イエスキリストはご自分の「時」をしっかり持っておられました。それは「なすべきこと」がわかっていたこととも言えます。十字架にかかり、死んで三日目に復活し、天に昇ること、これがイエスの人生目的であり、33年のご生涯はここ一点に集中されていました。ユダヤ人は、すべてに「時」があると考えます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・」(伝道3:1-8)と。神がそれらすべてを決めておられ、その「時」にふさわしいことをしないなら、生き生きとは生きられないと考えるのです。さて私たちは、自分の「時」を得て人生を生きているでしょうか。「私の時はまだ来ていない」「私の時は今だ」というメリハリをもって生きたいものです。それは主からのビジョンを頂くときに可能となります。 ところで、イエスの弟たちは、イエスのことを信じていませんでした。マリアをはじめ兄弟たちが、狂ったのではないかと心配してイエスを呼びに来たこともありました。このことは、家族伝道の難しさを伝えています。かつ、それがうまくいかないときの私たちの慰めでもあります。イエスは性質にも、言葉にも、行いにも欠けたところは一切ありませんでしたが、そのイエスにしてこのありさまだったからです。しかしイエスの十字架と復活と昇天後、ヤコブをはじめとするイエスの家族は、初代教会の柱としての、重要な働き手となりました。「時」は不可能を可能にします。それは主のみ業であり、栄光は主のもの。私たちはその「時」を待ち望みつつ、家族伝道にもいそしみたいと思います。そして自らの「時」を知り、主の栄光のために働きたいと思います。
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マタイ2章には、「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて動揺するヘロデ王の姿が描かれています。その動揺するヘロデを見て一緒に動揺したのが、側近の宗教学者と高官たち、そしてエルサレムの住民でした。ヘロデは自分の王位を狙う妻や息子たちをすでに何人も殺害していたからです。ああまた厄介な話が来た…と、不安のさ中にあったエルサレム。方やその対比として「ベツレヘムの村」が登場します。そこはイエスの到来を、静かに、礼拝を持って迎える世界。博士たちはこちらに向かいました。同じ事件の中にある真反対の2つの事象、それがエルサレムとベツレヘムでした。さて私たちはどちらでしょう。今コロナの異変にあって、それでも礼拝を守ることができることは幸いです。エルサレムに在っても心はベツレヘム。異変の中にあっても、主の手に安らぐ者でありたいと思います。 ところで、東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をイエスに献上し、そのあと、別の道から自分の国に帰ったと聖書にあります。占星術の専門家として、これまではこれらを祭儀の道具として使って来たわけですが、イエスに出会い、彼らはその悪霊と偶像の世界と決別して、帰って行きました。別の道を通ること自体が、当時は大変なリスクでした。では彼らはなぜ、そんな危ない「別の道」を選んだのか。それは詩篇113:5-6の「主は御座を高く置き、なお低く下って、天と地をご覧になる」(新共同訳)という、救い主の降誕の預言を、彼らは知っていたのです。静かに眠る幼子に、「低く下る」神の愛と、恵みと、預言の成就を見、彼らはこの神にのみ仕える道に方向転換したのです。さて、このダイナミックな神の愛に出会った私たちは、何を変えていただき、またどうお応えすべきでしょうか。
神の勝利って、どうしてあんなに遠慮がちなのでしょう。どうして悪い人たちを、もっとわかりやすくガツンとやっつけてくれないのでしょうか。そしてイエスキリストの降誕は、どうしてあんなに質素だったのでしょう。もっと派手に、わかりやすく、これぞ救世主といった感じで、威風堂々下って来られてもよかったのにと。私もそう思っていました。そうしたら今頃もっと多くのクリスチャンが日本にいたんじゃないかと。でも、それは、神の戦い方を知らないから出てくる疑問だったのです。神は悪人を滅ぼすことによって勝利されるんじゃなく、すべての罪びとを救うことで勝利しようとしておられるのです。だから人間とは全く違った方、神であるにも関わらず、罪ある私たちと完全に一つとなり、その罪からの救いを成し遂げるために来られたのです。 イエスキリストがあんな回りくどいやり方をされた理由、それはやろうとしていることが救いだからです。審きではないからです。そして本当の救いは、超個人的で、目立たないところにあるからです。だから見えない形で神の子イエスはおりてこられ、罪びとの私たち一人ひとりに、二人っきりの会話の中で、つまり祈りの中で語り掛け、力と慰めを与え、悔い改めに導かれるのです。「一人の人が悔い改めるなら、99人の正しい人のためより、大きな喜びが天にあるのです。」悔い改めがあって初めて、この静かなクリスマスの意味が分かります。あなたの悔い改めのゆえに天はどよめいていました。御子は、罪びとを悔い改めさせるために地球に出発しようとしておられた。だからあの日、あのようなとんでもない光と喜びが天にあったのです。
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天使ガブリエルから「受胎告知」を受けたあと、マリアから出た言葉は「わたしは主のはしためです。あなたのおことば通りにこの身になりますように」でした。が、この告白は、決して簡単ではなかったはず。それはマリアにとっては不都合な内容ばかりが並んでいたからです。マリア13歳で婚約者がいる立場です。そこで妊娠して、どんな言い訳が通じるのでしょうか。対ヨセフ、対両親、町の長老、近所の人たち・・・。律法に従えば石打ちです。でも、その直前に聞いた天使ガブリエルの「わたしは、主の前に立つガブリエルです。神には不可能なことはないのです」という力強い証しが、彼女の背中を押したのでした。ガブリエルの証しは、天地創造、モーセの出エジプト、ヨシュアのエリコの城壁陥落、巨人ゴリアテに対するダビデの大勝利と、それらすべての神の御業を、神のすぐ横で見てきた者の証しでした。「神はあなたが想像しているよりも大きな方ですよ」と。そうなんだ、神は自分の人生よりはるかに大きな方なんだ。よし、ならば、この全能の神に賭けてみよう。その思いがあって初めて「従います。この身にそのことが成りますように」とマリアは告白できたのでした。 クリスマスの最も驚くべきポイントは、この宇宙を創造された方、全知全能の神、栄光の満ちあふれた方、統治の終わることのない、王の王、主の主であるイエスキリストが、赤ちゃんとしてこの世に来られたということ。もっとも偉大で大きな方が、私たちのために小さなものとなられた。それはこの世の終わりに、私たちが神の前に立った時に、私たちが大きなものとなれるため。そしてそのために、イエスキリストがまず十字架の上で小さなものとなられた。これがクリスマスの一番衝撃的なストーリーなのです。今年のクリスマスが、この衝撃を味わうクリスマスとなりますように。そしてこのグッドニュースを、私たちの大切な人たちに、愛と勇気と希望をもって分かち合っていきたいと思います。
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ヘロデ王は、神からの預言者、バプテスマのヨハネを殺害します。が、その動機は、ただ酒の席での失言の埋め合わせでした。踊りを踊った少女に、「褒美として何でも与える」と公言し、それに対して、いつもヨハネに苦言を呈されてきたへロディアが、「ヨハネの首を」と娘に言わせたのです。へロディアはヘロデと道ならぬ関係にあったので、それを指摘するヨハネがうっとうしかったわけです。ヘロデは客の手前引くに引けなくなり、ヨハネの首をはねます。そんなどうしようもない罪を犯したヘロデでしたが、彼はヨハネのことばを当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたと聖書に書かれています。それは「悔い改めて福音を信ぜよ。ならばどん罪でも赦される」という福音の核心にヘロデはすでに肉薄していたということ。そして、この「どんな罪でも」には、このヨハネ殺害という最低最悪の罪も含まれていたのです。 その後のヘロデのことは聖書には書かれていません。が、「アンティオキアには…領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師などがいた」と聖書にあります。領主ヘロデとはこのヘロデのこと。サウロとは後のパウロです。パウロにつき従う伝道者が、この血塗られたヘロデの家系から生み出され、「どんな罪でも赦される」「だから悔い改めよ」と共に叫んでいたということ。神の紡ぎ出す物語は何と驚きに満ちた物語でしょうか。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるお方。ですから、自分だけは関係ないと思ってはいけません。すべて人が、この驚きのストーリに招かれているからです。石ころ人生、がれき人生が、ダイヤモンド人生に変えられる。それはただ、主イエスの十字架の血潮によること。そしてその始まりが、クリスマスなのです。
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今年一年を振り返って、どうでしょう。あなたの祈りはかなえられたでしょうか。それとも、ずっと祈っている祈りなのに、今年もかなえられずに終わりそうだという状況でしょうか。両方あると思います。後者については、神は自分のことを忘れてしまっているのではないかと疑いたくなるような時さえあります。でも実際は、神が忘れているのではなく、それ以上に、私たちが、自分がこれまで祈った祈りを忘れていることのほうが多いのではないでしょうか。ザカリヤは、昔は子どもを与えて下さいと祈ったはずですがその過去の祈りを忘れていました。が、神はそれを、時を経てかなえてくださったのです。神の時を待ちましょう。神は必ずそれをかなえてくださいます。神は私たちのどんな小さな祈りをもお忘れにならないからです。 アドベントは神の子イエスのご降誕を待ち望む4週間。今年は特別にコロナの中でこのシーズンを迎えます。イエスキリストは、どん底を何度も味わうこの世界におりてきてくださいました。そして苦しみをともに担ってくださるイエスは、それだけでなく、試練を打ち破り、それを完全に乗り越える力を私たちに与えてくださいます。「万物をご自分に従わせる御力によって」(ピリピ3:21)・・・これが私たちの復活の力なんですね。キリストの復活を信じ、それを信仰によって心に刻む、そして待ち望む、そんな今年のアドベントになればと願います。
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羊が逃げたら、99匹を置いてその1匹を探すという聖書の話を聞いて「あほちゃうか」と思った。99匹を置いておくリスクはどうするんやと。でもそれほどに、その一匹をあきらめない方が主イエスなんです。そんなことは人間にはできません。イエスは神だからそれができるし、イエスは途中であきらめず、最後まで捜し歩く神なんです。クリスチャンになっても人は迷います。でもその迷いは、死にたくなるほどの迷いではないということ。人はちゃんと悩むことが大事だし、迷うことも大事。それは、それによってはじめてわかることがあるからです。そのうえで大事な次の一歩が安心して踏み出せるんですね。「ここにいたのか?!」と神は、喜んで私たちを担いで帰ってくれる。「お前の人生には価値がある」と言われ、神の肩に担がれて歩む、それがクリスチャン生活なんです。 神の前ではすべてがバレているということ。いい人のふりをしても無理だし、そんな努力は無駄なことなんだと。それがわかった時、なぜかほっとしたと中三の大嶋師は思ったそうです。ああ知ってるんだと。そして「まじですか?こんな俺でいいんですか。本当に愛してくれるんですか?」と問うた。そして「ありがとうございます。」とその神の愛を受け取ったと。僕らにできることはこの2つしかないのかもしれません。そしてこの問答をし続けることがクリスチャン生活なんですね。
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ユダが12弟子のひとりとして選ばれていながら、ほかの11人と違う道をたどった理由は何だったのか?この12人に対する選びにはどういう意味があり、僕らが11人になるには、どうすればいいのか。それを解く鍵は3つです。1つは「イエスに頼ること」です。クリスチャンとは人生の主導権をイエス・キリストに明け渡し、自分の車の運転席に、自分ではなく、イエスに座っていただくことを決めた人たちです。またパウロは、「イエスキリストのしもべ、パウロ」と、常に自分のことをそのように自己紹介をしましたが、しもべとは奴隷のことです。奴隷とは主人次第でどうにでもなる存在。でも彼は、イエスが彼の仕えてきた最高の主人であり、彼をベストの状態で生かすことのできる方だと知っていたのです。あなたの運転席には今、誰が座っていますか?またあなたは、どのように自己紹介されるでしょうか? 2つ目は、「イエスの贖罪を知ること」です。イエスは、その十字架の贖いを、自分の罪のためになされたものであることを信じる人を、一人残らず、それも信じた瞬間に救い永遠の命を与えるために、この世に来られました。イエスの十字架の死は歴史の事実です。これが自分の罪のためだったと本当に知るなら、僕たちはそれに対し応答をしないわけにはいかないのではないでしょうか。贖罪の業の意味を知ることは、あなたを救いなら漏れさせないための大切な要素です。 そして3つ目が「一人にならないこと」です。「下がれサタン」とペテロはイエスに厳しく叱責されましたが、それは愛の叱責でした。そしてそのあとユダと同じく十字架直前に大失敗をしましたが、それでも主に立ち返るチャンスを最後まで失いませんでした。が、それは共同体から最後まで離れなかったからです。あなたは今、助け合い、励まし合う、愛の共同体につながっているでしょうか。 この文章を読むあなたは、主の選びの中にいます。私たちが今なすべきことは、この選びの意味を知り、それに能動的に応えることです。あなたの運転席をイエスに完全に明け渡しましょう。
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僕たちは、礼拝出席も、「宗教的」な正しい行いの一部として、行っている場合があります。「宗教的」な理由で礼拝に出席するとは、自分が出席しないなら、神やほかの人がどう反応するかということを恐れて出席する場合です。あるいは、出席することでなにか神から受け取るものがあるかと期待して出席する・・・。でも、そこには本当のキリスト教を表すものは何もありません。それとは対照的に、十字架によってもたらされたイエスキリストの新しい現実の自由の中で、礼拝に主席する。この新しい枠組みに、パウロは私たちを招いているのです。 ペテロは、割礼派の圧力に屈して異邦人と一緒に食事をしなくなったことがあり、そのことをパウロに糾弾されました(ガラテヤ2:11-13)。イエスは、パリサイ人が「罪びと」と断じた取税人や遊女たちと食事をすることで、当時のユダヤ人が持っていた「宗教」の壁を取り崩しました。しかし、ペテロは「宗教」に屈し、ふたたび自分と異邦人の間に線を引いたのです。このことをパウロはものすごいテンションで攻撃しました。それは、一旦そのことを許したら、イエスキリストの福音が骨抜きにされてしまうからでした。マルチン・ルターは、この時、その後の福音の全運命は、パウロ一人の肩にかかっていたと言っています。僕たちはそのテンションをもって、宗教という奴隷のくびきに対抗しているでしょうか。 また我々は、この事実に気づいてもすぐさま宗教や自己義認の世界に引き戻される弱さを持っています。このサタンの策略を暴き出す最高の方法は、「宗教化」した自分に気づいた時、それをフフっと笑うことだと、デイビット・ギルという学者はユーモラスな提案しています。この「微笑み」こそが、私たちの教会を刷新し、宗教を排し、キリストにあるいのちを保ち続ける鍵なのではないでしょうか。
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「人生の砂漠」のようなところを通らされることは、誰にでもあります。砂漠とは、コントロールのきかない厳しい環境のこと。でも、たとえそんなところに置かれても、絶望しないことです。信仰の先輩たちは皆、それぞれの砂漠を通りました。神はそこで、私たちに祈ることを教えてくださるのです。そして何に渇いているのか、本当に何が必要なのかを教えてくれる。ですから砂漠は「心の窓」と言うことができます。 この砂漠で私たちのすべきことは、まず本当に心の中にあることを、隠さず神に求めることです。期待し、望み続けること。もちろんこれにはリスクが伴います。だから同時に、明け渡すことも必要です。降伏する。サレンダーする。つまり「今」にこだわらない。時と形を神にゆだねるのです。そして3番目にすべきことは「見る」ことです。あなた物語の中におられる、ストーリテラーに目を注ぐのです。理想と現実のギャップはつらく、いつまでもこの両者は出会わないのではないかと思うこともあります。が、祈りをもってそれに向きあい続けるなら、その二つが思いもよらない形で出会い、「ああ、これは神様しかない!」と、感謝と賛美の湧き出るときが必ず訪れます。神はあなたを驚かせようと、今その準備を着々と進めておられます。