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解放者イエス
ヨハネ8:1-11

姦淫の場で捕まえられた女がイエスの前に引き出された時、パリサイ人、律法学者たちは、「あなたが処罰の方法を決めなさい」と迫りましたが、イエスは彼らに背を向け、地面に何やら書いておられたと聖書に記されています。要は彼らを無視したということ。この後にも、イエスが何かを問われて「返事をされない」という場面は出てきますが、全て捕えられさばかれる場面です。 僕らは、祈っても神に答えられないと文句を言ったり、愛が足りないと神をさばいたりすることがあります。しかしさばく者に対して神は背を向けられるということ。また、人をさばくというのは自分へのさばきを招く行為だということを覚えておきたいと思います。 「さばく権利を持つのは罪のない者だけだ」と言うイエスのことばで、周囲にいた群衆は全員帰宅します。そして最後に「わたしもあなたをさばかない」と言って、イエスは女を解放しますが、その後、十字架にかかって、こともあろうか彼女の身代わりでもあるかの如く殺されます。それを知った女は、イエスの赦しと解放の意味を初めて理解し、その後教会に加わってこの物語を伝える者になったのではないでしょうか。 ここに私たちの物語があります。あの方が自分の罪の身代わりになって死んでくださった。私たちはここに何度も何度も戻って来る必要があります。そして、「もう罪を犯さないように」と言われた言葉に突き動かされて生きるのです。神や人をさばかず、神の喜びをわが喜びとする人生、そこにこそ解放された者としての本当の生き方があるんじゃないでしょうか。

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ニコデモの昨日・今日・明日
ヨハネ7:40-53

ニコデモは、パリサイ人かつ評議員でしたから、グループ的にはイエスの敵、祭司長たちの仲間でした。が、そのニコデモが、「本人から直接話を聞かずに逮捕するのは、律法違反だ」と、律法を盾に彼らに反論したのです。ニコデモは以前イエスに会い、直接交わったことがあり、それ以来、彼の中に大きな変化が起こっていたのです。彼がモノ申したことで流れは変わり、祭司長たちの謀議は成立せず、解散となりました。当時のニコデモは成長期のクリスチャン、そしてその後彼は、イエスの埋葬を手伝うまでの信仰者に成長します。敵陣の中にも信仰の友あり。私たちは、遣わされた場所で伝道するとき、四面楚歌のような状況をしばしば経験をします。が、「この町に私の民はたくさんいるから」と主は言われます。そんな友は見つかりましたか?祈り合い支え合うことで、私たちは大きな力を得るのです。 使徒2章では、キリストの公開処刑のたった50日後に、3000人のキリスト者がひとところに集まり、仲間と交わり、祈り合っていたとあります。外は迫害の嵐です。でも、その時すでに、励まし合い強め合う共同体が存在したということです。そして、それこそが、その後の世界宣教の力となりました。ボンヘッファーは、「集まることと、一人で神と向き合うことの両方が、キリスト者の成長には不可欠だ」と言いました。TCCは都心に遣わされる皆さんを励ますコミュニティーでありたいと願っています。あなた自身から、また職場から、イエスのいのちの水の川が日本の津々浦々に流れていく。たとえ逆風が吹く中でも、そんな主のbig pictureに、共に歩ませて頂こうではありませんか。

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生ける水の源
ヨハネ7:37-39

イエスは仮庵の祭りで、「私に来なさい。私から飲みなさい。そうしたら、あなた自身が生ける川となって祝福を流し出すようになるから」と言われました。「イエスに行く」とはどういうことなんでしょう。教会に行くことでしょうか。違います。「イエスから飲む」とはどういうことでしょう。これも、聖餐式でぶどうジュースを飲むことではありません。 それは自分の頑張りや良い所に期待する思いを一切捨てて、一罪びととして御前に進み出て、自分の持っている重荷を、中でも罪の重荷を、イエスにあけ渡すことです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」の招きに応じることです。そして、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのです」の、イエスの宣言を聞くことです。このイエスの宣言は、おのれの罪に泣いた者だけが喜べる宣言なのです。 パウロは「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはおれないのです」と言いました。彼は頑張って、その働きをしたのではなく、ただうれしくて抑えることができなかったのです。そして喜んだ者だけが、パウロの様に癒され、満たされ、そうせずにはおれないほどに、良い働きをする力にみなぎるんですね。あなたはイエスに来ましたか。イエスを飲みましたか。イエスの水があなたから流れ出ていますか。

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もうすこしの間
ヨハネ7:25-36

僕たちは生活の中で、思い描いて来たことが進ます、どうしてこんなに赤信号が続くのかなと、ふと立ち止まって考え込むことがあります。しかし、クリスチャンが神のみこころにかなう生き方を思うなら、なおかつ自分の人生を通して神の栄光を現したいと願うなら、あなたの人生はすでに神の盤石の守りの中にあります。だから、赤信号には赤信号の意味があるのです。「神様それは何ですか?」と、そんなときは問うてみることをお奨めします。動機や思い違いが正されれるまで、それは続くかもしれません。が、とにかくそれは神に立ち返るチャンスです。「赤信号 祈りに導く 神の声」それまで見過ごしてきた神の恵みを振り返り、また、何も慌てることはないんだよ、そのままのあなたが愛されているんだよという、神の語り掛けをそこで聞くことでしょう。 さらにイエスは、「もう少しの間が残されている」と言われました。そして「まず神の国と神の義を求めなさい」とも。それは、花婿なるキリストが到着するまでは「もうすこしの間」しか残されておらず、この間に、全力でメシアを探し出せ、見つけ出せということです。それを今日するか、それとも明日するか。まずやるか、それとも後にまわすか。そこに大きな分かれ目があります。「明日」あるいは「後で」と言うのは、言い換えれば、福音の招きを抽象化して、あえて聞かないようにしている状態とも言えます。イエスは「今日」を求めておられます。「まず第一に」とは、今あなたに起っている事件の中に、福音を取り入れることです。赤信号の意味を真剣に問うことです。どうか僕たちが、「もうすこしの間」に、救い主を見つけ出すことができますように。

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正しく判断するために
ヨハネ7:14-24

私たちは、たとえルールにのっとったことで、人々が口をそろえて「良い」と言ってくれることであっても、間違ったことを習慣的にやってしまっていることがあります。それを振り返るポイントは、それが愛から出たことであるかどうか。もし愛でなく、欲や、プライドや、個人的なこだわりから出たものであるなら、一旦立ち止まって考えなおす必要があります。逆に愛から出たものなら、それがルールや決まり事との兼ね合いで難しいことがあっても、(特にこのコロナ禍の、既存の発想では対応しきれないことが山積している環境下)改めて何が正しいのか、どう進めたらいいのかを、もう一度祈り求めたいと思います。 さらに私たちは、日常生活において、人とぶつかることが多々あります。でもその時、自分は正しい、相手は間違っていると、すぐに断じてしまわず、期待して待つことが大切です。誰に期待するのか?それは相手にではなく、神にです。もちろん最終、相手の悔い改めを期待するのですが、その前に、そう導いてくださる神に期待するのです。これがクリスチャンならではの、ゆとりのjudgement。なぜなら、すべての主権者である神が、あらゆる対人関係をも支配して居おられるからです。そして「もう一年待ってください」と主人に懇願する園丁イエスの存在ゆえに、私たちは、早急なさばきが下されることなく今こうして在るを得ているのです。それを思うとき、私たちは人に対するさばきに、もっと寛容になれるのではないでしょうか。

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わたしの時はまだ来ていない
ヨハネ7:1-13

イエスキリストはご自分の「時」をしっかり持っておられました。それは「なすべきこと」がわかっていたこととも言えます。十字架にかかり、死んで三日目に復活し、天に昇ること、これがイエスの人生目的であり、33年のご生涯はここ一点に集中されていました。ユダヤ人は、すべてに「時」があると考えます。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・・」(伝道3:1-8)と。神がそれらすべてを決めておられ、その「時」にふさわしいことをしないなら、生き生きとは生きられないと考えるのです。さて私たちは、自分の「時」を得て人生を生きているでしょうか。「私の時はまだ来ていない」「私の時は今だ」というメリハリをもって生きたいものです。それは主からのビジョンを頂くときに可能となります。 ところで、イエスの弟たちは、イエスのことを信じていませんでした。マリアをはじめ兄弟たちが、狂ったのではないかと心配してイエスを呼びに来たこともありました。このことは、家族伝道の難しさを伝えています。かつ、それがうまくいかないときの私たちの慰めでもあります。イエスは性質にも、言葉にも、行いにも欠けたところは一切ありませんでしたが、そのイエスにしてこのありさまだったからです。しかしイエスの十字架と復活と昇天後、ヤコブをはじめとするイエスの家族は、初代教会の柱としての、重要な働き手となりました。「時」は不可能を可能にします。それは主のみ業であり、栄光は主のもの。私たちはその「時」を待ち望みつつ、家族伝道にもいそしみたいと思います。そして自らの「時」を知り、主の栄光のために働きたいと思います。

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今日から別の道
マタイ2:1-12、ルカ1:39-42、詩篇113:4-9

マタイ2章には、「ユダヤ人の王の誕生」の知らせを受けて動揺するヘロデ王の姿が描かれています。その動揺するヘロデを見て一緒に動揺したのが、側近の宗教学者と高官たち、そしてエルサレムの住民でした。ヘロデは自分の王位を狙う妻や息子たちをすでに何人も殺害していたからです。ああまた厄介な話が来た…と、不安のさ中にあったエルサレム。方やその対比として「ベツレヘムの村」が登場します。そこはイエスの到来を、静かに、礼拝を持って迎える世界。博士たちはこちらに向かいました。同じ事件の中にある真反対の2つの事象、それがエルサレムとベツレヘムでした。さて私たちはどちらでしょう。今コロナの異変にあって、それでも礼拝を守ることができることは幸いです。エルサレムに在っても心はベツレヘム。異変の中にあっても、主の手に安らぐ者でありたいと思います。 ところで、東方の博士たちは、黄金、乳香、没薬をイエスに献上し、そのあと、別の道から自分の国に帰ったと聖書にあります。占星術の専門家として、これまではこれらを祭儀の道具として使って来たわけですが、イエスに出会い、彼らはその悪霊と偶像の世界と決別して、帰って行きました。別の道を通ること自体が、当時は大変なリスクでした。では彼らはなぜ、そんな危ない「別の道」を選んだのか。それは詩篇113:5-6の「主は御座を高く置き、なお低く下って、天と地をご覧になる」(新共同訳)という、救い主の降誕の預言を、彼らは知っていたのです。静かに眠る幼子に、「低く下る」神の愛と、恵みと、預言の成就を見、彼らはこの神にのみ仕える道に方向転換したのです。さて、このダイナミックな神の愛に出会った私たちは、何を変えていただき、またどうお応えすべきでしょうか。

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闇に光が到来した
ルカ2:1-20

神の勝利って、どうしてあんなに遠慮がちなのでしょう。どうして悪い人たちを、もっとわかりやすくガツンとやっつけてくれないのでしょうか。そしてイエスキリストの降誕は、どうしてあんなに質素だったのでしょう。もっと派手に、わかりやすく、これぞ救世主といった感じで、威風堂々下って来られてもよかったのにと。私もそう思っていました。そうしたら今頃もっと多くのクリスチャンが日本にいたんじゃないかと。でも、それは、神の戦い方を知らないから出てくる疑問だったのです。神は悪人を滅ぼすことによって勝利されるんじゃなく、すべての罪びとを救うことで勝利しようとしておられるのです。だから人間とは全く違った方、神であるにも関わらず、罪ある私たちと完全に一つとなり、その罪からの救いを成し遂げるために来られたのです。 イエスキリストがあんな回りくどいやり方をされた理由、それはやろうとしていることが救いだからです。審きではないからです。そして本当の救いは、超個人的で、目立たないところにあるからです。だから見えない形で神の子イエスはおりてこられ、罪びとの私たち一人ひとりに、二人っきりの会話の中で、つまり祈りの中で語り掛け、力と慰めを与え、悔い改めに導かれるのです。「一人の人が悔い改めるなら、99人の正しい人のためより、大きな喜びが天にあるのです。」悔い改めがあって初めて、この静かなクリスマスの意味が分かります。あなたの悔い改めのゆえに天はどよめいていました。御子は、罪びとを悔い改めさせるために地球に出発しようとしておられた。だからあの日、あのようなとんでもない光と喜びが天にあったのです。

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王の到来の予告」
ルカ1:26-38

天使ガブリエルから「受胎告知」を受けたあと、マリアから出た言葉は「わたしは主のはしためです。あなたのおことば通りにこの身になりますように」でした。が、この告白は、決して簡単ではなかったはず。それはマリアにとっては不都合な内容ばかりが並んでいたからです。マリア13歳で婚約者がいる立場です。そこで妊娠して、どんな言い訳が通じるのでしょうか。対ヨセフ、対両親、町の長老、近所の人たち・・・。律法に従えば石打ちです。でも、その直前に聞いた天使ガブリエルの「わたしは、主の前に立つガブリエルです。神には不可能なことはないのです」という力強い証しが、彼女の背中を押したのでした。ガブリエルの証しは、天地創造、モーセの出エジプト、ヨシュアのエリコの城壁陥落、巨人ゴリアテに対するダビデの大勝利と、それらすべての神の御業を、神のすぐ横で見てきた者の証しでした。「神はあなたが想像しているよりも大きな方ですよ」と。そうなんだ、神は自分の人生よりはるかに大きな方なんだ。よし、ならば、この全能の神に賭けてみよう。その思いがあって初めて「従います。この身にそのことが成りますように」とマリアは告白できたのでした。 クリスマスの最も驚くべきポイントは、この宇宙を創造された方、全知全能の神、栄光の満ちあふれた方、統治の終わることのない、王の王、主の主であるイエスキリストが、赤ちゃんとしてこの世に来られたということ。もっとも偉大で大きな方が、私たちのために小さなものとなられた。それはこの世の終わりに、私たちが神の前に立った時に、私たちが大きなものとなれるため。そしてそのために、イエスキリストがまず十字架の上で小さなものとなられた。これがクリスマスの一番衝撃的なストーリーなのです。今年のクリスマスが、この衝撃を味わうクリスマスとなりますように。そしてこのグッドニュースを、私たちの大切な人たちに、愛と勇気と希望をもって分かち合っていきたいと思います。

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すべての人が」
マルコ6:14-30

ヘロデ王は、神からの預言者、バプテスマのヨハネを殺害します。が、その動機は、ただ酒の席での失言の埋め合わせでした。踊りを踊った少女に、「褒美として何でも与える」と公言し、それに対して、いつもヨハネに苦言を呈されてきたへロディアが、「ヨハネの首を」と娘に言わせたのです。へロディアはヘロデと道ならぬ関係にあったので、それを指摘するヨハネがうっとうしかったわけです。ヘロデは客の手前引くに引けなくなり、ヨハネの首をはねます。そんなどうしようもない罪を犯したヘロデでしたが、彼はヨハネのことばを当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたと聖書に書かれています。それは「悔い改めて福音を信ぜよ。ならばどん罪でも赦される」という福音の核心にヘロデはすでに肉薄していたということ。そして、この「どんな罪でも」には、このヨハネ殺害という最低最悪の罪も含まれていたのです。 その後のヘロデのことは聖書には書かれていません。が、「アンティオキアには…領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師などがいた」と聖書にあります。領主ヘロデとはこのヘロデのこと。サウロとは後のパウロです。パウロにつき従う伝道者が、この血塗られたヘロデの家系から生み出され、「どんな罪でも赦される」「だから悔い改めよ」と共に叫んでいたということ。神の紡ぎ出す物語は何と驚きに満ちた物語でしょうか。神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるお方。ですから、自分だけは関係ないと思ってはいけません。すべて人が、この驚きのストーリに招かれているからです。石ころ人生、がれき人生が、ダイヤモンド人生に変えられる。それはただ、主イエスの十字架の血潮によること。そしてその始まりが、クリスマスなのです。