ヨセフは幼いときは、実に嫌な少年でした。しかし、多くの苦労を経て謙遜な人柄に変えられ、その謙遜さゆえにファラオの好意を得、今度はファラオの決断によってヤコブ家の一族はエジプトに迎えられるのです。それに先立って兄たちの悔い改めがあり、ヨセフとの和解があり、ヤコブ家は祝福の発信源となって行きます。僕たちは祝福を味わい、流し出したいと願いますが、そのために必要なのが、この悔い改めと、謙遜と、和解なのです。 ヨセフは自分を売った兄たちを無条件に赦します。が、一つだけ依頼事項がありました。それは「道中、言い争わないでください」ということ。もし、道中、兄たちが「ベニヤミンだけなんで晴れ着が多いのか」と言い争ったらどうなったでしょう。また、ヤコブが、兄たちの話を聞いて、「それにしてもお前たち、よくもわしを長年だまし続けたな」と文句を言ったらどうなったでしょう。これらの言い争いは、祝福の流れをせき止めるのです。 ヤコブの発した「十分だ」(45:28)は、心に争いが無く、人との間にも争いが無いところに初めて流れる祝福と、それへの応答の言葉でした。逆に悔い改めも謙遜もなく、内と外に言い争いがあるなら、そのバグにより祝福システムは機能停止します。ヤコブはこれまでのヨセフへの偏愛がどれほど兄弟間に確執を生んだかを知って謝罪し、しかしそれをも用いて民族救済をなさる神の摂理に驚き、御名を崇めたに違いありません。アブラハム、イサク、ヤコブの祝福に与るとはどういうことかが、ここに描かれています。
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ユダは、イスラエル民族を救うために、ベニヤミンの全責任を自分が取ると、父ヤコブに宣言します。そしてベニヤミンが「銀の杯事件」で牢屋に入れられかけた時、彼は自分がその身代わりになることをヨセフに申し出ます。この自分を差し出す姿は、全人類の身代わりとなった主イエスの型でした。それゆえに、神はユダとその子孫を大いに祝福し、ダビデの家系、主イエスの家系とされたのです。 神はもともと人間という機械を、神ご自身を燃料として走るように設計されました。我々は、つい世の達成感、自己実現、人の評価、勝ち負け、出世、お金を燃料に走り出してしまいます。が、それで一回方向付けをすると、あとで軌道修正が効かないのです。でも「神燃料」なら、聖霊の照明が進むべき方向を教えてくれます。メーカー供給の純正燃料で、日々たくましく、正しい方向に、自分の人生をハンドリングして行きたいものです。 「わたしはヨセフです」のカミングアウトは兄たちにはショックでした。が、復活のイエスと出会った初代教会と等しく、彼らはそこで完全な赦しを宣告され、恐れからも解放されます。まったく別の存在に生まれ変わる、これが回心の力です。さらに、神は、我々の夢を守り、我々の自由意思を通して、いや我々の奔放な自由にもかかわらず働かれることがここから分かります。それに必要なのは、この神の摂理に対する我々の信頼・信仰です。(ローマ11:36)
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ヤコブは、ベニヤミンだけは失いたくなかったから、息子たちにエジプトに食料を買いに行くよう命じながらも、愛妻ラケルの子ベニヤミンだけは連れて行くなと言います。が、一家の救いのためにこのベニヤミンを手放すことを決断した時、歴史が動いたのです。そしてその結果、彼はベニヤミンのみならず、もう死んだと思っていたヨセフまで取り返します。あなたが最も愛するものを神にお捧げするなら、神はそれに倍するものを持ってあなたを祝福してくださいます。 ジョン・ニュートンは、1747年の大回心のあとも奴隷船の船長を2年続け、退職後も同船舶会社の株の配当で10年間生活をします。それはなぜか。彼は長年、自分は奴隷を搾取する側だと思ってきましたが、実は自分が「奴隷」だったことに気づくのに12年かかったのです。船長職も株も手放すのは痛手、マイナスです。が、それを手放すことで本当の実りを手にするのです。あなたが大切にしているものは何でしょう。奴隷船、ベニヤミン号は何でしょう。 主イエスの取られたロスと、主イエスの受けられた苦痛(ピリピ2:6-8)を理解して、僕らは初めて自分のロスも苦痛も実は大したことはなかったと知ります。そして何かを成し遂げた後もその栄光を横取りすることはありません。すごいのは自分じゃなく神様だと知っているからです。それゆえにあなたの栄光はますます増し加わる、これが神の予定されているあなたの人生です。奴隷船を降りて早くこの神の大船に乗り換えたいものです。
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ヨセフは囚人から、一夜にして総理大臣となります。それは彼が、これまでの不運の連続としか思えなかった人生を通して、謙遜な人間に変えられていったことによるものでした。その後ヨセフには2人の息子が与えられます。長男はマナセ。これは過去のすべての恨みつらみを神が忘れさせてくれたという意味です。神の愛と神の摂理を信じるとき、初めてそれが可能になるのです。次男はエフライム。これは豊かな実りを表します。そしてそれは、「マナセ」があったからこそ、つまり過去の清算ができたからこそ可能となったのです。 ヨセフは元々、父の偏愛をベースに、間違ったアイデンティティーを持っていました。が、種々変遷を経て、父の家でもない、エジプト文化でもない、「主がともにおられる」というところに最終的なアイデンティティーを発見したのです。私たちのいのちと、真のアイデンティーは、キリストのうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。「あいつが赦せん」「あの事さえなかったら」の思いはサタンの手です。過去に集中させることによって、「いま」を見させないのです。「いま」は英語でpresent。これは神様からの確かなギフトです。 ロビン・マイヤーズは「目が開かれる人にとっては、聖なる舞台が常に上演中だ」と言っています。またジョセフ・ベイリーは「人生はいまの連続だ」と言っています。「いま」「ここ」に展開される、神脚本、神演出の舞台に驚き、エンジョイしてほしいと思います。そこに全身全霊を注ぐなら、全てが輝き始めます。神様はどこにあっても、あなたに最高のドラマを見せてくださいます。あなたが「いま」「ここ」にいきるかぎりにおいては。大事なのは、「いま」「ここ」にあなたがいるかということです。心もからだも。
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ヨセフは父ヤコブの人間的な愛情の上に間違ったアイデンティティーを築き、高慢に育ちました。そして、しなくていい「夢の報告」までし、いよいよ兄たちに憎まれます。夢を見ることはいいこと。でも、将来神の器として用いられ、その夢を成就するためには、試練を通して砕かれる必要があったのです。それがエジプトに売られ、濡れ衣で投獄され、2年間忘れ去られることでした。それらを通してヨセフは、神だけを頼る者へと変えられます。「主がヨセフとともにおられたので」はその大逆転劇の始まりの合図でした。 ヨセフは釈放後、総理大臣となります。この大抜擢の背景は、夢解きと進言が素晴らしかったこともさることながら、彼が自分との約束を忘れた献酌官長を責めず、ポティファルの奥さんの濡れ衣事件を赦したことにあるのではないかと言われます。なぜなら自分を売ったお兄さんたちのことも、「わたしをここに遣わしたのは、あなたがた(兄たち)ではなく神です」とヨセフは赦したからです。練られた品性は人に感動を与えます。ヨセフも試練によって作り変えられました。試練と、それによる成熟を喜べる人は幸いです(ヤコブ1:2-4)。 ヨセフはイエスの型と言われます。蔑まれ、捨てられ、でも最後は支配者となって全人類を救うイエス・キリストの型です。我々も大きな夢を見て、「神のなさることは、時にかなって美しい」と、神のタイムテーブルで、その実現に向けて神とともに歩んでいきましょう。そのために整えて頂きましょう。なぜならあのアンバランスだったヨセフが整えられ、その後の練られた品性が人を動かし、世界を変えたからです。ゆだね切る時、主は用いられます。
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神は、全宇宙の所有者、兼支配者です。信じる私たちは、この神の子とされ、イエスと並ぶ共同相続人とされています。でもその前提が「苦難も共にする」ということ。十字架が無ければ冠もない。神の子とはそういうものなのです。あなたは、このイエスの言う「軽いくびき」を、ご自分の十字架を、そこから来る召しをもう発見されたでしょうか。 イエスに対する裏切りに落ち込み、「次は俺たちが殺される番かもしれない」と、部屋に鍵をかけておびえる弟子たちに、復活のイエスはまず「平安があるように」と言い、伝道に遣わされます。なぜ、ここで伝道なのか。それは新しいミッションを与えられることが、彼らにとっての最高のなぐさめであり、励ましであり、元気の素だったからです。 愛され、赦されている事実を彼らは確認し、「だれにも指一本触れさせない」とイエスが言われたその平安を手にして、彼らははじける思いでこの新しい任務に出て行きました。我々も、今聖霊を受け、世界大の神の御手にすっぽりはまって、神の召しへと、ターボエンジン搭載で、遣わされて行こうではありませんか。神から預かったものを、神のために使わせて頂こうじゃありませんか。
『聖霊がなければ「イエスは主」とは告白できない』(Ⅰコリント12:3)とありますが、この「告白」は、口と心が一致した発言を意味します。かつ当時はキリスト教迫害の嵐が吹き荒れ、ローマ人は「カイザルは主」を合言葉とし、それによって命を守る時代でした。私たちは迫害のない時代に生きています。が、お金や仕事が主となってはいないでしょうか。裏表のない「イエスは主」という言葉を告白し、そのことを、生き方を通して示していきたいと思います。 青虫が蝶になるためには、さなぎを通らなければなりません。さなぎは英語でchrysalis、この語源はChrist、キリストです。罪でがんじがらめになっていた自分を知り、でもそこでしかお会いできない方とお会いし、悔い改め、2次元の青虫状態から、大空を飛び回る蝶に作り変えて頂ける者は幸いです。そのスタートは、神を知り、自分を知ること。そしてこれを為してくださるのが真理の御霊なのです。 紙のグライダーを遠くまで飛ばそうと思ったら、先っちょに鉛製のおもりを付けます。あなたにも、人生を邪魔しているとしか思えない重荷があるかもしれません。その意味を、内なる聖霊に問うてみてください。そして信頼して委ねましょう。その重荷が、時を経て、グライダーのおもりとなって、あなたを遠くまで飛ばしてくれます。聖霊は、言葉にならないうめきをもって、今日もそのあなたの重荷についてとりなしてくれているからです(ローマ8:26)。
黙想などというと特別な事のように思われるかもしれませんが、それは何かを繰り返し考えること。そして心の中でそれがぐつぐつ煮えていくことを言います。聖書の黙想を言うとき大切なのは、ある節を繰り返すうちに心の中で何が起こるか。そしてそのみことばが心の中で熟成した時、初めてそれがあなたに影響を与える思考となり、その思考が人生を形づくるのです。 アブラハムは約束の息子誕生を24年待ち、イスラエル人は奴隷から解放されるのに400年、モーセは荒野脱出に40年待ちました。このように聖書では「待つ」という行為は「信じる」とほぼ同義語と言えると思います。『「しかり、私はすぐに来る」アーメン、主イエスよ、来てください』とある通り、究極的に僕らの待つべきものは再臨のイエスだと聖書は言います。 仕事は自分で選ぶもの、召しは与えられるもの。そして召しに命を懸けるパワーの源が「すでに勝利した」という週ごとの伝令です。礼拝を通して運ばれてくる伝令を聞く中で、主の勝利の隊列はどこを向いているのか。仕事をする中でそのベクトルを発見し、神に励まされて歩みだし、神を賛美(拡大)しようではありませんか。舟を降りると、私たちは変えられるからです。
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ペテロはイエスの「来なさい」ということばに応えて、舟を降り、水の上に出ました。これは、まず召命がありその応答としての行為だったと言えます。さて、あなたの仕事に神の召しはあるでしょうか。職業は普通、自分のために自分で始め、一過性で終わるものですが、召しには「与えられた」という確信があり、それを為すための力が神から与えられ、その行為は永遠に覚えられるのです。 ペテロも「水の上でも沈まない」という信仰を持って、足を水につけました。足を水につける行為は、信仰抜きにはできません。ところで、あなたの生活の中に、信仰なしではできないことはあるでしょうか。「今日どこで足を水につけることができるでしょうか」と問い続けることは大切です。それはあなたを祈りに導きます。なぜならそれから先のことは神の助けなしではできないからです。 召命に応える時、人は恐れを覚えます。お父さんがプールの中から「飛び込んでおいで」と呼んでいます。その子が飛び込めば、それは大きなブレークスルーです。その最大の収穫は、お父さんが信頼に足る方であることを知ることでしょう。そして、もし招きに応え、恐れを乗り越え、神に信頼してチャレンジするなら、たとえどんな小さな行為でも、それは永遠にあなたのものになると主は言われます。
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僕らの人生は、なんと望みのない、打ちひしがれることの多い人生かと思います。僕らは弱い存在です。なぜならもとは地の塵だったと聖書に書かれているからです。でも問題は、僕らがその「過去」に生きるのか、それともすでに復活したイエスが僕らの横に立たれ、語り掛けておられるこの「現在」と、さらには十字架によって完成された栄光の「未来」に生きるのかどうかということです。 エマオの途上でイエスと出会った時、弟子たちはうなだれていました。それは彼らが「よい預言者だった」「十字架に掛かった」「墓からもいなくなった」と、徹頭徹尾、た、た、た、の「過去」に生きていたからです。しかしイエスが共に歩き、聖書を解き明かすや、彼らの心は内に燃えたのです。そしてエルサレムに走りました。僕らも聖霊に燃やされて、Good Newsのために走る者になりたいと思います。 あなたは果物の王様ドリアンです。「パパイヤのほうが好き」と言う人もいるでしょう。でも、あなたはあなた。パパイヤにはなれません。こうなったら、人の評価なんて二の次です。み言葉と聖霊に励まされて、ドリアンの実を、思いっきり結んでやろうじゃありませんか。神の望みは、あなたがもっとあなたらしく生きること。神は「よくやった」と、あなたに伝えたくて仕方がないのです。