなぎるんですね。あなたはイエスに来ましたか。イエスを飲みましたか。イエスの水があなたから流れ出ていますか。

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もうすこしの間
ヨハネ7:25-36

僕たちは生活の中で、思い描いて来たことが進ます、どうしてこんなに赤信号が続くのかなと、ふと立ち止まって考え込むことがあります。しかし、クリスチャンが神のみこころにかなう生き方を思うなら、なおかつ自分の人生を通して神の栄光を現したいと願うなら、あなたの人生はすでに神の盤石の守りの中にあります。だから、赤信号には赤信号の意味があるのです。「神様それは何ですか?」と、そんなときは問うてみることをお奨めします。動機や思い違いが正されれるまで、それは続くかもしれません。が、とにかくそれは神に立ち返るチャンスです。「赤信号 祈りに導く 神の声」それまで見過ごしてきた神の恵みを振り返り、また、何も慌てることはないんだよ、そのままのあなたが愛されているんだよという、神の語り掛けをそこで聞くことでしょう。 さらにイエスは、「もう少しの間が残されている」と言われました。そして「まず神の国と神の義を求めなさい」とも。それは、花婿なるキリストが到着するまでは「もうすこしの間」しか残されておらず、この間に、全力でメシアを探し出せ、見つけ出せということです。それを今日するか、それとも明日するか。まずやるか、それとも後にまわすか。そこに大きな分かれ目があります。「明日」あるいは「後で」と言うのは、言い換えれば、福音の招きを抽象化して、あえて聞かないようにしている状態とも言えます。イエスは「今日」を求めておられます。「まず第一に」とは、今あなたに起っている事件の中に、福音を取り入れることです。赤信号の意味を真剣に問うことです。どうか僕たちが、「もうすこしの間」に、救い主を見つけ出すことができますように。

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正しく判断するために
ヨハネ7:14-24

私たちは、たとえルールにのっとったことで、人々が口をそろえて「良い」と言ってくれることであっても、間違ったことを習慣的にやってしまっていることがあります。それを振り返るポイントは、それが愛から出たことであるかどうか。もし愛でなく、欲や、プライドや、個人的なこだわりから出たものであるなら、一旦立ち止まって考えなおす必要があります。逆に愛から出たものなら、それがルールや決まり事との兼ね合いで難しいことがあっても、(特にこのコロナ禍の、既存の発想では対応しきれないことが山積している環境下)改めて何が正しいのか、どう進めたらいいのかを、もう一度祈り求めたいと思います。 さらに私たちは、日常生活において、人とぶつかることが多々あります。でもその時、自分は正しい、相手は間違っていると、すぐに断じてしまわず、期待して待つことが大切です。誰に期待するのか?それは相手にではなく、神にです。もちろん最終、相手の悔い改めを期待するのですが、その前に、そう導いてくださる神に期待するのです。これがクリスチャンならではの、ゆとりのjudgement。なぜなら、すべての主権者である神が、あらゆる対人関係をも支配して居おられるからです。そして「もう一年待ってください」と主人に懇願する園丁イエスの存在ゆえに、私たちは、早急なさばきが下されることなく今こうして在るを得ているのです。それを思うとき、私たちは人に対するさばきに、もっと寛容になれるのではないでしょうか。