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あなたは自由ですか
ヨハネ8:30-38

自分の会社には夢がない、将来がない、ここに居るのはみこころじゃないと思って、悩むクリスチャンビジネスパーソンは多いと思います。でも、知っておきたいのは、あなたをそこに遣わされたのは神だということです。神はあらゆる仕事を祝され、喜ばれ、その更なる祝福のためにあなたをそこに送られました。 すべての仕事には堕落と回復の2つの要素があります。イエスキリストは、全被造物の回復のためにこの世においでくださいました。そしてあなたを通して、そこからこの世界を創りかえようとしておられます。今あなたの職場で、あなたに期待されている回復の業は何でしょう。 神のドラマに期待して、ストーリーテラーである神に信頼して、回復の使者として、今日イエス歩みの超ミニチュア版を歩ませて頂こうではありませんか。サイズはミニでもベクトルは同じです。その時あなたは気づくでしょう、あなたが完全な自由を手にしていることを。 世には二種類の自由がありますが、それは離れる自由でなく、近づく自由。ただ罪を犯さない自由ではなく、「アバ父よ」と、大胆に神に近づく自由。このことのために自分は今動こうとしていると言える、積極的、具体的な自由。主に在る異次元の自由がここにあるのです。

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この世のものではない者として
ヨハネ8:21-30

イエスはご自分を「この世のものではない」と言われました。が、これは、我々クリスチャンのことでもあります。それは、クリスチャンは未来という隣の庭に植わりながら、枝は垣根を越えて現在という空間に伸びて来て、そこで愛と信仰を結ぶ人たちだということです。さらにコロサイ1:5「あなたがたのために天に蓄えられている望み」と複数形で言われるように、それは共同体で分かち合う恵みです。希望は僕たちを結び合わせ、互いの愛を増し加えます。世から呼び出された者たち「エクレシア」をひとつにするのが、この希望なのです。 僕らは人生で不幸な出来事が起こった時、「神様がおられるのにどうして?」と思います。が、その疑問には答えられません。イエスは盲目の男性の理由について弟子に聞かれましたが、それには答えず、「神の栄光が現れるため」とだけ答えました。義人ヨブも58回「なぜですか」と問いかけたけれど答えは与えられず仕舞い。聖書はこのように、過去でなく未来に目を向けることを促します。不幸は人と人をつなぎ、人と神をつなぐのです。ヨブが癒されたのは、理由を知ったからでなく、神を見たことによってでした。 ともにおられる神、インマヌエルの神こそが僕らの生きる道なのです。僕らは何かあると、「神様働いて!」と叫びます。が、神は直接働くことより、神によって変えられた人を使って歴史を変えることを喜ばれるようです。神はあなたとともに働きたいのです。雨は続きます。でも蛇の目傘でお迎えに来てくれたお母さんを幼子が喜ぶように、神の臨在を喜んで、雨の中を進んでいこうではありませんか。あなたは今日、どこに遣わされますか?神はそこで、あなたを通して世界を変えようとしておられます。

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祈れない病・シニシズム撃退法
Ⅰサムエル17:22-28,43-47

ダビデとゴリアテの戦いの場面。兄のエリアブは、弁当を届けに来たダビデが、ほかの兵士と話をしているのを見て、「いったいおまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、誰に預けて来たのか。私には、お前のうぬぼれと、心にある悪がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう」と見下して言います。しかしダビデはそんな皮肉には耳を貸さず、羊飼いの自分の特性を生かして、杖と、5つの石で、ゴリアテに立ち向かいます。 エリアブは、自分を偉大な戦士だと思い、一方でダビデの羊飼いの仕事を見下げていました。しかし実際のエリアブは、ほかの兵士と一緒に宿営で震え上がっていたのです。この表と裏のギャップ、乖離状態がシニシズムです。一方ダビデは日ごろから、外もうちも完全一致の生活をしていました。死の陰の谷に在っても神の臨在を感じることは、彼にとっては普通のことでした。 根拠のない楽観主義は祈りません。が、逆にシニシズムに陥ると祈れなくなります。どちらも神に信頼していないのです。でもパウロは、救い主の血が落ちてバラ色になったレンズを通して、教会を見ていました。私たちも、家庭を、職場を、すべての人間関係を、神の贖いのストーリーからくる安心、根拠ある楽観主義に立って眺め、個別の問題に対処していきたいと思います。

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復活が生み出すコントラスト
マタイ28:1-15

初期のクリスチャンには様々なグループがありましたが、「十字架で辱められて死んだあと神がイエスを復活させた」ことを信じないグループは存在しませんでした。そして1世紀の歴史を調べると、「なぜ教会が誕生したのか」という質問に対して、「イエスの復活によって私たちは存在するようになった」と、全ての初期のクリスチャンは言っています。 しかし一方でイエスの復活を予想して福音書を書いた福音書記者はいませんでした。4つの福音書はどれも、「とんでもないことだとわかっているけど、本当に起きちゃったんだよね」と言っているようです。つまり当時のユダヤの文化脈においては、イエスの復活を巧みに考え出すことは不可能だったということです。 1世紀にキリスト教会が始まったことは事実です。そして復活は、なぜ教会が新しい時代が始まったと信じるようになったかを説明しています。と同時に、なぜイエスの死が不運な出来事ではなく、美しい夢の終焉でもなく、神の救いの御業のクライマックスだと信じるようになったかを説明します。従い復活は確かにあった、そしてその実(フルーツ)がキリスト教会だとNTライトは結論付けています。 逆に復活が無く、キリスト教会が生まれなかったら、人類の歴史はどうなっていたのでしょうか。人権、男女平等、福祉、病院システム、学校制度、これらはすべてキリスト教会がその起源です。つまり、これら全部がない世界がスタンダードとなるわけで、そんなのは想像するだけで恐怖です。復活があってよかった!と改めて思います。

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十字架に見る教会と希望
ルカ23:32-43,46、ヨハネ19:25-27

十字架のイエスとその両脇の二人の泥棒。実はこれが「最初の教会」という説があります。死に直面してイエスと結び付けられている罪びとの集団が「教会」だからです。泥棒の一人はイエスとの会話の中で自分の罪を悟り、またまことの神を知り、その神により頼みます。と、その瞬間、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイスに居ます」と驚くべき確かさで、イエスはその罪びとの今後の歩みを約束される。これが私たちがイエスと為すべき会話なのです。 2つ目の教会は、弟子とマリアへの、十字架からの語り掛け「女の方、御覧なさい。あなたの息子です」から始まります。その「イエスの愛する弟子」はヨハネだろうとされていますが、実際にマリアのお世話をする弟子は、イエスに愛された経験を持つことだけで十分だったのです。イエスは12弟子の足を洗い、この足を洗い合うことを知る弟子たちに、ご自分の母マリアを託した、それが「教会」の始まりでした。 「わが神わが神、どうしてお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスは、サタンに包囲された状態でした。でもその後に「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈られた、これは、サタンの包囲網を突破されたということです。この祈りは元来ユダヤ人の子どもが眠りにつくときの祈りの言葉です。神に委ねるイエスの生き方と神に委ねるイエスの死に方は、共に私たちの理想、そしてそれこそが迫りくる死の包囲網を突破する力なのです。

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イエスは誰?私は何?
マタイ26:20-35

最後の晩餐は、世にも不思議な食事会でした。それは参加した者が、誰もイエスのことを分かっていなかったということ。かつそれ以上に自分のことも彼らは分かっていませんでした。しかしイエスは、どの弟子にも分け隔てなく、パンとぶどう酒を分け与えられました。それが今の聖餐式の原型です。パンは「私があなたのいのちを生かす」というしるしであり、ぶどう酒は「あなたを新しくする契約がここにある」という意味でした。 イエスは、このあと弟子たちが自分を捨てて逃げることを知っていました。そんなイエスの最後の晩餐における思いは、イエスの語った「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈りました」という言葉に込められています。この祈りがあるから僕らは、困難の中に在っても立ち直れるのです。この祈りがあるからこそ信仰を保てるし、この祈りがあるからこそ、兄弟姉妹たちと祈り合い励まし合うことができるのです。 極めつけは、イエスが十字架上で祈られた「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから」の祈りでした。この言葉を聞いた者は皆、この方こそ自分たちを救う大祭司であるということを知ったのではないでしょうか。この祈りがあってこそ、僕らの祈りは祈りとなり、この祈りがあってこそ、その祈りがイエスによって取り次がれて、父なる神のみもとに届けられるのです。

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キリストを乗せて歩む
マルコ11:1-11、ゼカリヤ9:9-10

主の祈りは、覚えにくい祈りです。いちばんよく聞いているはずなのにどうしてかと思います。覚えている僕らも、あまり中身を考えずに、言葉だけ唱えているところがあります。それはこの祈りが、僕らの心から出て来る願望を唱える祈りではないからです。もともと僕らの心の自然な流れに逆らった祈りなんです。 主の祈りは、もとはイエスが天のお父様にささげた祈りです。それを僕らに教えてくださったもの。だから本来この祈りには、僕らの声ではなく、イエスの声が響いているのです。子ろばの背中に乗ったイエスが、僕らに代わってこれを捧げて下さっている。僕らはそれをなぞりながら、この祈りを祈り始めるんです。 僕らはろばです。何のとりえもない僕たちに、イエスが目を留め、そのために使いを送ってくださった。そしてその人に祈られ、伝えられ、イエスと巡り合うことができた。この一方的な恵みに応答するとき、僕たちも神の救いの物語のわき役としていただけるのです。 弟子たちにこの祈りを教えられたイエスは、エルサレムに向かわれます。十字架に向かう旅です。でもそこで終わらない。復活があって今もその旅を続けておられるのです。そのイエスの肉声を聞くとき、イエスの声が僕らの声になり、イエスの歩みが僕らの歩みとなる、これがクリスチャンの歩みなんじゃないでしょうか。

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神は気前のいいお方」
マタイ20:1-15、詩篇23:1-6

神は、あなたにとって、どのようなお方でしょうか。厳しいお方? ダメな人には無慈悲な罰を下すお方? それともあなたを愛し、あなたの喜ぶ姿を見て一番に喜ばれるお方? この、あなたの持つ「神様イメージ」が、あなたの人生を決定すると言っても過言ではありません。マタイ20章の夕方5時から働いた労働者が、朝から働いた者と同じ1デナリをもらったのは、ただ主人の好意によるものでした。たとえ夕方5時からの労働者の様に大した働きはできなかったとしても、そんなあなたも喜ばせたいと、神は思っておられるのです。 紀元2世紀のクリスチャンは、あらぬうわさを流され、偽善者と中傷されました。が、ある人たちには魅力的に映ったようです。なぜなら彼らは、迫害する者にも礼儀正しく、常に天の故郷を夢見、すべての人から迫害を受けたにもかかわらず、全ての人を愛したからです。そして何も持たない彼らが、多くの人を富ませている姿。それを見て、「自分たちも彼らと同じものを持ちたい」と思った人たちが起こされ、大迫害の中にあってクリスチャン人口は急増したのです。 世の貪欲、恐れ、偏見に適応しないクリスチャンは、「変わった存在」です。それは、神ご自身が「変わったお方」だからです。赦す価値のない私たちのために、愛するひとり子を死に渡された天の神様は、人間の理解を超えています。それは、この神が、人間「が」創り出した神ではないからです。学校、病院、公共の福利制度などが確立するのに1800年の時を要しました。全ては教会がスタートです。このように、「本物」が浸透するには時間がかかるということ。それを思うと、伝道も、もっと腰を落ち着けてやればいいのだとわかります。

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光が見えますか
ヨハネ8:12-20

「私は世の光です」と言われるキリストは、私たち罪びとを照らし、いのちを与える光源として来らました。そしてこの光源は、さらに無数の小さな光源を生み出しているのです。教会で、あの人が来ていると思うだけで、心の中にぽっと光がともるような人が居るんじゃないでしょうか。あるいは自分が暗い思いになった時、あの人のことを思うと、パッと明るい気持ちになれる・・・。実は彼らは次なる光源をどんどん生み出しているのです。「わたしに従うなら、決して闇の中を歩まない」とのイエスの宣言は、クリスチャンであるあなたは光の子であって、次なる光源を再生産中だというメッセージです。 またイエスは、天の父なる神こそがご自分の証人であるという確信に満ちて、この世での人としての人生を生き抜かれました。一方で私たち日本人は人の評価を大切にします。人の賞賛、誉め言葉は、成功の証しであって、私たちのプライドはかなりの部分がそれで満足されます。しかしボンヘッファーは、「十字架の姿は、成功というものを基準とする考え方を無価値にする」と言いました。神のみが自分の証人であって、それ以外は求めないところに、本当の自由があり、真の「神にある成功」を生み出す地盤があるのです。この主のパラダイムシフトは、私たちへのチャレンジです。 ところで礼拝の最後には「祝祷」というのがあり、その中で、「主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」という言葉が語られることがあります。これは神が私たちを照らし出し、送り出すという、まさに輝きを持った祝福の祈りです。「私は世の光です」と言われる方の招きと、その真実の光の中に立つとき初めて、私たちは、何かを自分たちで頑張ってするというのではなく、自然体で光り輝く者となり、決して闇の中を歩まない「主の灯(ともしび)」としての人生を、体現し始めるのではないでしょうか。

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祈りをあきらめない
ルカ18:1-8

やもめの女性は、不正の裁判官に、今不当な扱いを受けているから正しいさばきをしてほしいとしつこく迫ります。イエスはこれを指して、これがクリスチャンの祈りに対して本来あるべき態度だと言います。なぜならこのしつこさは、「裁判官の力」に対する信頼から出たものだからです。この方なら何とかしてくれる、この方には解決する力があるという信頼です。この裁判は、やもめにとって、自分では動かせない山だったのです。 イエスはマルコ11:22で、まず「神を信じなさい。そのうえで山に命じなさい。すると山は動く」と言われました。ところが私たちは、祈るとき、どうも目の前の問題ばかりに目を取られ、神を見ていないということがあるのではないでしょうか。山を見る前にまず山を動かすことのできる方を見る。つまり神の力と、神が良きお方であると信じることが、なにより大切なのです。 イエスは底点に立たれました。つまりどん底で、全ての失望と落胆を味わいつくされました。そしてその真っ暗闇の中から、十字架を通して光を見られたこの方が、「失望せず祈り続けよ。祈りには力があるから」と言われるのです。試練は変わるチャンスです。そして祈る者に変えられた時に、私たちは、この時代に在って未来に光を見、また山が動くのを見るのです。